rewrite:2021.12.23
走り去る、とおく、遠ざかる
はっと気がつくと目の前であちこちから真っ赤な血を噴出させた女が倒れている。変に息を吸い込んだせいで喉が変な音を立てて、その音にああこれは夢でもなんでもないのだと理解した。僕の見る夢に音はない。そうしてこれが現実だと理解した途端、血の気が引いて頭が真っ白になっていく。ああどうしよう、と意味もなく周りを見渡すと大きな姿見が視界に入り、それに僕自身が映り込んだ。手に握る赤く色付いたそれは大きな裁ち鋏で、どう見ても凶器で、くらりと眩暈がする。布ばかり切り裂いてきた裁ち鋏もまさか人間の喉を切り裂くことになるとは思わなかっただろう、僕も思わなかった。よく状況が理解できない。そうしてまた気が付けば僕は電話を握り締めていて、その向こうで大和の声がした。『はい』寝起きのような掠れたその声に心が落ち着いたのか、一気に脳内に情報が入ってくる。ああ、もしかして、もしかして僕は『征十郎?どうした?』「大和、僕、人を殺してしまったかもしれない」自分の震えた声を笑えるほどの余裕はなかった。『あ?なに?』「気付いたら目の前に、知らない女がいた」『うん』「多分、死んでる」『ん~』「あの、血が、ひどいんだ」『うん』「どうすればいい……?」『状況がわかんねーなあ……どこにいんの』どこ、なんてそんなの分からない。でもきっと多分、この女の家だ。「多分、女の家」『呼ばれた?』「ええと……多分、呼ばれた、話があるって」『そ、わかった。今から行くから何もするな』「でも、」『大丈夫、俺がなんとかしてやるよ』「大和、僕は、」『お前は何もしてない、ただそこにいただけだ』彼が言うと本当に自分は何もしていないように思える。本当にただここに居合わせてしまっただけのように感じて、でも違う気もする。息が詰まってまた喉が変な音を立てた。『征十郎、征、大丈夫だから落ち着け』「……ああ」『今すぐ行くから、待てるか?』「待てる」ぐるぐると渦巻く不安と焦燥を抑えて言うけれど、彼は何でもお見通しなのだ。『お前は、何もしてないよ』優しい声に、息を吐いた。
誘惑のスイートタイム
征十郎の目はいつもきらきらしていて、美味しそうだとよく思っていた。黙々と駒を進める征十郎の伏せられた睫毛の下、左右で色の違う瞳が盤上を行ったり来たり。赤くてツヤツヤした色は林檎、いや苺だろうか、苺の方が甘そうでいい。そして金色は甘くて美味しい蜂蜜だ。肘をついてじいっと飴玉みたいなその色を見ていると不意に彼が視線をあげ、光を受けてきらりと光ったその目にごくりと喉が鳴ってしまった。やっぱり美味しそうだ。「どうかしたかい?」覗き込むように少しだけ首が傾けられ、またきらきらと瞳が光る。「いや」「本当?何か言いたそうだと思ったけど」「ん~しいて言えば腹が減ったかな」「さっきクッキー食べてなかった?」「食べた」「まだ何か食べたいのか?」「うん」困ったような呆れたような、不思議な顔をした征十郎は何かあったかな、と鞄に手を突っ込んだ。まあ確かに腹は減っているし何か食べられるならありがたいけれど、俺が今欲しいのはそういうのじゃなくてそのきらきらと光る赤と金なのだ。「あのな、征十郎」「ん?」「そういうのよりも征十郎がいい」「……は?」おっと言葉が足りなかった。何を思ったのか考えなくても分かる、じわっと薄紅に色付いた頬に笑みが深まる。「征十郎の目、食べてみたいな」血色の良くなっていた頬が一瞬にして青褪めた。「え、と、……大和?」「なに?」「それはどういう意味?」「そのままの意味だけど。嫌か?」「いや、嫌とかの問題じゃないだろう」「じゃあ舐めるだけ」視線があちこちに飛ぶ彼の頬を押さ視線を合わせると、びくりと大袈裟に肩を震えた。「な、だめ?」「り、理由を聞いても?」「甘くて美味そうだったから」にっこり笑えばつられたように彼も笑ったけれどそれは一瞬にして引き攣ったものに変わった。「大和、落ちついてくれ、やめっ」もうぐだぐだうるせえからいってしまえ、と頬を押さえた手で下瞼を引き、彼が抵抗する前にべろりと舐めあげる。ふむ、思ってたよりも甘くはない。
rewrite:2021.12.23
春の陽射しのような残り香
何かを手に入れたとき、それは何かを捨てたときでもある。何かを捨てなければ何かを手にすることは出来ない、いつだって世界はそう出来ている。工藤大和を手に入れたとき、赤司征十郎はその対価として多くを捨てた。「大和、朝食の時間だよ」薄いレースのカーテンを通し柔らかくなった朝日に照らされた室内はまだ少しひんやりとしている。ぱたぱたとスリッパの音を立てながら、赤司はなかなか起きてこない大和を起こしにひとつの部屋へと入っていった。「ほら、起きて。冷めてしまうよ」なかなか動こうとしない我が恋人へ困ったように笑い、優しく抱き起す。くったりと凭れかかってくる大和の頬に触れ目尻へそっと唇を寄せる。そしておはよう、と甘く柔らかな笑みを浮かべた。彼らの朝はいつもこうして始まる。それからしばし戯れるような甘い触れ合いをし、少し冷めてしまった朝食をとるのだ。温めなおした味噌汁を啜りながらのんびりとその日の予定を話し合うのが彼らの朝の食卓の慣わしで、今日は特に何の予定もないから家でのんびりしようかと赤司は笑った。食後のコーヒーを飲みながら他愛ない会話を交わしていたとき、ふいにチャイムが鳴った。少し前まで楽しげに笑っていた顔がすっと色を消す。しん、とした室内にまたチャイムの音が響いた。しかし赤司はコーヒーカップから手を放さず、ただ黙って遠くのインターホンを眺めている。「誰だと思う?」少し尖った囁くその声には苛立ちと不安が僅かに滲んでいる。訪ねて来た人物は誰も出て来ないことに諦めたのか、またチャイムが鳴ることはなかった。それにふっと息を吐いてコーヒーを一口飲み込み、カーテン越しに空を見上げた赤司は向かいに座る大和へ視線を戻す。朝日に照らされた顔は半ば崩れかけていた。鼻を刺す酷い匂いにも瞬きせぬ朽ち果てた瞳にも、何一つ気付いていないとでもいうように赤司はまた笑いながら他愛ない話をする。赤司征十郎は工藤大和を手に入れる為に、捨ててはならないものまで捨ててしまった。
rewrite:2021.12.25
箱庭の天使
水の中だと腐敗の進行速度が二分の一になるのだそうだ。特注して家まで運んでもらった水槽に水を溜めながら、いつか読んだ本の内容をぼんやりと思い返す。少なめの位置で水を止め、慎重に大和を沈めた。浮いてしまわないように椅子にくくりつけたままにしてしまったが、案外良いかもしれない。これだけだと寂しいだろうから、テーブルに本と、彼の好きだった硝子の置物を入れていく。どんどん入れていけば水嵩が増し、丁度良い水位まで上がっていった。窓から入る夕日で彼がきらきらと輝いてみえる。水の中の方がずっとずっと綺麗な彼を、水槽の前に持ってきた椅子に腰かけ眺めた。きっと一日見つめていたって飽きないのだろう。翌朝は生憎と雨が降り出したが、薄暗い室内とは反対に水槽の中は不思議な明るさがあり大和は相変わらずきらきらと煌めいていた。もしかしたら彼自体が発光でもしているのかも知れない。そう思ってしまった自分がおかしくて少しだけ笑った。翌朝はよく晴れ、白い彼の肌が日に透け美しく光っていた。一体いつまで彼はこの姿を保つのだろうか。きっと一、二週間もしたら徐々に崩れ落ちていってしまうのだろうけれど、きっとそれも美しいに違いない。ああそうだ、日記をつけてみよう。カメラで撮影するのもいい、彼の記録を作るのだ。さながら彼の観察日記というところだろうか?観察日記だなんて小学校以来だと少しだけ笑ってしまう。使っていなかったノートを引っ張り出して、今日の日付を記す。それから思うがまま彼のことについてペンを走らせた。そうして一週間が経った。やはり大和は徐々にだけれど崩れてきていた。毎日一枚ずつ撮り溜めた写真の画像とノートの記録を見返し、思う。彼は崩れ始めてからより美しくなり、不思議な光が増した。きっと膨張しても彼は綺麗なままなのだろう。こうしてカメラで彼を撮っていると自分が芸術家かなにかになったような気分になる。そう感じるくらい彼は美しく輝いていた。カメラの中の画像をしばらく眺めてから、今日の日付をノートへ記した。
rewrite:2021.12.25 | 死体と暮らす赤司征十郎は性癖のサビ感ある
どこにもない柩の匂い
※モブ視点
夏と言えば肝試しだと言い出したのは誰だったろう。盆休みに入りバスケ部の活動も休みとなった俺たちは家の近くの墓地にいた。墓地内に点々と灯る外灯がより一層辺りを暗くさせ、不気味な空気をつくりだしている。先頭を歩く竹村の後ろをやいのやいのと騒ぎながらついて行き、通路の端まで行けば石段を上がりひとつ上の通路へ、また端へ行けば上へ、とどんどん上がっていった。とりあえずの目標は墓地内一周だ。「あ?」ふいに先頭の竹村が止まった。「どした?」「いや、あれ……」竹村が指差した先、ひとつ上の通路に誰かが立っていた。赤々とした髪が暗闇の中でもよく見え、その髪色にとある人物を思い出したけれどまさかと首を振る。その人影はじっと目の前の墓石を見つめていた。こんな時間だ、墓参りに来たというわけではないだろうが俺たちのように肝試しという風でもない。第一、ひとりだ。「おーい、何してんだー?」「ば、おい!」俺の後ろを歩いていた木戸がその通路に立つ人物に声をかけた。何を考えているんだ、と睨みつけるけれど木戸はそのまま人影に近付いていく。「お前、洛山の、」慌てて後を追い、驚いた。竹村も木戸も驚いていて、でも俺たちの驚きはそこにいた人間があの赤司征十郎だったからということじゃない。ただ黙って冷え冷えとした目で俺たちを見下ろす赤司の雰囲気が、何かおかしいのだ。まるでこれから死に行くような、重々しくねっとりとした酷く不快なものを感じる。何してんだという竹村の言葉に、赤司は沼底のような目で「待ち合わせをしているだけだ」と言った。こんな場所で、一体誰と。しかしそれ以上の追及を拒むように赤司は背を向けてしまった。「……帰ろうぜ」木戸が酷く気味悪そうな顔をしながら引き返していく。その後を追い石段を下りながら振り返ると、赤司がじっとこちらを見つめていた。ここからいなくなるのを待っているかのように。それが酷く不気味で、俺たちは駆け足で墓地を後にした。その翌朝、俺は竹村からの電話で起こされた。昨晩、あの墓地で赤司が死んでいたらしい。首に手で絞められた跡を残して。
夏と言えば肝試しだと言い出したのは誰だったろう。盆休みに入りバスケ部の活動も休みとなった俺たちは家の近くの墓地にいた。墓地内に点々と灯る外灯がより一層辺りを暗くさせ、不気味な空気をつくりだしている。先頭を歩く竹村の後ろをやいのやいのと騒ぎながらついて行き、通路の端まで行けば石段を上がりひとつ上の通路へ、また端へ行けば上へ、とどんどん上がっていった。とりあえずの目標は墓地内一周だ。「あ?」ふいに先頭の竹村が止まった。「どした?」「いや、あれ……」竹村が指差した先、ひとつ上の通路に誰かが立っていた。赤々とした髪が暗闇の中でもよく見え、その髪色にとある人物を思い出したけれどまさかと首を振る。その人影はじっと目の前の墓石を見つめていた。こんな時間だ、墓参りに来たというわけではないだろうが俺たちのように肝試しという風でもない。第一、ひとりだ。「おーい、何してんだー?」「ば、おい!」俺の後ろを歩いていた木戸がその通路に立つ人物に声をかけた。何を考えているんだ、と睨みつけるけれど木戸はそのまま人影に近付いていく。「お前、洛山の、」慌てて後を追い、驚いた。竹村も木戸も驚いていて、でも俺たちの驚きはそこにいた人間があの赤司征十郎だったからということじゃない。ただ黙って冷え冷えとした目で俺たちを見下ろす赤司の雰囲気が、何かおかしいのだ。まるでこれから死に行くような、重々しくねっとりとした酷く不快なものを感じる。何してんだという竹村の言葉に、赤司は沼底のような目で「待ち合わせをしているだけだ」と言った。こんな場所で、一体誰と。しかしそれ以上の追及を拒むように赤司は背を向けてしまった。「……帰ろうぜ」木戸が酷く気味悪そうな顔をしながら引き返していく。その後を追い石段を下りながら振り返ると、赤司がじっとこちらを見つめていた。ここからいなくなるのを待っているかのように。それが酷く不気味で、俺たちは駆け足で墓地を後にした。その翌朝、俺は竹村からの電話で起こされた。昨晩、あの墓地で赤司が死んでいたらしい。首に手で絞められた跡を残して。
rewrite:2021.12.25 | ネタ提供:友人
しなやかな罪の色合い
透き通りそうなほど白い肌だとか、すっと通った美しい鼻筋だとか、淡い紅色の柔らかなそうな唇だとか、この男を象るもの全て、神が丹精込めてつくったように完璧だ。意思の強さを示すようにきりりとした眦とはめ込まれた赤い宝石。そこに柔く陰影をつくる密な睫毛。それはさながら芸術品で、特に意味はなくともぼんやりと見惚れて吐息を漏らしてしまう。「お前ってほんっと綺麗な顔してるよなぁ」ソファに並んで座って映画を見始めて少し。俺はもう目の前の映像よりも隣の男の横顔に釘付けだ。何を言われたのか分からなかったのか、きょとんと丸められた猫の目がかわいくて仕方がない。「なんだいきなり」「俺さあ、昔っからワルい癖があってよく怒られてたんだよ、幼馴染に」すべすべとした柔らかな頬を撫でる。幼馴染にいつもいつも叱られていた。叱られたところで反省もしなければ後悔もなくて、俺の所謂悪癖は全然改善されずにここまできている。困惑を滲ませた目元を親指でなるべく優しくさすって、そこに柔くキスして、にっこり。つられるように淡い笑みを浮かべる様は幼子同然で、胸が苦しくなるくらいかわいい。征十郎はその人間離れした硬質な美しさとは反対にとてもかわいらしい男である。そこが途方もなく愛おしくて、俺のワルいところをちくちく刺激するのだ。もう、我慢できないくらい。「大事なら壊すなっていっつも怒られてたんだ」ぐっと細い顎を掴み、俺へ視線を固定させればじわじわ怯えが滲みだす。小さい声で俺の名前を呼んで、顎を掴む手にそうっと触れてくる。その白くて長い指を見るといつもへし折ってやりたくなって仕様が無かった。「なあ征十郎、俺さあ、お前のことすぅごく好きなの」自分でも引くほど甘ったるい声が出ていた。悪い予感でもしたのだろう、咄嗟に引こうとしたその身をソファに押し倒す。「お前のこと、めちゃくちゃにしたいくらい愛してるんだよ」ゆっくりと触れ合わせた柔い唇は微かに震えていた。
rewrite:2021.12.25 | 続きます
悪い子のためのパレード
「征十郎クーン」どれくらい経ったのか、映画はもうエンドロールが流れていた。俺のかわいいかわいい征十郎はソファにぐったり身を横たえ、細い息を吐いている。ああ、かわいい、かわいくって仕方がない。「はあ、かわいい、征十郎」熱を持ち腫れてきた頬を撫で、瞼やら口やら鼻やらあちこちから流れる血を拭う。拭った先から血が滲むからあんまり意味はないのだが。身動きが取れないよう跨り伸し掛かったまま、傷だらけの顔にちゅっちゅと音を立てながらたくさんキスを落とす。切れた唇にも触れれば痛かったのかびくりと押さえ込んだ体が震えた。はあっと吐き出した息が熱い。痛みに体を震わせる征十郎があまりにかわいくてかわいくて、その傷を抉るように舌を這わせながらほっそりとした首筋に両手をかける。ゆっくりと締め上げながら、熱を持った口内に舌を差し込んだ。血の味がする口内をくまなく舐っているだけでもう頭がぐらぐらするほど気持ちがいい。次第に抵抗が増していって、がぶっと舌を思い切り噛まれてしまった。仕方なしに舌を引き抜いて首から手を離せば、苦し気に咳込み喘ぎながら征十郎は必死に息を吸う。きっと痣になる首筋の手形をじっと見つめながら、次第に口内に溜まっていく自分の血を一度飲み込んだ。随分深く噛まれてしまったのか、じくじく痛む舌からは血が溢れてくる。顔を近付ければ、また絞められると思ったのか「ゃ、やめてくれ、ごめ、なさい、」と息も絶え絶えに弱弱しく掠れた声で言ってくる。何度も謝罪を口にする征十郎の唇の上へ、ベッと出した舌からとろりと血混じりの唾液を落とせば、怯えて震える眼差し。かわいいかわいい征十郎。両手で頬を包んで固定しじいっと覗き込む。「こんなんなってもかわいいんだもんなあ、征十郎は」俺の血で汚れた唇へまた唇を重ねて、強引に歯列を割り舌を捻じ込んでじわじわ溢れる血をその口内へ流し込んでいった。俺の血と征十郎の血が口の中で混ざり合って、溶け合っていく。しっかりそれを征十郎が飲み込んだを確認してから口を離せば、赤い宝石の瞳からころりと涙がひとつ流れていった。
rewrite:2021.12.25 | 「しなやかな罪の色合い」の続き。ツイッターでもだもだいってたネタ
果てと楽園は違う場所
顔を撫ぜていく生温い風を感じながら眼下に広がる海原を見つめる。暗く沈んだ街はぽつりぽつりと光が見えるだけだ。随分遠くまで来た。荷物も無く、少しのお金だけを手に全てから逃げるよう、彼と共に行き先も見ず電車へ乗り込んだ。きっと皆心配するだろうと他人事のように思い、忘れる。俺は彼のために全てを捨てたのだ。「大和、行こう」繋いだままの手のひらから伝わる温度は依然冷たいままだ。一向に温まらない彼の手を弱い力で引けば、彼はああと頷き小さく笑った。その笑みに一体どれだけのものが隠されているのか、俺などには到底計り知れない。人気のない道をたった二人、外灯を頼りに歩いていく。目的地なんて端からない。「征十郎、あれ」白い指がさしたのは古ぼけ、今にも崩れてしまいそうな教会だった。「入れる?」「ああ、ほら、鍵が壊れてる」朽ちた錠前はいとも簡単に崩れその一生を終えた。硝子が割れ、埃の舞う荒れ果てた教会内にぼんやりと佇む彼は、この世のものではないように見えた。月明かりに照らされた横顔が冷たく光る。怖いくらい綺麗なその姿にざわりと胸が騒いで、彼の手を握る力を強める。「征十郎」大丈夫、ちゃんと彼はここにいる。「もういいよ」薄く笑って、もういいよ、ともう一度繰り返した彼の手から力が抜けていく。「大和、」「ありがとう征十郎。でももう、帰ろうか」ちゃんと握りしめていたのに、するりと繋いだ手が逃げていく。「帰るなんて、どこに?」返事はなく、彼はただ笑うだけ。帰ろうと言った彼はそこから動く気配はなく、まるで別れを告げているようだった。「お前は、大和は、帰らないのか」「俺は帰れない」「どうして」「どうしてだろうな」一歩彼が下がる。踏まれたはずの硝子は音を立てず、辺りは痛いほどの静寂を保ったままだった。何も聞こえない。彼の息遣いも、何も。ふらりと彼が揺れた。ゆったりと弧を描いた唇が、そうっと持ち上げられて形を作る。「もう、いいよ」小さく吐かれた息は、音もなくただ、消えた。
rewrite:2022.01.04
なみなみと夢うつつ
知らない街をただあてもなくふらふらと彷徨い歩いていた。白黒で構成された視界に、ああこれは夢の中なのかと気付いた。灰色の空を見上げ、モノクロの建物たちをぼうっと眺める。なんとなく、この誰もいない空間に何度か来たことがあるような気がしていた。立ち並ぶ建物を眺めながら歩き、ふと覗いた路地裏を誰かが歩いている。ゆったりとしたその足取りと真っ直ぐ伸びた背には見覚えがあった。見間違えるはずがない。「大和」けれどその人は、絶対に振り返らないのだ。水の中にいるようなひどい息苦しさに目が覚めた。なんだか酷く嫌な夢を見た気がする。暗い室内にまた息が詰まり、まだ水の中にいるような感覚が消えない。ゆっくりと深呼吸して目を閉じてみるけれど、ざわざわとした感覚は消えず眠気もやって来ない。どうしよう、大和は起きているだろうか、連絡したいけれどこんな真夜中だ。ひゅうっとまた喉が鳴った。水の匂いがする。じわじわと水が満ちていくようで上手く息が吸えず、ごぼりと口から酸素が逃げて水で埋め尽くされた。苦しい、助けてくれ大和。藻掻くように閉じていた目を開くと、滲む視界に誰かがいた。ゆらゆらと揺れる影が何かを言っているけれど、水に溶けた音は上手く拾えない。集中してもくぐもった音はなかなか聞き取れない。もう少し、あと少し、「征十郎」はっとして目を開けた。背中に触れた熱にごぼごぼと水が抜け、急激に取り込まれた酸素に噎せて咳き込む。大和だ。大和がいる。「大丈夫、ゆっくり息を吸って……吐いて」背中を撫でる手が優しくて安心する。「……大和?」「うん」「何でいるんだ?」「お前が泊まっていけって言ったんだろ」忘れたのかと笑うって目尻の涙を拭ってくれた大和がごろりと隣に寝転がる。ぎゅうっと大和を抱き寄せると当たり前のように抱き締め返してくれた。背中を撫でるあたたかい手の感触にゆっくりと息をして、目を閉じた。もう息は詰まらない。ゆっくりと体から水が抜けていって、代わりに彼で満たされていく。静かにやってきた眠気に流されるように意識を手放す一瞬、水の香りが鼻を掠めていった。
rewrite:2022.02.16
何もないからかなしくもない
青峰を捜しにやってきた屋上で、今まさに飛び降りんとでもいうかのように立つその背に目を奪われた。風に髪を遊ばせ、悠然と佇む姿。死にいく人間は斯くも美しいものなのかとその瞬間、俺はその人に殺されてしまったのだ。「待って、」ふと体が揺れる前に、その腕を掴み半ば無理矢理に引き戻す。振り返ったその目はしかし俺を見ていない。俺を越え、どこかを見ている。何がみえているというのかゆっくりと瞬きをして、空っぽな瞳を日の光に煌めかせる。「名前、名前を教えてくれないか」そして俺は彼をつかまえた。今でもその日のことは夢に見る。ふわりと風と共に消えてしまいそうな背中、透明な眼差し。見ているようで何も見ていないその目が今も俺を捕らえて離さないのだ。「大和」あの日死のうとした彼は今もこうして、俺の隣で息をし続けている。これからもずっとそうであればいい、とあたたかい体をぎゅうっと確かめるように抱きしめれば、少し苦しそうな声で大和が俺の名前を呼んだ。そっと、囁くような呼び声がくすぐったい。「どうした、征十郎」少し冷たい手が俺の髪を梳く。その手つきがあまりにも優しいものだから、どうしてか泣きたくもないのに涙が出そうになってしまう。「大和」「ん?」「ずっとここにいてくれないか」俺の隣に、この部屋に。離れたりなどせず、どこにもいかずに。「ここに、俺のそばに」俺はあの日死んだのだ。大和に殺されてしまったから、彼がいなくては生きていけない。けれど大和はただ優しく笑うだけで俺の欲しい言葉は決してくれやしないのだ。その空っぽで透明な瞳を美しく煌めかせる淡く笑むだけ。大和は俺が彼を想うほどには俺を愛していないのだと言っているようで、その笑みを見るにつけ悲しくなる。「大和、」嘘でもいいから傍にいると言ってほしい。もう一度強く抱きしめれば、彼は俺の背をゆっくりと撫でながら静かに「ああ」と頷く。だがそれは、ノーと言っているように聞こえた。
rewrite:2022.03.25 | 続きます