rewrite:2021.11.14
生きてもないのに朝は来る
漠然と死ななければならないと思っていた。薄い膜のようなこれまた漠然とした影がひたりと張りつき出したのは一体いつからだろう。わからない。わからない内に張り付いていた。気付けばもうそこにあって、でも最初の頃は全然、気にもしていなかった。けれどいつからかなんとなく、どことなく息苦しい。どうにもその膜は僕が勝利を得る度に張りつき重なって、次第に分厚くなっていっているようだったのだ。感覚が薄くなったのも、それが目に見えて厚くなってからだったような気がする。物事が全て希薄で、自分と何ひとつ関係のないところで起こっているように思えるのだ。テレビの向こうや小説の中の出来事のように、まさしく対岸の火事。それに気付いたとき、ああもう駄目なのだと思った。漠然と死ななければならないと思った。別に死んでしまいたいわけではないけれど、死んでしまわなければいけないのだ。それはちりちりと思考の端を焼き切っていき、そうして気付けば目の前に縄がぶら下がっていた。はて、これはなんだろう、と縄の先を見上げ、ぎっちりと縛られたそこに嗚呼と納得した。それが初めての自殺だ。否、こうして生きているわけだから自殺未遂なのだろうけれど。初めての失敗が己の命を絶つことだなんてなんとも言えない。次は無難に何処かから飛び降りようと思った。高さがあればほぼ確実に成功する。だがそれも失敗に終わってしまった。それが三度、四度と情けないことに失敗ばかり積み重ねてしまった。運が悪いのかなんなのか、寸前でいつも幼馴染がやってくるのだ。図ったようなタイミングで訪れ邪魔をする。いや、本人からしたら邪魔というわけではないのかもしれない。彼はいつだって本気で泣きそうな顔をして僕を掴む。「やめてくれ征十郎」と悲痛な声を出す。けれど悲しい哉、あんなに大切に想っていた幼馴染のその言葉にすら、いつの間にか何も感じなくなってしまっていた。どうやら、身体よりも先に感情が息絶えてしまったようだ。
どこにもない心臓のゆき先
ひとつ終わったら休憩してまた次の練習へ移る、それを淡々と繰り返しその日のメニューを少しずつ熟していく。延々とそれは続き、そうして変わり映えしない日々が繰り返されるのだ。いつもと変わらない練習風景に、なんとなく、嫌気がさした。「ねえ大和」ストップウォッチを握った彼は振り向かない。ただ声だけで、なにと返事をする。「明日は何かある?」かちかちと音を立て続けていたストップウォッチが止まる。紙に数字を書き込みながら部活があると彼は言って、作業を終えたのか漸く振り返った。何を考えているのかいまいち解らない目が、じいっと僕の目の中を覗き込む。「何かあったか?」「ないよ」「ないの?」「ああ、何もないよ」「なんで聞いたわけ?」「わからない」不思議そうにまあるくなった目に笑みが零れた。「今日の征十郎は変だな」「そうかな」「ああ」「そうかもしれないね」「何かあったか?」「どうだろう」ふわふわと地につかない言葉しか出てこないのも仕方がない。自分でもよくわかっていないのだもの。ちらりと練習を続ける部員を見て、再びああ嫌だなあと思った。もうすぐ僕もあの中に入らなければならない。「ねえ、大和」部員たちから視線を彼へと戻し手を伸ばす。ボードを持つ手に半ば無理矢理指を割り込ませて握れば、居場所を無くしたボードが床へと落下した。「明日何かある?」絡めた手を強く握ると彼は驚きに丸めた目に困惑を滲ませた。「部活があるけど」「そう。明日授業が終わったら帰ろう」「ええ?」「家についたら必要最低限の荷物をまとめておいて。迎えに行くから。ああ、携帯はいらないからね」よく解らないという顔をする彼に、着替えは二、三日分でいいと付け足す。「逃避行しよう」なんとなく、何もかも捨てて彼とどこか遠くに行きたかった。嫌気がさしたのだろう、この生活に。驚いたように眉を上げ何かを言おうとした彼だけれど、結局何も言わずにただ頷いた。「いいよ、お前が行きたいとこに行こう」
rewrite:2021.12.02
緻密な光
※豪華客船的パロ
目の前で崩れるように倒れた大和の姿に、赤司は息を止めた。世界から急速に音が消えていき自分の悲鳴染みた彼の名を呼ぶ声すら聞こえない。胸に空いた穴から止めどなく、血と共に彼が流れていってしまう。真っ青な、平時の状態の赤司からは想像もつかないほど取り乱した顔で、彼は大和に開いた風穴を震える手で押さえた。そんなことをしたところで何の意味もないということを頭で理解していても、感情は理解しない。閉ざされた大和の瞼は少しも動かず、ぐったりと何もかも抜け落ちてしまったように何の反応も示さない。赤司は大和を抱きしめ、絶叫した。「ああ、許さない」赤司は不気味なほど静かな赤い瞳で船内の客室へ繋がる扉を開けた。半端に開かれたドアの隙間から、己の震える右手を怯えた眼差しで見つめる緑間が見えた。開け放たれたままのドアの向こう、ソファに座った青峰が酷い顔色で灰皿の中で燃える何かを見つめていた。閉ざされたドア中から、黄瀬の泣き叫び懺悔する声が聞こえた。階段前にある談話室の暖炉前に置かれたソファへ腰掛けた紫原の手の中には、ひとつの武骨な拳銃があった。そうして再び上った甲板上。海原を見つめる黒子は多くが抜け落ちた白い顔でただ静かに泣いていた。背を向け、甲板から去ろうとしていた赤司の視界に薄い影が過る。追うように振り返った先、苦しげに胸を押さえた彼の幻影が海を見つめる背を見つめる。ああ、と短く息を吐いた赤司はゆっくりと目を閉じた。拳銃を握る手から手首に伸びる傷跡がふと目の裏に浮かぶ。薄桃色のそれは黒子が幼い頃に負ったと言っていた傷と似ている。赤司はゆっくりと息を吐くと懐から銃を取り出し、海を見つめる背に向けて構えた。「君は可哀想な人ですね」振り向いたその顔は逆光で見えない。けれど笑っているように思えた。こちらを憐れむ様に。赤司は何も言わず引き金を引く。月明かりに照らされたその手には、手首まで伸びる薄桃色の傷が横たわっていた。
目の前で崩れるように倒れた大和の姿に、赤司は息を止めた。世界から急速に音が消えていき自分の悲鳴染みた彼の名を呼ぶ声すら聞こえない。胸に空いた穴から止めどなく、血と共に彼が流れていってしまう。真っ青な、平時の状態の赤司からは想像もつかないほど取り乱した顔で、彼は大和に開いた風穴を震える手で押さえた。そんなことをしたところで何の意味もないということを頭で理解していても、感情は理解しない。閉ざされた大和の瞼は少しも動かず、ぐったりと何もかも抜け落ちてしまったように何の反応も示さない。赤司は大和を抱きしめ、絶叫した。「ああ、許さない」赤司は不気味なほど静かな赤い瞳で船内の客室へ繋がる扉を開けた。半端に開かれたドアの隙間から、己の震える右手を怯えた眼差しで見つめる緑間が見えた。開け放たれたままのドアの向こう、ソファに座った青峰が酷い顔色で灰皿の中で燃える何かを見つめていた。閉ざされたドア中から、黄瀬の泣き叫び懺悔する声が聞こえた。階段前にある談話室の暖炉前に置かれたソファへ腰掛けた紫原の手の中には、ひとつの武骨な拳銃があった。そうして再び上った甲板上。海原を見つめる黒子は多くが抜け落ちた白い顔でただ静かに泣いていた。背を向け、甲板から去ろうとしていた赤司の視界に薄い影が過る。追うように振り返った先、苦しげに胸を押さえた彼の幻影が海を見つめる背を見つめる。ああ、と短く息を吐いた赤司はゆっくりと目を閉じた。拳銃を握る手から手首に伸びる傷跡がふと目の裏に浮かぶ。薄桃色のそれは黒子が幼い頃に負ったと言っていた傷と似ている。赤司はゆっくりと息を吐くと懐から銃を取り出し、海を見つめる背に向けて構えた。「君は可哀想な人ですね」振り向いたその顔は逆光で見えない。けれど笑っているように思えた。こちらを憐れむ様に。赤司は何も言わず引き金を引く。月明かりに照らされたその手には、手首まで伸びる薄桃色の傷が横たわっていた。
rewrite:2021.12.02
そんな風にあなたを愛してみたかった
どこでずれてしまったのだろう。僕と彼は、これから先もずっとずっと一緒にいるものだと思っていた。「暑いな……」空を仰ぎ見れば、木々の隙間から眩い青が見える。五年前、夏休みに大和と二人でやって来たこの場所は今も何も変わっていない。初めての二人だけの遠出はとても楽しかった。たった二人で見知らぬ土地へやって来て、僕の親戚の家に泊まって、朝から晩まで周囲を探索して回って。まだ、僕と大和が近かった頃。幼い時から傍にいて、どんな時も一番近くにいた彼が自分から離れてしまう日が来るなんて想像もしていなかったあの頃。『征、はやく』『そんなに急いだら転ぶよ』『あ、征みて、川!』『あ!大和、危ないってば!』靴を脱ぎ捨て川へ降りてしまった大和を追いかけて入った川は驚く程冷たかった。僕も大和も楽しそうに笑って、魚を見つけてはしゃいでいた。広いこの山は未知のもので溢れている。僕と大和で何日もかけて探索して、それでもまだまだ知らないところばかりだ。ああ、なんて遠い。『俺は洛山にはいかない』強張った顔でそう言った大和の声は震えていた。『違う、お前のそれは、間違ってる』泣き出しそうな顔でそう言った彼の声も、ひどく震えていた。蝉の音が耳鳴りのようにわんわんと頭に響く。見つけた川はあの時と何も変わらない。この山も何も変わっていない。僕たちだけ、変わってしまった。『なあ征』『なあに』『また来ような』眩しい笑み。もう、僕に向けられることのなくなってしまったその笑みに視界が揺れる。家に戻ろう、と駆け出したその背に手を伸ばしてももう届かない。記憶の中でしっかりと繋がれた彼と僕の手に泣いてしまいたくなった。ただひとり僕だけ、置き去りにされたように立ち止まっている。進むことも出来ずに迷子のように。ああ、どうして僕はひとりでここにいるのだろう。どうして君は今、僕の隣にいないのだ。僕の手を引いてくれていた人は、もういなくなってしまった。ああ、なんて遠い。
rewrite:2021.12.04
流れ落ち燃え尽きても星だった
彼と共に育ったこの馴染み深い街へ戻ると、いつも最後に見た彼の顔を思い出してしまう。冷たく唇を引き結んだ少し強張った顔。真っ直ぐ突き刺す強い眼差しは少しも揺れなかった。彼はあの時、僕に何を伝えたかったのだろうと今でも思う。最後、電車に乗った僕に彼は何かを言った。厚い硝子に阻まれ僕のもとへ届くことはなかったその言葉が何だったのか、僕には分からない。拒むように靴の音を弾くコンクリートが、まるで彼のように思えた。僕たちの間にはあまり言葉というものは無かった。無くても良かったのだ。そんなものが無くたって、僕と彼は自分を伝え合うことが出来ていた。それが歪んだのは、きっと自分を殺した日だ。あの日、己と共に彼との繋がりも殺めてしまったのだろう。だから何も伝わらなくなってしまった。手に取るようにわかっていた思考も、眼差しだけでの会話も、何もかも死んでしまったのだ。伝えようとすれば伝えられたのだろう。けれど、僕にも彼にも、相手に渡せる言葉の量が絶望的なまでに少なかった。僕も彼も、様々な言葉を知っているくせに投げかける言葉はそこに一つもなかった。それでも多分、彼は必死に伝えようとしたのだろう。不器用ながら選び取って、投げかけてくれていたのだろう。それを拾わなかったのは、理解しようとしなかったのは、他の誰でもない僕自身だ。懐かしい、古ぼけた門にそっと手をかけた。ざらりとした感触が肌に刺さる。少し前まで毎日のように触れていたはずなのに、忘れてしまった手はその棘に慄く。何もかもが自分を拒絶しているように思えて、少しだけ怖くなった。彼は一体、どんな顔をするだろう。あの強張ったような顔をするだろうか、それとも、笑いかけてくれるだろうか。微かに震えた指でインターホンを押す。僅かな間の後、無防備に扉が開かれた。驚きに丸められた瞳は揺れ、薄く開かれた唇は震えていた。泣いてしまいそうに見えたのは、僕の願望かも知れない。「やあ、久しぶり、大和」
rewrite:2021.12.04 | 「そんな風にあなたを愛してみたかった」と繋がってたり
運命を宝石にして胸に飾るなら
実を言うと、恥ずかしながら俺は“運命の赤い糸”というものを信じていたりする。俺の小指からのびる糸が誰に繋がっているのかなんて見えないし確認も出来ないけれど、それは確かに実在すると何の根拠もないけれど信じてきた。勿論、今現在もだ。そしてその糸は、大和に繋がっている。確実に。断言できる。何故ならば俺の糸が彼に繋がっているという確固たる証拠があるからだ。例えば席替え。今日のロングホームルームで俺のクラスは席替えを行った。彼に必然的な恋をしてしまった入学式から今日まで、俺は一度だって彼と座席が離れたことはない(出席番号順の座席は除くが)。必ず彼の座席の前後左右斜め、その何処かが俺の座席であった。そして今回も当然ながら俺と彼の間に何らかの力(運命の力だとか引力だとか、そういったものだ)が働いて、俺は何度目かわからない彼の隣を引き当てたのである。これを運命と呼ばず何と呼ぶ?俺の糸が彼に繋がっていないとしたらこんなこと絶対に有り得ないだろう。「また隣なんだな」机を大和の左斜め後ろから左隣に移動させると、彼はパッと花が咲き乱れる笑みを浮かべた。その可愛らしい笑顔に自然と口角があがる。「ああ、よろしくな」事あるごとに引力が働いたおかげで俺と彼はかなり親密になったといえる。親友の一歩手前、といったところだろうか。しかしそのポジションは俺が望んでいるものではない。まぁ、いつも人と距離を置く彼が俺だけに気を許してくれるのは非常にありがたいのだが、俺は“大和の恋人”という場所が欲しいのだ。運命の糸が繋がっているはずなのだからいずれはその地位を獲得するのだろうが、出来れば早い内に、なんて思ってしまうのは俺の我が儘だろうか。ちらりと見た本を読んでいる彼の白い指に、栞の赤いヒモが巻きつけられていてどきりと胸が高鳴る。小指ではなく中指だったけれど、それは俺が思い描いてきた赤い糸そのものに見えた。「大和、」自然と口が開く。「君は運命って信じるかい?」
rewrite:2021.12.06
うつくしく濁った鏡の向こう
真夜中、突然目が覚めた。暗い室内は些か異様なほど明るい月光に照らされ、いつもとは違う顔を見せている。そのせいだろうか、不気味な静寂に満ちたこの空間は自分の部屋であるはずなのに全く知らない場所のように思えた。起き上がりサイドテーブルに置かれた時計を見る。午前二時過ぎ。丑三つ時だな、と無意識にあの暗い山の奥を思い浮かべてしまった自分に溜め息を吐き、再び枕に頭を沈めた。耳の奥であの森の中で聞いた音が蘇る。不穏な風が木々を揺らし葉を舞い上がらせていたあの日は、今日のように明るい夜だった。灯りなどなくとも木々の隙間から差す眩い月明かりで何もかもが見えていた。恐ろしげな風の音と、荒い自分の呼吸音と、シャベルが地を割り土砂を掬う音。それ以外の音は何も聞こえない。汗が頬を伝い落ちていく。月明かりに照らされた大和の顔は、眠っているようだった。生気の抜けた彼は、彼によく似せて作った精巧な人形のように見えた。けれどそれは紛れもなく本物だった。ぎいっと小さな、けれど静かな部屋には大きく響いた軋む音に目を開ける。不自然なほど明るい部屋、薄く開いたドアが目に映る。ざわりと何かが背中を這った。閉めていたはずだ。そろそろと冷たい床に足を下ろしドアへ近寄った。見間違いでも何でもなく、開いている。閉めようか迷った末、僕は廊下を覗いた。部屋とは違い月明かりの届かない廊下は暗く、よく見えない。けれどそこに何かがいる。その何かを僕は知っていた。勢いよくドアを閉め、考える。そんな訳がない、そんな訳が、ないのだ。嫌な汗が背中を伝っていく。考えるのをやめて僕はベランダから外へ飛び出した。あの日も今日のような日だった。辿りついたあの場所は何も変わっていない。触れた地面は固いけれど、恐怖心が溢れ微かな柔らかさを感じてしまう。不穏な風が木々を揺らし耳に障る。一心不乱に掘った先に大和は眠っていた。あの時から何も変わらない、何ひとつ変わらない人形のような顔。僕はあの日、一体何を埋めたのだろう。
rewrite:2021.12.07
白と黒のジオラマ
きっと、凍り付いた冬を暖かい春が溶かすような優しくそうっと包みこむ愛を赤司征十郎は知らないのだ。見返りを求めない感情があるということを彼は知らないのだろう。人が人に好意を向けるとき、そこには必ず見返りを求める薄汚れたものがある、彼はそう思っていた。そう思わせるに足る多くを彼は受け取り、そう思わざる得ない多くを見てきてしまったから、それが、それこそが真実だと思い込んでしまったのだ。そうしてその結論に瑕があるなんてことは微塵も思わず、ただ注ぐだけの愛があるということも知らぬまま、彼の世界は完成してしまったのだろう。完成し閉じてしまった世界は揺らがない。硬く閉ざされた扉には上等で、なんとも丈夫な鍵が掛けられてしまった。今更どんなものを投げかけようとも隙間すらない彼の世界には何一つ届きはしない。それは、なんて悲しいことだろうか。何もかもを受け入れ、何もかもを拒絶するその姿が僕には堪らなく痛々しいものに見えた。けれどそれ以上に、そんな彼にただひたすら心を傾ける工藤大和という人間が、哀れでならない。ただただ彼の行末を案じ、彼の幸せを願い、彼の為にその身すら投げ出すことすら厭わない程ひたすらに赤司君を想う。そんな彼の愛情を赤司君は理解出来ないのだ。彼が己を好いてくれることは分かっていても、どうしてそこまで自分を想っていてくれるのか解らない、彼のほしいものが判らない、自分がどうすればいいのか分からない。そう淡々と言った赤い瞳はどこまでも冷え冷えとしていた。彼には本当に分からないのだ。工藤君がどうして彼をそこまで想うのかも、どうして何の見返りも要求してこないのかも、何一つ知らない。なんて、悲しいことだろうか。僕は何の関係もない部外者でしかないというのに、堪らなく苦しくなってしまう。注ぐだけの、溶かしあたためるようなあの愛は、彼には伝わらない。冷たい凍りの扉は、何も通しはしないのだ。
rewrite:2021.12.07
永遠はここにあるべきだから
桜の木の下には死体が埋まっているという。俺の家のすぐ近くの神社には、とても立派な美しい桜の木がある。小さい頃から俺は暇さえあれば神社へ出向きその桜を眺めていた。花が咲いていようが散っていようが構わない、桜はただそれだけで美しいのだ。赤司征十郎と会ったのもそんな時である。入学式の帰り、神社でいつものように桜を眺めていた俺の目の前に赤司は突然現れた。燃えるような赤い髪と色の異なる瞳。赤司を見たとき俺は純粋に綺麗だと思った。桜と同じ、ただそこにあるだけで美しい。「桜が好きなのか」赤司が初めて俺に投げかけた言葉は確かそんな感じだった。それを皮切りに空が暗くなるまで俺たちはずっと話をした。そうしてその日から赤司はふらりと神社に現れるようになり、会えば延々と中身があるのかないのか分からない他愛もない話をするようになった。不思議な話で、俺も赤司も学校ではお互いに声をかけなかった。話をするのはこの神社でだけ。暗黙の了解とは少し違うけれど、そんなようなものがあったのだ。それを俺は今日、破った。「赤司」学校の敷地内に咲くあまり大きくない桜の木の下を歩く赤司は、そのまま花びらと共にどこかに行ってしまいそうに思えた。俺の呼びかけに赤司は何もかも分かっているというようにただ頷き、黙って俺の後を着いて来る。「東京に戻るんだってな」いつもの神社、桜のよく見える柵に並んで腰を下ろす。これも最後だ。赤司は東京の大学に行き、俺はこのまま地元の大学に進む。赤司ともうこの神社で話すことはない、そう思うとなんだか無性に寂しくなって、苦しくなった。「ああ」桜を見上げる赤司の横顔はとても美しく、手放すことなんて出来ないと強く思わせる。会話もなくただ並んで桜を眺め、そうして日が傾き辺りが橙に染まり始めたころ、漸く俺は本題に入ることにした。だが赤司は俺が口を開くより前に、これから何を言うのか分かっているというように柔らかく微笑んだ。「いいよ」「そうか」これでもう、大丈夫だ。寂しくはない。ここに来れば、毎日会えるのだ。「またな、赤司」桜の木の下には死体が埋まっている。
rewrite:2021.12.08
偶像のうつくしいとき
自分の命がそう長くないことはここに来てすぐにわかった。この部屋を訪れる者は皆一様に薄暗い色を奥底に湛えてながら、それでもいつものように明るく朗らかに笑い、語り、次の約束をして去って行く。この部屋を訪れてくれる人たちは優しい人ばかりで、自分は随分と環境にも人にも恵まれたものだとしみじみ思う。中学時代の先輩が部屋を去って随分してから、軽やかなノックの音が響いてきた。今度は一体誰だろうか。ノックが出来る人間となるとテツヤか真太郎のどちらかくらいだな、と返事をすれば入って来たのは見たこともない人であった。明らかに日本人には見えない顔立ちで海のような瞳のその人は、目が合うとにっこりと愛嬌のある笑みをみせる。「ドーモ、はじめまして」流れるような日本語で挨拶をし足音もなく近寄って来る。「初めまして、あの、どちら様でしょう」どうぞ、と椅子に座るよう促しながら言えば、彼はありがとうと微笑んだ。誰の知り合いなのだろうか、僕にこんな知り合いはいないし、父の知り合いにも見えない。彼は僕の質問には答えずにぐるりと室内を見回し、花や果物をきらきらとした楽し気な目で見やる。「良い部屋だな、人がたくさん来て賑やかだ」「ええ、まあ、皆遊びに来てくれます」良い人たちばかりですよ、という言葉にその人はまた笑う。少し眩しそうに目を細めて大きな窓を見やり、今は何も花をつけていない木を見てこの木は桜の木か、と呟くように尋ねてきた。「ええ、そうみたいです」と頷けば彼は「花見にはもってこいの場所だな」と言いながら寂しげに眉を下げた。「きっとたくさんの人が来るんだろうな……お前は随分多くの人に好かれてる。なかなか素晴らしいことだぜ」だから、残念だ。囁くように言い立ち上がったその人の手に、いつの間にか一輪の白い花が握られていた。嗚呼、と息が漏れる。「今日はお前を迎えに来たんだ」悲しそうに柔く笑んで、そっと花を僕の目の前に置く。そうして差し出された手を、僕は掴んだ。
rewrite:2021.12.10