幽霊に傅いて
蝉の声を聞くとどうも嫌な思い出が蘇ってきそうで恐ろしくなる。
それがどんなものであったのか、思い出せたことは一度もないのだけれど。いや、思い出さないほうがいい、きっと。
じりじりと焼き殺すかのような強い日差しにふらつきそうな足に力を込め、うんざりした気分のままに這い蹲る目の前のゴミに溜め息をぶつける。
嗚呼また時間を無駄にしてしまった、家で薫が待っているというのに。はやく帰らなければと踵を返した先、陽炎で歪んだ景色にふと足を止めた。
なんだろう、この感覚を僕は知っている。
くらりとまた眩暈がした。厭に煩く耳に障る蝉の声に頭が痛くなってくる。
ああ、駄目だ、思い出してはいけない。視界の端で小さな花が風に揺れている。目を閉じる寸前、哀れんだような誰かの顔が見えた。
「ただいま薫」
踏み入れた室内は程良い温度に保たれ、外界とは大違いだ。
部屋の中央にある真っ白でいささか大仰な天蓋のついたベッドの上、静かに眠るその姿に笑みがこぼれる。天使の如きと表現されそうな可憐なその寝顔にうっとりと息を吐いて、滑らかな白い頬を撫でてそっと唇をよせる。
かわいいかわいい、僕だけのお姫様。
「薫、起きる時間だよ」
柔らかな髪を梳きながら耳元でそう囁くと、淡く光る睫毛が微かに震えゆうるりと瞼が持ち上がる。
「おはよう」
彼は何の返事もせずただ微睡んだ瞳を眠たげに瞬かせた。硝子細工に触れる慎重な手付きで彼を抱き上げ、ベッドの脇にある彼のお気に入りの椅子へと座らせる。
さらさらと流れる絹糸の髪に櫛を通し、髪が視界を遮らないよう赤い薔薇のピンで纏め上げた。やはり彼には赤が良く似合う。
「ほら出来たよ」
覗き込んだ目元に睫毛の影が淡い色を描いていて恍惚の滲む息がもれた。
思わず彼の足元に跪き、白く華奢なその手へキスをおくる。これをする度、彼はくすぐったそうな笑い声をあげて嬉しそうに目元を綻ばせていた。かわいらしい笑顔で、征十郎くんは王子様みたいだね、と。
ぽたりと手の甲に落ちてきた雫に顔をあげればただ静かに、彼が泣いていた。幸せなはずなのに、どうして泣くのだろう。
ああ、蝉の声が煩い。
rewrite:2021.11.06