あの時差し出された手を取れなかったのは、その美しい手に触れた途端、掴んだ途端、握り締めた途端、全てが終わってしまう気がしたからだ。何もかもが崩れて終わってしまうと思った。けれどそれは終わってしまうのではなく、ただ世界が移り変わるだけだったのだと気付けたのは、もう随分と経ってからだった。あの時彼の少し震えていたあの手を握り締めていたら、俺の生きる世界は今では考えられないくらい美しく柔らかな色をしていたのかもしれない。こんな泥の中で息をしているような苦しさも、生き辛さも感じることはなかったのかもしれない。心情そのもののようなどんよりとした空の下を歩き、いつもの薄暗い路地裏へと入る。寄ってきた友達の猫たちの前に缶詰やにぼしを広げながら思うのは、やはりどうしたって彼のことなのだ。初めて大和と会話したのも路地裏だった。路地裏の友達と触れ合う時だけが唯一安らげる時間だった高校生の頃、偶然路地裏で鉢合わせたのが始まりだった。いつもはすぐに逃げる子たちがその時ばかりはその場に横たわったままで、静かに彼を受け入れていた。そこで俺たちは色々な話をして、それからも会話を交わし時間を共にするようになったのだ。たまに連れ立って路地裏へ行く時間が心躍る瞬間へ変わるのはあっという間で、猫に優しく触れる手に触れたくなるのもあっという間だった。あの男の傍にはいつも仄かに甘い優しい空気が漂っていて、それは俺を受け入れ、そうっと呼吸を促してくれるものだった。何かを奪うことは一度としてなく、与えてくれるばかりだったのだ。あれは、きっと彼の愛そのものだったのだろう。俺はそれに気付けなかった。愚かな俺はそれに気付くことなく、ありもしない終わりの影に怯えて、震えながら愛を差し出した手を拒んだのだ。拒んだから、今俺は独りで暗い夜に怯え、刺すような朝日に震え、細く呼吸を繰り返すしかない。救い上げてくれるあたたかな手はもうない。吐き気のする後悔はずっと燻り、纏わりついて離れることはない。
rewrite:2022.02.24