rewrite:2021.12.23
夜に通り過ぎていく
また幾つもつけられた傷跡に消毒液をかけ、ガーゼで覆い包帯を巻きつける。最初に比べ随分と上手くなってしまったその処置に、それだけの回数を重ねてきたのかと鬱々とした気分になる。赤いカッターを握り締めたまま、ぼうっとどこかを見つめてただ涙を落としていた薫が小さく「いたい」と言った。顎を伝って落ちた雫があちこちに模様をつくる。いたい、征ちゃん、いたいよ、と泣いて目を閉じる彼が本当に痛がっているのはこんな傷じゃないことはわかっていた。この腕よりもずっとずたずたに切り裂かれ抉られたその柔らかい部分は、もう手遅れなほど傷だらけなのだろう。きっと治すことも出来ないのだ。彼の手からもう使い物にならなくなったカッターを取り上げ、抱き寄せた。抵抗もしないけれど抱き返すこともない。「薫、もうこんなことしたらだめだ」彼がこうして自分を傷つけてその痛みで内側の痛みを誤魔化しているのは知っているし、そうしないとバランスを取れないのも知っている。だけど、これ以上痛々しい傷跡をつくってほしくないのだ。「むりだよ」痛くて仕方ないもの、そんなの耐えるなんて出来ないと彼が小さな声で言う。彼の冷たい涙ですっかり温度を無くした肩に、彼の温かい息がぶつかる。「僕がいるから」何が出来るかなんてわからない。何も出来ないかもしれない。それでも頼ってほしかった。僕がいるからなんて薄っぺらいことを言ってしまうくらい、彼を救いたいなんて出来そうにもないことを望んでしまうくらい、僕は彼を愛していたのだ。彼は何も言わなかった。何も言わず、小さく、少しだけ笑った。きっとこれから先も彼が僕に頼ることも助けを求めることもないのだろう。結局僕は彼の支えになることも出来ず、ただ彼が傷つき血を流すのを見ているしかないのだ。ああ、鋭い棘がほしい。こうして彼を抱きしめて彼の胸も己の胸も一思いに突き刺してしまえるだけのものがあればいい。そうすればもう二度と彼が傷付くことなく、共に何もかも終えてしまうことが出来るのに。
罰みたいな刹那
彼には一体この世界がどのように見えているのだろうと時々考える。死んでしまったかのような澱んだ目は宙を彷徨い僕を捉えることはなく、掻き毟られまた傷の開いたその腕が彼の心のように思えた。「だめだよ」血で染まった爪でまだ傷口を抉ろうとする手を掴む。そこでやっと僕を捉えた彼が小さく笑った。それは歪で痛々しい笑顔なんて到底呼べないもので、彼の心からの笑顔なんて思い出せないくらい長い間、僕はそんな顔ばかり見ている。傷口の処置をする自分の慣れた手付きに溜め息が漏れそうになった。慣れてしまうくらい繰り返し続けている、そう思うだけで全身が重く沈み込んでいく心地がしたのだ。いつまで続ける気だろう、こんな、意味のない、いや、きっと彼にとっては意味のあることなのだろう。けれどそれは僕には到底理解できない。僕に彼は、理解できないのだ。「お腹へったなあ」ぼんやりとまた目を彷徨わせ、くっついてしまいそうな速度で瞬きをしながらもう一度、お腹がへったと呟く。「食べなかったのかい?」「吐いちゃった」「そう……何か食べる?」「うん」また吐いちゃうかもしれないけど、とまた彼が笑った。零れた笑い声は引き攣り震えていて、嗚咽のような壊れたそれは聞いているだけで苦しく耳を塞いでしまいたくなる。壊れた笑い声から逃げるように、何か用意するといって部屋を離れた。のろのろとキッチンで薄い味のスープを用意し、薫を呼びに扉の前まで来て、体が止まる。向こうからは何も聞こえない。この、扉を押し開く瞬間がいつも怖くて仕方ない。この先で冷たくなっている気がするのだ、虚ろな目で天井を見上げ、息を止めた彼の姿が浮かんで離れない。それが現実になっているのではと思ってしまってノブを回せなくなる。「薫、出来たよ」深呼吸して扉を開けて、彼がまだ生きているのを確認する。彼は先ほどと変わらない体勢で、ぼんやりしていた。「なあに?」「スープ、食べられるかい」「うん」頷いた彼の手を引き立ち上がらせる。数分前に巻いたばかりの包帯はもう解かれ血に汚れ、また新しい傷が出来ていた。一体いつまで続くのだろう。
rewrite:2022.01.04
昨日の傷を舐める
高校一年生の冬、征十郎は初めて敗北というものを知った。多分それからだ、僕と彼の関係が少し歪に変わってしまったのは。彼はいつだって凛と真っ直ぐ前を向いて己が正しいという道を突き進んでいた。けれどあの冬の日、彼は崩れて壊れた。他の人たちと同じように彼もその敗北を糧としようとしていたのは知っている。けれど出来なかった。彼はあの日、もうどうにも出来ないほど粉々に砕けてしまったのだ。残骸。正にそれだろう。右側にかかった重みに目を開ければ、先程まで向こうで日誌を書いていた征十郎が隣に座っていた。僕の肩に頭を乗せ、ゆっくりと息を吐き出し、メッキが剥がれていく。“赤司征十郎”としての美しい外側がはらはらと落ちていって、そうして現れるのは醜い何かだ。「薫」「なに」「薫」「うん」「……薫」放り出された僕の手に彼の指が絡み付いてきた。彼はいつも僕の手をキツく握り締める。昔のように優しく触れてくれることはきっともう二度とないのだろう。「大丈夫だよ」「うん」「征十郎は間違ってないよ」「うん」なんて不毛なのだろう。こんなどこにも行けない、辿り着けない会話を繰り返して一体何になる。彼が僕の隣にいるのは昔のような純粋な好意だけではない、僕ならどんな自分であろうと無条件に受け入れると思っているからだ。揺らいでしまった彼にはもう何もないのだろう。だから、そうやって自分を正しいと言ってくれる存在がいないといけないのだろう。可哀想な人、なんて愚かで哀れなのだろう。ぐずぐずに腐敗して、悪臭すら放っていた。「薫、」その後に続く言葉はなんてもう分かり切っている。「すきだよ」擦り寄って、縋るような震えた声で紡いでみせるのだ。でも僕はそれすら計算で、ただ僕を離さないだけの言葉であると知っていた。けれど僕は彼から離れることなんて出来やしないのだ。このどうしようもなく愚かで哀れな人を、馬鹿馬鹿しいことに愛してしまっているのだから。ああ、なんて笑える話だろう。
rewrite:2022.02.14