rewrite:2021.11.14
喪失はいつも指先の届かないところにある
蝶は幼虫から成虫になる時、一回死んじゃうんだって。そう言った薫は淡い微笑を唇に乗せて、うっとりと目を細めていた。「美しくなるために生まれ変わるんだって。死を経て全てを創り変えるんだよ」パックジュースを弄ぶ指の先を守る爪は噛まれ毟られた後が幾つもある。ぎざぎざになったそこはひとつの小さな凶器で、それで傷つけられるのはいつだって彼自身だ。「アポトーシス、征十郎くんならきっと知ってるよね」自殺プログラムだよと何が楽しいのか満面の笑みを浮かべる彼に鳩尾がじっとりと重く冷え込んでいく。頬杖をついた拍子に少しだけずり落ちた袖がちらちらとそこにある傷の頭を見せる。彼が生まれ変わろうとした証。生きることを確かめる為につけられたものじゃない、本気で命を絶とうとした深く太いものが数本、そこに横たわっていることを知っているのはきっと僕だけなのだろう。醜い傷跡は今でも着実に増え続けているはずだ。そこだけじゃない、腕にも腿にも。薫は着実に死へと向かっていて、いつも失敗して未遂に終わってしまうけれど確実にそれは彼の命を削っていた。何度も何度も自分を傷付け、彼は少しずつ己を破壊しているのだ。彼の話していたアポトーシスの話は僕も知っていた。蛹の中で死んだ幼虫がペースト状になり新たな形を、美しいとされる形を作る。彼も、そうなのだろうか。どろどろになって生まれ変わろうとでもいうのだろうか、そんな必要はどこにも無いのに。「征十郎くんは」真っ直ぐで無垢でどこまでも空っぽになってしまった瞳がじっと僕を見る。その眼で見つめられるたび、昔の毎日楽しそうに笑いはしゃいでいた今とは正反対の薫を思い出して息が苦しくなる。「きっと僕が生まれ変わっても、気付いてくれないんだろうな」少しだけ寂しそうな色を浮かべた柔らかな眼差しは責めているようで、それがどうしようもなく悲しかった。けれどわかるよと言ったところで彼はそれを信じないのだろう。見つけられる自信は確かにあるのに、それを彼に伝える術が僕にはない。彼に届く言葉はいつだって圧倒的に少なく、僕は彼に何も伝えることが出来ないのだ。
孵らぬ卵を温めた
※そこはかとない医者パロ
皆が責め立てる、お前が悪いんだって皆が言ってる。ぼくは悪くないのに、悪いことなんてひとつもしてないのに、皆ぼくを悪者扱いするの。ぼくは、悪くなんてないのに。幼い子供のようにぼろぼろと泣きながら、それでも彼、東雲薫は血に塗れた包丁を手離さなかった。泣いて、泣いて泣いて、目玉が溶けてしまう程泣いていたのに、その手はしっかりと多くの人を死に至らしめた悪意を握り締めていたのだ。その現場を俺が見たわけではない。けれどその光景が酷く惨たらしく人の心を切り裂くには十分足りえる程だったのは分かる。人の心は、こんなにも恐ろしく残酷で昏いものなのかと零した旧友の顔はそうそう忘れられるものではなかった。「赤司先生」呼ぶ声に振り返れば、あの怯えたような顔があった。それだけで何の用事なのかわかってしまう程俺は彼と関わっているのか。「今行く」自販機で温かいココアをひとつ買って、看護師たちの忙しない足音を聞きながら彼がいる部屋へと向かった。身を切り裂くような絶叫が聞こえる。今日は時間がかかるかもしれないな、と近付くにつれ大きくなる泣き声にココアの缶を握り締めた。彼はここに来てから、殆ど毎日泣いている。泣き喚くときもあればただ静かに涙を落とすときもある。その時その時で違うけれど、一貫して泣いているのは『怖い』からだ。彼はいつだって何かに怯えている。怯えながらそれに抗う。その結果が、あの血塗れの包丁だ。「せ、先生っ」幾つも並ぶ白い扉の一番奥を開ければ、中にいた二人が駆け寄って来る。「出ろ」何か言いたげな顔で、だが結局何も言わずに出ていく。それを見届けて錠を下ろし彼が繋がれているベッドへ腰かけた。「大丈夫だよ、薫、大丈夫」暴れる体を抱きしめて一つ一つ血を噴く傷を埋めていく。貼った先から剥がれていくような脆い絆創膏じゃ何の解決にもならないというのに。この呪詛のように繰り返される言葉こそ彼を雁字搦めにしているということは、とっくの昔に解っていた。
皆が責め立てる、お前が悪いんだって皆が言ってる。ぼくは悪くないのに、悪いことなんてひとつもしてないのに、皆ぼくを悪者扱いするの。ぼくは、悪くなんてないのに。幼い子供のようにぼろぼろと泣きながら、それでも彼、東雲薫は血に塗れた包丁を手離さなかった。泣いて、泣いて泣いて、目玉が溶けてしまう程泣いていたのに、その手はしっかりと多くの人を死に至らしめた悪意を握り締めていたのだ。その現場を俺が見たわけではない。けれどその光景が酷く惨たらしく人の心を切り裂くには十分足りえる程だったのは分かる。人の心は、こんなにも恐ろしく残酷で昏いものなのかと零した旧友の顔はそうそう忘れられるものではなかった。「赤司先生」呼ぶ声に振り返れば、あの怯えたような顔があった。それだけで何の用事なのかわかってしまう程俺は彼と関わっているのか。「今行く」自販機で温かいココアをひとつ買って、看護師たちの忙しない足音を聞きながら彼がいる部屋へと向かった。身を切り裂くような絶叫が聞こえる。今日は時間がかかるかもしれないな、と近付くにつれ大きくなる泣き声にココアの缶を握り締めた。彼はここに来てから、殆ど毎日泣いている。泣き喚くときもあればただ静かに涙を落とすときもある。その時その時で違うけれど、一貫して泣いているのは『怖い』からだ。彼はいつだって何かに怯えている。怯えながらそれに抗う。その結果が、あの血塗れの包丁だ。「せ、先生っ」幾つも並ぶ白い扉の一番奥を開ければ、中にいた二人が駆け寄って来る。「出ろ」何か言いたげな顔で、だが結局何も言わずに出ていく。それを見届けて錠を下ろし彼が繋がれているベッドへ腰かけた。「大丈夫だよ、薫、大丈夫」暴れる体を抱きしめて一つ一つ血を噴く傷を埋めていく。貼った先から剥がれていくような脆い絆創膏じゃ何の解決にもならないというのに。この呪詛のように繰り返される言葉こそ彼を雁字搦めにしているということは、とっくの昔に解っていた。
rewrite:2021.11.14
おわかれの日に朝日が差すこと
薫は物を捨てる。ふと思い立ったように大掃除を始めて、掃除を始めると色々な物を捨て始めるのだ。それは着なくなった服だとか読まなくなった本だとか、そういう不要になったものだけじゃない。家具などの大きなもの以外、何もかも捨ててしまうのだ。気に入っていたDVDも、集めていた小物も、大事にしていたアクセサリーも、何もかも何一つ残さずゴミとして処分してしまう。それはまるで過去を清算しているようだった。今まで彼の部屋で生き、彼の部屋を彩っていた物たちが大きな袋の中で死んでいる。その死骸の山にどんどんと、あれも要らない、これも要らないと物を投げ込んでいく彼が恐ろしいものに思えた。雑誌を纏めていた僕の手が止まっていることに気付いた彼が動きを止める。「終わった?……なんだ、終わってないじゃん。どうかしたの?」と首を傾げる薫はいつもと変わらない。大きな目を瞬かせて、じっと覗き込むように見つめてくるのも変わらない。「いや、なんでもないよ。少し疲れただけ」「んー、じゃあちょっと休憩しよっか。お茶淹れるね」転々と転がるゴミ袋を避けていく。ゴミ袋から透けて見える兎の置物が恨めしそうに僕を見ている気がした。「あとどれくらい?」薫からカップを受け取り、置物から目を逸らす。「どれくらいだろう。まあ分別するだけだからあと一時間もあれば終わるんじゃないかな」「……全部捨てるのか?」「そうだけど?」どうしてそんなことを聞くのだ、と言いたげな目。「どれも必要ないでしょ」視線を僕の向こうにある死骸たちへ投げてから平坦な声で言う。どれもこれも、必要ないのか。薫の手に包まれた彼のお気に入りカップを見た。これも捨てられてしまうのだろうか。「そう」いつか僕も、ああやって『必要ない』と捨てられてしまうのかも知れない。あの兎の置物やアクセサリーのように、投げ捨てられるのだ。なんて恐ろしい人だろう。「片付けが終わったら、買い物に行こう」もしそうなったとしたら、僕は彼を恨むだろうか。恨むかも知れない。
rewrite:2021.11.14
夢の残り火
巻きついた指が離れない。くっついて、溶けて、繋がってしまったのかもしれない。彼の顔がどんどん赤くなり、苦しそうにもがく彼の指が爪を立ててくる。手を離してあげたいのだけれどどうやらくっついてしまっているようで、離せない。ごめんね、ごめんね、呟く声は嗚咽に溺れてきっと彼には届かない。どうしてこんなことになっているのだろう。ついさっきまで戯れるように触れ合っていたというのに、あんなに幸せだったというのに、今僕は堪らなく不安で悲しくて悲しくて仕方がないのだ。訳の分からぬ薄暗いものが後ろから迫っていて、逃げることなんて出来ないとは分かっていても逃げ出したくて、そうしたら指が、くっついてしまった。「―――」遠くから音が聞こえた。何の音だろう、優しくて温かくて泣きたくなるようなこの音を僕は知っている。これは、「―――、薫っ」はっと息を吸いこむように目が開いた。「薫、大丈夫か?」ああ良かった、と安堵の溜め息を吐いてゆっくりと僕の頭を撫でる手。まだどきどきしている。身を起こし渡された水を飲む僕を撫でながら心配そうに彼は眉を寄せた。「随分魘されていたけど何の夢を見ていたんだ?なかなか起きないから心配したよ」まだ不安に強張り震える僕を落ち着けるよう優しく抱き締めてくれる。彼の胸にひたりと耳を寄せれば確かに聞こえる規則正しい心音に安心した。「憶えてない……でも」怖かった、どんな夢を見ていたのかもう何一つ憶えていないけれど、とても怖かった。「そう……でも大丈夫だよ、それはただの夢だ」「……うん」背を撫でる手に目を閉じる。温かい。けれど足の先がひどく冷えている。何かが絡まっているのだろうか、薄暗い、そうっとくっついて離れない不安のような嫌な冷たさがあるのだ。「征、ねえ、怖い」這い上る。脳裏を一瞬掠めた光景は、夢だろうか。「征、怖いよ」とても嫌な感じがする。彼にそれを伝えたいのに上手く伝えられない、逃げられない。「征」目の前で苦しげに喘ぐあなたが見える。
rewrite:2021.11.23
凍る精彩
磔にされたイエス・キリストは神の子とされていた。そして今磔にされた哀れな彼もまた、人は神の子と呼び今なおそう呼ばれ続けている。いや、前より一層、様々な人に神の如く崇められている。彼は彼自身を磔にすることで、己を殺してしまうことでより高みへと昇って行ったのだ。すると磔にされた方の彼は、さながら神への供物だろうか。笑える話だ。甘ったるいケーキを一口頬張り、暗い部屋で古ぼけ黒ずんだ十字架に縫い止められた彼を見上げる。打付けられた手からは今もまだ血は止まらず流れ続けていた。首に巻かれた鎖はとうに錆び付き時の流れを示しているのに、その血は決して止まることを知らない。「馬鹿なひと」なんて愚かで、哀れで、惨めな人なのだろう。彼の目のような苺を歯で押しつぶすとどろりと果汁が溢れた。するりと首元に誰かの腕が絡む。細いのに筋肉質なその腕は、よく慣れ親しんだ彼のものだった。「なあに、征十郎」振り向かずにケーキにフォークを突き立てる。すり、と頬に彼の頬がすり寄せられ柔らかな髪の感触が少しだけくすぐったい。「こんなところにいたら風邪を引いてしまうよ」またこんな薄着をして、と僕の前で交差していた手が服をつまむ。「ちょっと、あんまり動かないで。ケーキ落としちゃう」切り分けたスポンジをまた一口頬張る。腕が邪魔で非常に食べ辛い。「ふふ、ねえ、僕が食べさせてあげようか」耳朶に触れる唇や吐息がくすぐったくて仕方がない。身を捩りながら首を振れば、つれないねと笑った。それがなんとなく不愉快で半ば飲み込むようにケーキを平らげていく。最悪で最低な気分だ、甘くて幸せなはずの午後のひとときが台無し。「食べたなら行こう」腕を解き、彼は僕の前へ来ると手を引き立ち上がらせた。彼越しに見える彼を見る。暗くて顔が見えない。あの赤い瞳は隠されているだろうか、それとも今もこの全てを見ているのだろうか。「薫、行くよ」引かれるままに背を向けるその一瞬、あの鮮烈な赤を見た気がした。
rewrite:2021.11.23
わたしの王子様っぽいひと
昔から薫には嫌なことがあると寝て忘れるという習慣があった。たくさん寝て、起きるともう何もかも消し去り忘れ去って元気になる。それは高校生になった今でも同じだ。嫌なことを忘れる為に眠っているときの彼は、自力では決して起きることができないようだった。五感の全てをこの世界から切り離しているかのように眠り、目覚ましの音も母親の声も何も聞こえなくなってしまう。それでもどうやら俺の声だけは聞こえるようで、いつからか俺が毎朝起こしに来るようになっていた。それを面倒だと思ったことはない。むしろ彼に俺の声だけは届くという事実が一種の優越感染みたものを俺に抱かせた。だというのに、いつものように名前を呼びながら揺すっても今日は全く反応がなく、布団を剥いでも叩いても起きない。おかしい。薫の母親に昨日何かあったのかと聞いてみても何も分からず、昏々と死んだように眠り続ける彼に心が徐々に冷えていく。もし、このまま一生起きなかったら。俺が彼を起こすようになってからずっと存在し続けていた小さな不安がじわじわと広がっていく。大丈夫、ちゃんと起きる、今までずっとそうだったのだから……でも、本当に?現に今、俺の声さえ聞こえていないというのに?纏わりつく不安を振り払おうとしても大きくなるばかりで、恐ろしくて、あたたかい薫の手を縋るように握り締めた。握り返されることはない手、動かない閉じた瞼、薄く開かれた唇に、微かに上下する胸。その姿にふと、昔読んだ御伽噺を思い出した。彼はお姫様でもなんでもない、ましてや男だけれど、死んだように眠るその姿はあの茨の城で眠り続ける姫君のように見えた。真実の愛の口付けで目覚めた眠り姫。真実の愛だなんてそんなものが本当に存在しているのか分からない。「起きて、薫」けれどどうか、と唇をよせる。触れた場所からじんわりと柔く甘い熱が伝わって、そうして何かが流れた。「薫?」ぴくりと震えた瞼にはっとする。嘘か誠か偶然か、まさか、本当に彼が眠り姫だとでも?「ん、……あれ、征十郎……?」見慣れた寝ぼけ眼が俺を見上げている。その目につい、泣きそうになった。
rewrite:2021.12.04
音一つ失くして
勝利は基礎代謝、なんて言っていたから負けたら死ぬのかと思っていた。けれど案外しぶといようで、彼は未だに食べて寝て息をしている。けれど今の彼は、殆ど死人と変わりはないのかも知れない。駅前のお気に入りの喫茶店で大好きなキャラメルティーを頼む僕の前で、彼は何処を見ているのか分からない目でぼんやりとしていた。「ねえ、何にするの?」ただ規則的な瞬きしかしない瞳を見つめても、何にも言葉は返ってこない。「すいません、ええと、ダージリンでお願いします」溜め息を吐いてから彼の分も勝手に注文する。まるで抜け殻だ。なんとか部屋から引っ張り出してみたけれどまるで駄目だ。「ねえ」僕が話しかければ柔らかく目を細めて、優しい声で返事をしてくれていた彼はもういないのかと思うと、なんだかとても悲しくなった。ついでに今朝見た夢まで思い出してしまって、もっともっと悲しくなる。「今朝、征くんが死ぬ夢をみた」貴方、僕に殺してくれだなんて言ったんだよ。甘いにおいが鼻先を掠めていく。「ねえ」どうしてあんな夢をみたのかなんて考えなくてもわかる。淡々と瞬きだけをして、僕の方を見ようともしない。「返事くらいしてよ」僕の目の前で息絶えた貴方を、僕はどんな思いで見ていたと思う?悲しくて、怖くて、息が出来なかった。目が覚めてもそれが夢じゃなかったらと思うと怖くて涙が止まらなかった。その時初めて僕は僕自身がこんなにも彼を好いていたのだと気付いた。「ねえ」あの時はなんてことない風に、負けたら死ぬのかと思っていた。「聞いてる?」つんと奥が痛む。唇が震えていた。負けたから、だからなんだっていうんだ。敗北だなんて誰もが一度は味わうものだろう。たった一回の敗北で、何もかもが消えてしまうわけじゃないだろう。「ねえ」僕はただ、もう二度と、あんな夢はみたくないだけなのだ。そうして、またちゃんと僕を見てほしいだけなのだ。「ねえ」虚ろな瞳はただ瞬く。「いい加減にしてよ」
rewrite:2021.12.04
繋ぎ目のひとつひとつ
日に日に彼が起きていられる時間は減っていた。それに比例して、眠るのが怖いと薫は度々口にするようになった。眠るのが怖い、次いつ起きられるのか、いや起きられるのかさえわからないから、眠るのが怖い。シーツの白が反射してただでさえ白い肌が青褪めて見える。その頬に涙の跡をつくりながら、彼は冷えた指先でそっと俺の手を握るのだ。そこに俺がいることを確かめるように、ここに自分がいると確かめるように触れられるその手を、俺は何も言えずにただ握り返すしかない。彼は病気なのだという。俺にも詳しいことはよくわからないが一度眠ってしまうとなかなか目覚められないという病気なのだそうだ。半日眠り続けることもあれば、丸一日眠っているときもある。最近では丸一日眠るだけならばまだ良い方で、三日、四日と続くことの方が多い。前よりも症状が進行している証だ。「征十郎くんにもう会えなくなりそうで、怖い」煙る淡い睫毛を伏せて、彼は小さな声で言った。どんどん希薄になっていく彼に大丈夫だよなんて言えるわけがない。彼は自分が一体どんな状態なのか解ってしまっていた。嫌という程解りきってしまっているから、そんな無責任で楽観的なこと言えやしなかった。ただただ冷えた手を暖めるように握り締めるしかない俺に、彼は吹けば消えてしまいそうな程儚く、今にも泣きだしてしまいそうな笑みを見せる。それから眠たげにゆっくりと瞬きをして、「ごめんね」と、その、息を吐くように優しくささやかな呟きにはっとした時にはもう彼の瞳は隠れてしまっていた。人形のように血の気の失せた顔は静寂を保つ。微かに聞こえる呼吸音だけが彼がまだこの世に留まっていると証明していた。「薫……」一体、俺は何をやっているのだろうか。力の抜けてしまった手を包み額に押し付ける。まだ彼と話したいこともやりたいことも、行きたいところもたくさんあるのに。だからどうか、どうか、ここからいなくならないでくれ。俺を、置いていかないでくれ。
rewrite:2021.12.04
もっと先の未来、或いはすぐ側にある過去
彼が何を言っているのか理解出来なかった。間抜けな顔をして、え?と馬鹿みたいに聞き返せば彼は淡々と繰り返す。「だから、飽きたって言ってんの」ひどくつまらなさそうに溜め息を吐く様は今までも何度か見てきたけれど、それが僕に向けられるなんて思ってもいなかった。「なんかつまんない、征十郎くん。何でもかんでもはいはいって僕の言うことに従っちゃってさぁ、つまんない」冷えた眼差しと面倒くさいと言いたげな表情、言葉。ひとつひとつが的確に心の柔らかい部分に刺さって抉っていく。彼の言っていることを理解しようとしても、脳がそれを拒んでいた。「どういう、ことだい……?」「どういうって、だからさあ、別れよってこと」僕も征十郎くんと一緒にいたくない、なんて軽く言って首を傾げてゆっくりと長い睫毛を上下させる。相変わらず美しいその所作にほうっと見惚れかけて、はっと意識が引き戻された。別れる?一緒にいたくない?彼は、そう言った?「じゃあ僕戻るから」一方的に現実を叩きつけ、僕の感情などには見向きもせずに彼は背を向けた。彼との繋がりが引き千切られていく。「待って、」どういうこと?もう僕のことはすきじゃないってこと?つまらないって何?意味がわからない、何が駄目なのかもっとちゃんと、わかるように言ってよ。「待って、薫」揺れ遠ざかる腕を急いで掴んで彼を引き止めようとするけれど、たった一言「離して」で全て消える。手のひらから抜かれた腕と共に、彼と過ごした時間や積み重ねたものも何もかもするすると落ちていく。嘘だ、だって、彼は、僕をすきだと言っていたじゃないか、そんな素振りちっとも、なんで、なんで、「薫っ」追いかけようとした足は縫われたように動かない。ああ、一体どうして。彼がいない世界で、僕はこれからどう生きていけばいいというのだ。開くその距離に声を張り上げても彼が振り返ることはなく、きっとこれから彼が僕を見ることはもう二度とないのだと解ってしまった。「置いてかないで」あまりにも頼りないその音は、彼に届く前に潰える。
rewrite:2021.12.12
星に願うより早口で
最近部活が忙しいのはわかるけれど、僕のことをいささか放置しすぎじゃあないだろうか?彼が色々と頑張っているところはすきだ。目の前の立ち塞がるものをどんどん崩し均して邁進する姿は惚れ惚れとする。でも、少しくらい僕のこと構ってくれてもいいのでは?昼くらい一緒に食べたいと思うし、夜ほんの少しでいいから電話したいと思う。そりゃあ部活で疲れているのは分かるし、僕の我儘だっていうのも分かっている。でもやっぱり寂しいものは寂しい。征十郎くんは寂しくと思わないのだろうか。そんなこと思ってる余裕もない?今日も昼は別だろうか、と思いながらふと見下ろした窓の外に真っ赤な髪を見つけた。征十郎くんだ。何してるのかと窓を開けてみればなんてことない、ただの愛の告白である。「はあ?」なんだあれ、超ムカつく。苛立ち過ぎて吐き気すらしてきた。呼び出しに応じる時間はあるのに僕に構う時間はないって?「赤司!」窓から身を乗り出して叫べばびくりと眼下で彼が肩を震わせた。顔をあげた彼に今すぐ上がって来いと告げ、ぴしゃりと窓を閉めた。廊下にいた他の連中のざわざわとした視線が鬱陶しい。「っは、薫?どうした……?」全力で走ってきた征十郎くんは息も髪も乱れていて、なかなか見れない姿にちょっとだけ優越感を抱いてしまう。「あのね、征十郎くん」征十郎くんの正面に立ち一歩近づくとひくりと肩が震えた。何をそんなに怯えているんだか知らないけれど、その反応すら今は苛立たしい。もう、ほんと許さないんだからな。「すっごい、」キュッと靴底を鳴らしながら彼に近付いて無理矢理後ろを向かせ、その両腕をぐるりと回しあげる。前傾姿勢になった征十郎くんの意外と広くて格好良い背に飛びつき無防備な膝裏に足の甲を引っ掛ければ、「ムカつく!」僕でも出来るお手軽プロレス技、パロ・スペシャルの完成なのである(何かあればこれで絞めあげなさいと僕はパパに習ったのだ)。ぎりぎり締め上げながら「これから一週間何でも言うこと聞くというなら許す」といえば、一も二もなく彼は頷いた。これで許してあげるなんて僕は彼に甘すぎるかもしれない。
rewrite:2021.12.12