Cemetery

※主人公:お姫様願望持ちの多面的キュートボーイ(性悪)

花冷えの褥

ぎしりと軋む音にふわりと意識が舞う。全身を包む柔らかさにうっとりとしながらも不信を感じ恐る恐る目を開ければ見たことも無い天蓋が目に入って、それから熟れた林檎みたいに真っ赤な瞳。「あぁすまない、起こしてしまったな」蛇のように絡みつくその眼差しに怖気が走った。覗き込んでいた顔が遠のく。瞳と同じ赤々とした髪、端正な顔立ちには柔らかな微笑。誰だったろう、この人は。何度も見たことがある気がするのに思い出せない。「ここ、どこ?」震えてしまう声で言いながら体を起こし周囲を見回した。天蓋から垂れるレース越しに微かに透けて見える室内はどうにも現実味が薄く、置かれた家具や毛足の長い絨毯はまるで御伽噺に出てくる城の一室のよう。男は僕の質問など聞こえていないような顔で紅茶でも飲もうなんて笑う。弓なりに歪んだ赤い目がきりきりと締め上げる。「あなた、誰?」異常な状況に頭がつきつきと痛み出した。体の震えは治まらないし、声は緊張に掠れていて彼に届いたのかもわからない。でも彼はくるりと振り向き、「ひどいな、恋人を忘れたのか?」と蕩ける様な甘い笑みを浮かべ天蓋の向こうへ去っていく。恋人ってなに、この状況は一体何、僕はどこにいる、あの男は誰だ?震えだす手をきつく握り締め、今のうちに逃げようと足を動かし違和感を覚える。「な、に、これ……」どうして気付かなかったのだろう。がたがたと震え力の上手く入らない指で捲りあげたシーツの下、黒い革に物々しい鎖、足枷なんて呼ばれるようなものが足に嵌りそこにあった。「どこに行こうとしたんだい」銀色のトレーにティーカップを二つのせた男がレースの向こうからやってくる。サイドテーブルにトレーを置いたその手が真っ直ぐ伸びてきて、「まさか逃げようなんて思った?」ゆるりと頬を滑る。冷たく硬い指先に、喉が鳴った。恐怖に震えた喉はただ息を吸い込むだけで、思うように動きはしない。「悪い子だね、は」するすると下へ滑っていく指にとうとう堪えていた涙が落ちる。男が浮かべた甘くて綺麗な笑みは、ひどく気味が悪いものだった。
rewrite:2021.09.08 | BGM:淑女ベリィの作り方。 / マチゲリータP

苦いよりは甘い方がいい

小さな箱に詰められた美しく鮮やかな丸を白い指が摘み上げる。彼に選ばれた濃い桃色が口元に運ばれ、一口、ゆっくり食まれていった。美味しい、とその菓子同様甘い笑みを浮かべた彼がうっとりと呟き、細められたその瞳には薄っすらと恍惚が滲んでいる。幸せそうに頬を緩ませてまた一口。「征十郎くんも食べる?」綺麗な円を描く橙を白い指が摘み上げた。緩く弧を描く唇。その向こうに並ぶ白い歯とぬらりとした赤い舌が脳裏に蘇る。「そうだな、ひとついただくよ」色通りのオレンジとほんのり香る程度のアーモンドの味が絡みつき、喉の乾くようなその甘さに眉が寄る。「甘いね」「そう?」「ああ、甘い」でも嫌いじゃないよ、と言うと彼はまた笑い、黄緑色を摘まんで口へ。唇の隙間からちらりと見えた赤い舌に、ぼうっと見惚れてしまう。僕は彼に食されるこの菓子が羨ましくて仕方がないのだ。上下する喉をじいっと見つめてから、そっと視線を外し息を吐く。「征十郎くんにはコーヒーの方が良かったかもね」食べてみる?と囁かれた声に首を振った。君のために買ってきたものだ、君が全て食べてしまうといい。そう?と瞬きした彼は濃い紫色を齧った。磨り潰され、嚥下されたそれはいずれ彼の体内で分解され彼の栄養素となるのだろう。彼を構成する何かになれる、それが、ひどく羨ましかった。僕はどうしたって彼を構成するものにはなれないのに。「ねえ、」ちらちらと見え隠れする赤い舌と白い歯に、ごくりと唾を飲み込んだ。「なあに?」無垢な眼差し。舌とは正反対の、淡い桃色の柔らかそうな唇が薄く開かれ、ちらちらとまた。あの柔い唇に食まれたい、その歯で噛み砕いて磨り潰して飲み込んでほしい。そうしてゆっくりと消化され彼の体内を巡り、彼の一部として息づくのだ。ああ、なんて甘美なことだろう、そうなれたらどれだけ幸福であろうか。考えるだけでぞわぞわと肌が粟立ち熱をもっていく。口端は勝手に持ち上がり、どろりとした笑みを象った。「食べてみないかい、僕のこと」どうか頭からがぶりといってくれやしないだろうか、そのマカロンのように。
rewrite:2021.09.11 | BGM:マカロン / ATOLS

いつかを数えて

ずぶりと肩に歯を立てられる。噛み千切られてしまうのではないかと思ってしまう程の容赦ないその力と襲いくる痛みに呻くような声が零れ落ちた。じくじくと熱を持ち始めたそこは、きっととくとくと血が出ているのだろう。その証拠に征十郎の舌が這い啜る感触がある。ぴちゃりと音を立てながら舐め取られていった血液は、ゆっくりと彼の体内へ入っていくのだ。ああ、取り込まれていく。くらくらしてしまう程の恍惚と愉悦に口元が綻んだ。「」吐息混じりに囁かれた名前にそうっと閉じていた目を開けると、うっとりするような笑みを浮かべた征十郎がすっと顔を寄せてくる。赤い瞳がきらきらと輝いていて、ひどく綺麗だった。ひたりと合わせられた唇から彼の熱が伝わる。望まれるがまま唇の合わせ目を解けば案の定がぶりと下唇を強く噛まれた。内側の柔らかな肉が彼の歯で裂かれ、血が溢れ、苦い血液を彼の舌が攫っていく。僕の血が彼の中に飲み込まれていく。そうやって、僕のことも飲み込んでくれたらいいのに。そうしてしばらく、満足したのかぬるりと彼の舌は引き抜かれ離れていく。「もう、いいの」血の味が口の中に広がっていく。「まだ」全然足りないとばかりに薄く笑って零れ出た僕の涙を舐め取った。するすると下りていった赤い唇が、今度は首筋に歯を立てる。細く息を吐きながら襲う痛みに耐えていれば、くすりと彼が笑った。「痛い?」「ん、いたい……」ざらりとした舌がまた舐め取る。「っ、ねえ、征十郎」「なに」「美味しい……?」彼の手を握りながら問えば、くすくすまた笑う。「美味しいよ」食べてしまいたいくらい、と傷口を抉られる。「ぁ……、食べて、いいよ」何もかも、髪の毛一本残さずに全て食べられてしまいたい。けれど彼は甘やかな声でただ言うのだ。「また今度」だから僕は、そのいつか来る日を夢見ながら、相も変わらず少しずつ少しずつ彼に取り込まれていくしかない。ああ、一体いつになるのだろう、僕が彼になれる日は。
rewrite:2021.09.20

うそつきが守る針の筵

真っ白いパフスリーブの綺麗なワンピース。それを纏うと僕は“わたし”へと変わる。彼は白いワンピースを纏う“わたし“をとても愛していた。愛おしそうに目を細めて、優しく優しく壊れものを扱うような繊細さで触れてくれる。「今日はのすきなストロベリー・シャンパーニュだよ」薄桃色の、わたしが一番気に入っているティーカップが目の前へ置かれた。苺の甘い香りとシャンパンの仄かな香りがふわりと辺りを漂う。苺よりも赤い瞳を柔らかく細め、彼はどうぞと微笑んだ。彼が淹れてくれる紅茶はとても美味しいのは何度も飲んでいるから知っている。ひとつ角砂糖を放り込んで、ひとくち。「おいしい」ほうっと息を漏らせば一層彼は笑みを深くするのだ。嬉しそうに眩しそうにわたしを見つめて、それから、お食べとわたしの大好きなお店のベリータルトを差し出した。「今日はわたしのすきなものばかり」ベリーの甘酸っぱさとクリームのもったりとした甘さがゆっくり巡る。「しばらく僕のすきなものばかりだったからね」日に透けるラズベリーの髪を風に揺らせながら、彼はタルトを頬張るわたしをうっとりと見つめていた。紅茶よりも、タルトよりも、ずっと甘い視線がするすると巻き付く。”わたし“を強請して強制するその眼差しが、じわじわと僕を弱らせる。きっといつか、僕は殺されしまうのだろう、ずっとわたしだけでいるように。「、今日はこの後何をしたい?」鉄枷の目。美しい赤と金がきらきらと仄暗い光を湛えている。恍惚としたその瞳が、僕に深い拒絶を見せている。「征十郎さんと、薔薇園を散歩したい」僕は貴方と話す機会さえ与えられない。「そう、じゃあこれを飲んだら行こうか」彼がすきだと言ってくれたのは確かに“僕”の方だったはずなのに、いつの間にか僕は不要なものになってしまったのか今じゃあ愛されるのは“わたし”だ。甘い香りを口に含み涙と一緒に呑み込む。わたしはこんなに幸せなのに、なんて痛くて悲しい。もうやめてしまいたい。わたしも僕も、彼も、全て放り投げて。
rewrite:2021.09.20 | BGM:鏡 / 女王蜂

だめかもしれない

「きらい」拗ねたように唇を突き出し、は言った。「きらい」僕以外のことを考えるあなたも、僕以外に触れるあなたも、僕以外を見るあなたも、「きらい」ばか、と舌足らずな話し方をしながら下から睨み付けてくる。涙の膜できらきら光る瞳が綺麗で、状況を忘れ思わず見惚れてしまった。ぼうっと見つめたまま何も言わない僕には眉を吊り上げる。「聞いてる?もう、どうでもいい?」自分の発した言葉に悲しくなったのか、ぐっと泣きそうな顔になる。「聞いてるよ、ちゃんと聞いてる」そうっと今にも零れてしまいそうな涙を人差し指で拭うとぱっと頬が色づいて、眉間に皺を寄せたと思うと俯いてしまう。「ばか、ばか征十郎。ばかばか」「うん」「……ばか、きらい」「僕はすきだよ」こういうことは慣れていないからなんだかとても恥ずかしい。少し穴があったら入りたいと思ってしまうくらい恥ずかしい。誰か僕を埋めてくれやしないか。「じゃあなんで僕のことちゃんと見てくれないの」「見てるよ」「うそ」ぐずぐず鼻を鳴らして唇を噛んだ彼がもう一度嘘、と繰り返した。涙で滲んでいるのに、その声はやけに鋭い。「それはただのふりだよ、見てるふり」分かってるくせに、とじとりとまた下から睨み付けられる。その視線に、その目の中に垣間見えたものにぞっとして息を飲んだ。一瞬、僕の知っているじゃなく何か別のものに見えたのだ。「嫌い、そんなの嫌。僕は欲張りで我が儘だって知ってるでしょ?」涙の残骸で煌めくひんやりとした黒曜が、皮膚の上を滑る。「僕って馬鹿なの、どうしようもないくらい。だからどうすればいいかなんて分かんないし、そういうのって疲れちゃうからあんまり考えたくない」「、」「どうしよーって思ってた時に思い出したの。征十郎が見なくなったのって、そうなってからでしょ?」すっと白い指が左目を指す。すぐに下ろされた手は彼のポケットへと引っ込んでいった。何か、とても嫌な予感がする。「だから、それがなかったらまた見てくれるのかなーって思って」あまり見ることのない、鋭い切っ先が向けられた。芸術家のように握られた彫刻刀が、真っ直ぐ、
rewrite:2021.10.10

ダイヤモンドのままごと

なんて美しいのだろう、溜め息を吐いてしまう。完璧な骨格の上に成り立つ優艶なる彫刻の貌。シルクの肌にそうっと指を滑らせれば、くすぐったそうに小さな笑い声を零す柘榴の唇。じっと見上げてくるルビーとトパーズの瞳はこの世の何よりも美しい輝きを放っている。こうしてずうっと見つめ合って触れていたい。この人はきっと神様が造りだした最高傑作なのだ。「ねえ、本当にいいの?」こんな素晴らしい芸術品が僕のものになるだなんてまだ信じられない。「ああ。僕は君のものだよ」嗚呼、嗚呼!天にも昇る気持ちとはこのことを言うのだろう!夢みたいだ、本当に。けれどこれは夢でもなんでもない現実なのだ、と、朝日に照らされ淡く煌めく彼の寝顔を目にして漸く飲み込んだ。うっとりしてしまう。どうしてこんなにも美しいのだ、罪だ、犯罪だと心が暴れ、小さな呻き声が漏れる。ぴくりと嘘みたいに長い睫毛が微かに震えた。あ、と思ったときにはうっそりと持ち上げられ、その向こうに隠されていた宝石が顔を出す。僕を見つめ、天使のような微笑を浮かべた彼にくらくらと眩暈がした。「おはよう、」甘いのにさらりとしたミルクの声にふわふわと浮かされる。頬を撫でてくる白魚の指に魂を抜かれてしまいそうだ。今日はもうずっとこうしていたい。学校なんて行きたくない。それなのに彼は緩く首を振って、行かないと駄目だよなんて微笑むのだ。そんなの、頷くしかないじゃないか。けれど、「赤司くんおはよう!」「ねえねえ今日は」「ちょっと今は」こうなると分かっていたから余計来たくなかったのだ。でも今までのように耐える必要はない。だって彼は僕の所有物だ。「汚い手でべたべた触んないでくれる?」ぱっと腕を落とし、彼の制服を引く。馬鹿な人たちにもわかるように首輪でもつければいいのだろうか、彼が僕のものだと一目で判るような。「これは僕のだから、勝手に触るのは許さないから」まあ、僕が捨ててしまった後なら別に構わないんだけど。
rewrite:2021.10.10

これ以上どうにもならないね

なんて不毛な関係なのだろうと白いシーツを手繰り寄せ笑いながら、よく冷えたミネラルウォーターのボトルを頬に押し当てた。まだ熱は引きそうにない。ぎしりと軋む音と共にマットが揺れる。ひたりとくっついた肌はしっとりと汗ばんでいて、それがなんだか妙におかしくてくすくす笑っていれば赤い目が不思議そうに瞬く。「なんだい?」ほっそりとした美しい白い指が髪に触れ優しく梳いていく。彼は僕の髪を弄るのが好きなようで、気づけばよく触っている。「なんでもない」喉の奥でくすぶる笑いを抑えながら首を振れば首筋に髪が張り付いてきてあまりいい気分ではない。熱い湯船に浸かってゆっくりしたら、きっと最高にいい気分になれるだろう。「ねえ、お風呂はいりたい」「仰せのままに」頬に一度キスをして部屋を出て行く背をぼうっと見送る。彼が僕を好いているのは知っていた。僕も彼が好きだ。けれど僕たちは恋人などといったような甘い関係ではないし、そんなものになるつもりも更々ない。彼はまあ、違うようだけれど。毎度毎度、彼は僕がはぐらかす度に恨めしそうな憎らしそうな目でじっとりと睨み付けてくるのだ。その全てを焼き尽くさんとする劫火の目が僕はたまらなく好きだった。だってとっても、綺麗なのだ。「」いつの間にか戻っていた彼が、僕の手からボトルを奪い去る。「そろそろ頷いてくれないか」赤く熟れた唇が切なげに震えていた。熱を孕んだままの瞳はくらくらするような甘い輝きを放っていて、うっかり何もかも彼の思うがままになればいいなんて思ってしまいそう。でも、「だめ」だって繋がってしまったら、後はもう切れてしまうだけじゃないか。始まりには必ず終わりがあるのだから、僕がどんなに彼を好いても終わってしまうときは悲しいほどあっさりと切れる。そんなのってあんまりだ。僕は彼を手放すだなんてこときっと一生出来やしない。だから、臆病で愚かな僕は、終わりもしなければ始まりもしない滑稽で不毛なここに、ただ立つしかないのだ。
rewrite:2021.10.17

ただのやさしさじゃつまらない

彼の愛は真綿のようにひたすら柔く優しく、綿飴のようにどうしようもなく甘い。僕がすっぽり入ってしまうような容器に目一杯愛を注いで、じっくり芯まで染み込ませるように浸からせるのだ。受け取りきれないほどのキャンディをくれる。いつもいつもたくさんくれるから、僕はそれを食べ切れないし返しきれない。同じだけ僕だって渡したいのに、キャンディを渡す僕の手まで彼の愛で埋まってしまうのだ。そうして僕がそのことに不満げな顔をする度に彼は僕にしか見せない顔で微笑む。それがあんまりにも嬉しそうだから、僕はどうしようもなくなってしまうのだ。「あのですね、征十郎くん」「何だい、改まって」でも時々思うのだ。思ってしまうのだ。「別に、いつまでも優しくなんてしなくたっていいんだよ」僕は彼に傷付けられてしまいたいのだ。思い切り爪を立てて切り裂いて、治らない痕を残して所有の証をつくってほしい。欲望のまま、何の加減もせずに。「どういう意味?」きょとんと目を丸くした彼が少しだけ首を傾げる。「僕は征十郎になら傷付けられたって構わないよってこと」時折明確なものがほしくなる。目に見ないたくさんの愛より、ひとつの印がほしくなる時だってあるのだ。しかし僕が何より欲しているのは、その傷をつくった時に彼の心に生まれてしまうであろう後悔と自己嫌悪で。僕を傷付けてしまうことを些か異常なほど避ける彼だ、他の要因ではなく自らの手で痕を作ってしまった時、そこには途方もない後悔と自己嫌悪が芽生えるだろう。そしてそれで己を滅茶苦茶に傷付けるのだ。僕はそうやって、僕のことで苦しむ彼が見たいと思ってしまう。死ぬほど後悔してほしいのだ、僕のために、僕のことで。「僕は征十郎になら何をされても、どんな酷いことをされてもいいって思ってるんだよ」貴方の心を滅茶苦茶に引っ掻き回して、満身創痍にしてやりたい。いつも返せずにいるけれど僕だってそれくらい、そんなことを思ってしまうくらい、彼のことを愛しているのだ。
rewrite:2021.10.17

幽霊に傅いて

蝉の声を聞くとどうも嫌な思い出が蘇ってきそうで恐ろしくなる。それがどんなものであったのか、思い出せたことは一度もないのだけれど。いや、思い出さないほうがいい、きっと。じりじりと焼き殺すかのような強い日差しにふらつきそうな足に力を込め、うんざりした気分のままに這い蹲る目の前のゴミに溜め息をぶつける。嗚呼また時間を無駄にしてしまった、家でが待っているというのに。はやく帰らなければと踵を返した先、陽炎で歪んだ景色にふと足を止めた。なんだろう、この感覚を僕は知っている。くらりとまた眩暈がした。厭に煩く耳に障る蝉の声に頭が痛くなってくる。ああ、駄目だ、思い出してはいけない。視界の端で小さな花が風に揺れている。目を閉じる寸前、哀れんだような誰かの顔が見えた。「ただいま」踏み入れた室内は程良い温度に保たれ、外界とは大違いだ。部屋の中央にある真っ白でいささか大仰な天蓋のついたベッドの上、静かに眠るその姿に笑みがこぼれる。天使の如きと表現されそうな可憐なその寝顔にうっとりと息を吐いて、滑らかな白い頬を撫でてそっと唇をよせる。かわいいかわいい、僕だけのお姫様。「、起きる時間だよ」柔らかな髪を梳きながら耳元でそう囁くと、淡く光る睫毛が微かに震えゆうるりと瞼が持ち上がる。「おはよう」彼は何の返事もせずただ微睡んだ瞳を眠たげに瞬かせた。硝子細工に触れる慎重な手付きで彼を抱き上げ、ベッドの脇にある彼のお気に入りの椅子へと座らせる。さらさらと流れる絹糸の髪に櫛を通し、髪が視界を遮らないよう赤い薔薇のピンで纏め上げた。やはり彼には赤が良く似合う。「ほら出来たよ」覗き込んだ目元に睫毛の影が淡い色を描いていて恍惚の滲む息がもれた。思わず彼の足元に跪き、白く華奢なその手へキスをおくる。これをする度、彼はくすぐったそうな笑い声をあげて嬉しそうに目元を綻ばせていた。かわいらしい笑顔で、征十郎くんは王子様みたいだね、と。ぽたりと手の甲に落ちてきた雫に顔をあげればただ静かに、彼が泣いていた。幸せなはずなのに、どうして泣くのだろう。ああ、蝉の声が煩い。
rewrite:2021.11.06

見ず知らずのひかり

※社会人(?????????)パロ

“つまんない”。それを見たとき、至極退屈そうに言ったいつかのの姿を思い出した。過剰な装飾の施されたステージ上でライトに照らされ踊り舞う彼は普段の姿とはあまりにもかけ離れていて、本物なのか疑いたくなる。けれどあれは間違いなくだ。化粧を施し動くたびにふわりと広がる衣装を纏った彼はここに君臨する女王のように見えた。「あいつ、東雲だろ」彼を見かけたと言い僕をここへと連れてきた大輝が、ぽつりと呟く。あいつ、この辺りじゃすげえ有名らしいぜ。「……有名?」大輝が言うには彼はこの界隈では人気のダンサーなのだそうだ。艶やかな化粧を施し、美しい衣装を纏い、惑わせ煽るように踊る彼を男と知らずにモノにしたいと言い寄る人間は後を絶たないという。高い金を払い彼の踊りを見て、また高い金を払い彼を口説くことが出来たとしても彼は決して誰のものにもならない。そうしてもう二度と、どれだけ金を積もうがその相手と話をすることは無い、と。「この前そこのビルで飛び降りがあったんだよ。それ、あいつのせいだって」「え?」「あいつが言い寄ってきた野郎に『じゃあ愛の証明に飛び降りて見せて』とか言ったらしくてよ、そしたらそいつ、そのまま飛んだんだ」「……誰が」「黄瀬。知り合いがここの常連らしいぞ。あいつ、すっげえつまんなさそうな顔してそれ見てたって」その現場を偶然見てしまった男はそれが忘れられなくて時折その事を夢に見るという。そんなことがあっただなんて知らなかった。そもそも、彼がこんなところに出入りしていているということ自体、僕は知らなかったのだ。何にも知らないような顔で笑って甘えてくる姿しか僕は知らない。「ホントかよって思ったけど、こうして見てるとなんか納得しちまいそうだな」高いヒールの踵を鳴らし、くるりと彼が回る。そうして食い入るように自分を見つめる観客に冷ややかな笑みを浴びせ、するりと彼は舞台袖へと消えていった。きっとこれからは化粧と共に何もかもを落として、衣装と共にこの場のことを全てここに置いて帰るのだ。ああ、いつも通りにおかえりと言えるだろうか。
rewrite:2021.11.11