夕立の匂いを連れて歩くひと


▼ 宮田司郎

彼は時々おかしくなる。
いつもやたらと力のある瞳は空虚になり、顔から表情が抜け落ちて纏う空気がどろりと濁るのだ。そういう時の彼は対峙した者に真っ暗で未知の洞穴を覗いているような不安と恐怖を抱かせる。
丁度、今の俺のように。
川の中をふらふらと歩いている彼にギョッとして思わず病院まで連れてきたけれど、対処の仕方はまだいまいち分かっていない。それも仕方がないだろう、こんな風になった彼を見るのはまだ三度目なのだ。
前の時はどうしていただろう、と記憶を辿っていると診察ベッドに座っていた彼が唐突に口を開いた。

「時々、何やってんだろうなって思わないか?」

ぼんやりと外を見つめる横顔は冷たく彫像のようだった。

「何でこんなところでこんなことしてるんだろうって思うだろ?それで、何もかも無意味なことに思えてくる。そうなったらもう何もしたくなくなって、死んじまいたくならないか?好きだったものの味が分からなくなって気に入ってた曲がただの雑音に聞こえると、何かもう嫌んなっちゃうだろ」

今にも目を閉じてしまいそうなひどくゆっくりとした瞬きは、微かな苛立ちと疲労を感じさせる。

「でもこの世からおさらばしてもすっきりさっぱり消滅出来ずに天国だ地獄だ、て先が続いたらもう絶望的だよな。最悪だよ、何処まで俺を疲れさせるんだって話だ。嫌になるよな、そう思うだろ、なあ?」

どろどろと沈んでいってしまいそうな声はゾッとする冷たさに満ちている。
彼の言葉に何と返せばいいのか、そもそも何か返事をしたほうがいいのか分からずただ黙って彼を見ていた。

「帰る」

そしてまたもや彼は唐突にそう告げ、立ち上がった。

大和

出て行こうとする彼があまりにも不安定に見え、ゆらゆらと揺れる腕を掴んだ。力のない手は不安を煽る。

「今日は早く帰るから、夕飯、待っていてくれ」

無感動で無表情であった目が漸く緩やかな弧を描いた。

「分かった、待ってる」

細い糸を繋ぎ止めるような脆い約束事だ。しかし彼を留めるには十分であろう。

rewrite:2022.03.14