とうとう透明のひと、とうに透明のひと


ベッドの下から古いラジオだ出てきた。金属部分がところどころ錆ついたそれは随分と長い間放置されていたようだ。
いくつも並んだボタンのひとつを押してみようとするけれど、何かが詰まっているのか固くて上手くいかない。どこか押せるところはないだろうかと順々に触れていくと、一番端の小さなボタンがカチリと音を立て動いた。
途端、ざりざりとしたノイズが飛び出してくる。まだ動くことの驚きながら側面についたチャンネルのつまみを回してみれば、ノイズに誰かの話声が混じってきた。

『……、……』

聞いたことがあるような声だがうまく聞き取れない。スピーカーに耳を近付け、聞こえる音に意識を向けながら少しずつつまみを動かしていくと、唐突に笑い声が響いた。
その声にはっとして目を開ければいつからいたのか、彼がじっと僕を見つめている。

「あ……」

征くん、と彼の名前を呼ぶと、彼は優しく笑って僕の頭を撫でた。きらきらとした赤い、不思議な目が弓形になる。

「こんなところで寝たらだめだよ、水緒。風邪を引いてしまう」

寝てないよ、と首を振ろうとして気付く。
ラジオはどこだろう。あの固いボタンと掴んでいたつまみの感触だけがあって、肝心のものはどこにもない。もしかしたら彼が持って行ったのかもしれない。僕が目を閉じた瞬間に。
重たい頭をなんとか持ち上げて体を起こすとすぐに彼の腕が回される。少し苦しいくらいの抱擁に目を伏せゆっくりと息を吸った。
彼のにおいが肺に満ちていく。少しだけ冷たい彼のにおいはいつだって麻酔のように僕の頭を痺れさせる。何も考えられなくなって、どんどん空っぽになっていくのだ。

水緒、夕飯は何がいい?」
「……なんでもいいよ」
「じゃあ水緒のすきなものにしようか」

体の感覚がどんどん薄くなって、視界が狭まっていく。寝ていいよ、と彼が僕の頭を撫でる。目を閉じて肺の中の空気をもう一度入れ替えたとき、ざりざりとした音が聞こえてきた。
あのラジオの音だ。あれ、と目を開けるとベッドの上に転がるラジオが視界に入った。
あいしてるよ、と彼が囁く。被さるように、ノイズ混じりの笑い声が響いた。

rewrite:2022.02.06