満ち干きのほとぼり


僕はいわばもうひとつの彼なのだ。別人の形をした彼の身体なのである。
幾重も重なった傷は固く、薄っぺらなカッターナイフの刃などいとも容易く拒んでしまうけれど、彼はその傷ごと千切るように引き裂いた。乱暴に素早く、何の躊躇いもなく。
痛みに呻くこちらなんてお構いなしで、またひとつ、腕には真っ赤な線が出来上がる。幾つかの線を塞いでいた瘡蓋が刃に引っかかって引き剥がされて現れたじんわりとした熱と鋭い痛みに唇を噛むと、彼は薄く笑った。

「噛まないで、血が出るよ」

白い指が唇を押してくる。彼は彼が作りだすもの以外の傷が僕に出来ることを酷く嫌った。
僕は彼だから、きっと彼は意図せず傷付くのが嫌なのだろう、彼を傷付けるのは彼でしかいけないのだ。ぼたぼたと垂れた血が床に斑点を描いていた。
彼はその斑点を少し眺めてからこちらをちらりと見てまた笑い、血だらけの傷に口をつける。じっとりと舌が這う感触は何度繰り返しても慣れず、ぞわりと背筋が粟立った。裂いた場所を抉るように舌が動いて痛みが波のように襲ってくる。
大声で叫んでしまいたくてもじっと黙って耐えねばならない。だって僕は彼だから。けれど痛いものは痛くて、ぐっと歯を食いしばっても涙は滲む。

「また泣いてる」

真っ赤な瞳を嘲笑うように歪めて、薄く歯型のついた僕の唇に噛み付いてくる。
噛んで、舐めて、また噛んだ。吐き気のする血の苦い味がする。それがこの唇から出た血なのか彼が舐め取った血なのかわからない。僕が吐き気を堪えているのを、血の味に吐き気を感じているのを知っていながら彼は血を流し込むのを止めない。
漸く彼の気がすんで腕に包帯が巻かれた頃、決まって言うのだ。

「ねえ、ゆず。きっと君はいつか僕を殺すんだろうね」

でもそれは間違いだ。
僕には、十江ゆずという人間には彼を殺すことなんて出来やしない。彼を殺すのはどんな時でもどんな場合でも彼自身なのだ。
だって僕は、彼だから。

rewrite:2021.12.25