走り去る、とおく、遠ざかる


はっと気がつくと目の前であちこちから真っ赤な血を噴出させた女が倒れている。変に息を吸い込んだせいで喉が変な音を立てて、その音にああこれは夢でもなんでもないのだと理解した。
僕の見る夢に音はない。
そうしてこれが現実だと理解した途端、血の気が引いて頭が真っ白になっていく。ああどうしよう、と意味もなく周りを見渡すと大きな姿見が視界に入り、それに僕自身が映り込んだ。
手に握る赤く色付いたそれは大きな裁ち鋏で、どう見ても凶器で、くらりと眩暈がする。布ばかり切り裂いてきた裁ち鋏もまさか人間の喉を切り裂くことになるとは思わなかっただろう、僕も思わなかった。
よく状況が理解できない。
そうしてまた気が付けば僕は電話を握り締めていて、その向こうで大和の声がした。

『はい』

寝起きのような掠れたその声に心が落ち着いたのか、一気に脳内に情報が入ってくる。
ああ、もしかして、もしかして僕は、

『征十郎?どうした?』
大和、僕、人を殺してしまったかもしれない」

自分の震えた声を笑えるほどの余裕はなかった。

『あ?なに?』
「気付いたら目の前に、知らない女がいた」
『うん』
「多分、死んでる」
『ん~』
「あの、血が、ひどいんだ」
『うん』
「どうすればいい……?」
『状況がわかんねーなあ……どこにいんの』

どこ、なんてそんなの分からない。でもきっと多分、この女の家だ。

「多分、女の家」
『呼ばれた?』
「ええと……多分、呼ばれた、話があるって」
『そ、わかった。今から行くから何もするな』
「でも、」
『大丈夫、俺がなんとかしてやるよ』
大和、僕は、」
『お前は何もしてない、ただそこにいただけだ』

彼が言うと本当に自分は何もしていないように思える。本当にただここに居合わせてしまっただけのように感じて、でも違う気もする。
息が詰まってまた喉が変な音を立てた。

『征十郎、征、大丈夫だから落ち着け』
「……ああ」
『今すぐ行くから、待てるか?』
「待てる」

ぐるぐると渦巻く不安と焦燥を抑えて言うけれど、彼は何でもお見通しなのだ。

『お前は、何もしてないよ』

優しい声に、息を吐いた。

rewrite:2021.12.23