いま声も出ない


きっちりと固定された左手に冷や汗が止まらない。異常な現状に明滅する視界に映る彼の目はどこまでも本気だ。
、と彼の名を呼んだ声は笑えるほど震えていたけれどそれを笑う人間はここにはいないし、笑えるような状況でもない。

「なあに?」

氷嚢を俺の小指の付け根に押し当てる彼の右手には肉切包丁が出番を待ち望んでぎらぎらと光っていた。

「やめてほしいの?」

氷よりもひやりとした言葉の感触に零しかけた声を呑みこんだ。黙り込む俺を見下ろす瞳には情など欠片も無い。

「何されても良いって言ったの、征十郎くんなのに」

す、と逸らされ伏せられた睫毛が泣き出す前兆のように微かに震えていた。
惚れた弱みか否か、彼の泣き顔は俺にとってどうしようもない弱点だ。
彼の涙は心を強く揺さぶってきて、どんなことをされても泣きながら謝られてしまうと許さなくてはという思いに駆られてしまう。抱き締めて背を撫で、泣かないでくれと落ちる涙を拭わなくてはと思わされるのだ、理不尽な仕打ちを受けた直後だとしても。

「やっぱりあの子がすき……?」

囁くような声の弱弱しさとは反対に氷嚢を押し付ける力が強くなる。涙で潤んだその目の奥が暗く光っていた。

「誤解だ、何回も言ってるだろう」
「言葉なんて信じられないって言ったのは征十郎くんだよ。どうする?やめてもいいけど、どうなっても知らないからね」

目を細め、ゆったりと笑みを浮かべた彼に背筋が冷える。
このままだと確実に死あるのみ。死ぬよりも小指を失くしたほうがまだずっといい、この身をずたずたにするよりはよっぽど。
いくら謝罪しようが何をしようが彼は絶対に許さないだろう。約束という名の絶対命令に意図せずとも背いたのは俺だ。その罪の対価に小指一本切り落とすことになるとは思いもしなかったし、今でもまだ何かの冗談じゃないかとどこかで思っているけれどどこにも冗談の空気は見当たらない。
彼に執行猶予という概念があれば良かったのに。

「いいよ、やってくれ。俺は君のものだから」

もう清く全てを諦め失血死ないしショック死しないことを祈るしかない。
さて、この指の言い訳はどうしよう。

rewrite:2021.12.12