夜中の透明


部室の鍵を返してくるから待っていてと言ったはずなのに、玄関に戻るとゆずの姿は無くなっていた。
トイレだろうかと思いながら下駄箱の前まで来たとき、下駄箱に立てかけるようにぽつりと鞄が置かれているのを見つけた。見慣れた色合いのその鞄は、ここにいない彼の物で間違いない。
ふ、と嫌な予感が過る。掴んだ腕の骨ばった感触。憔悴しているような、不安定で壊れてしまいそうな目付きと、吹けば消えてしまいそうな空気。
最近、彼がまた少しずつ以前の彼に戻ってしまっていることには薄々気が付いてはいた。けれど大丈夫だと思っていたのだ。
昔、自分は何故生きているのかと嘆いていた彼の手を掴んだときのことが浮かび、また嫌な予感が湧く。大丈夫、と自分に言い聞かせるように呟いて彼の携帯へ電話をかけた。呼び出し音だけが永遠に続く、いつまでたっても繋がらないそれに不安が徐々に募って行って視線を足元へと下げたとき、再び鞄が視界に入った。
まさか、いや、でも。でももしかしたら。
ぐるぐると回り始める考えに指先が震える。そっと開けた鞄の中には彼の携帯電話が控えめな明滅を繰り返していた。
遠くを見つめるようなあの眼差しが蘇る。
鞄の中には彼の財布だけが見当たらず、さあっと血の気が引いていくのを感じた。脳裏を過ぎるのはつい数分前に彼が一瞬見せた、何か大切なものを諦めようとしているような、棄ててしまおうとしているような目、横顔。今すぐここから消えていなくなってしまいそうで思わず掴んだ腕の骨ばった感触。

『征十郎くんが言うなら、そうなんだろうね。僕はあなたに出逢うために、ここにいる』

嬉しそうにそっと微笑んだ瞳の淡い煌めきが今はひどく遠い。
靴も履き替えないままに学校を飛び出す。一体何処だ、彼は何処にいる。彼が行きそうな場所を必死に考える傍らで、最悪の可能性が頭を擡げ始めた。
足から力が抜けていきそうだ。ぐっと歯を食いしばり踏切で立ち止まった僕の目の前を電車が走り抜けていく。
その一瞬、ドア口に佇む影が彼のように見えた。

rewrite:2021.12.01 | BGM:サイレン / ASIAN KUNG-FU GENERATION |「夜光の逃げ道」の対