Cemetery

※主人公:お姫様願望持ちの多面的キュートボーイ(性悪)

苦いだけのにせもの菫

▼ 黒子テツヤ

彼の自傷癖は僕らが中学生になった頃に始まったものである。それからはまるで感情が希薄になったというように怒りもせず泣きもせず、ただただ柔らかい笑みを浮かべるだけになってしまった。本来の彼は感情の起伏が激しく、特に幼馴染であった僕に対しては本当に表情豊かだったのに、いつの間にか人形のようになってしまったのだ。人形のような彼は得も言われぬ美しさとそこから見え隠れする毒々しい恐ろしさも併せ持っているように見える。何があっても穏やかに微笑む彼は僕にとって全く知らない人で、とても恐ろしい別次元の生き物のように思えた。しかし、世界とはいとも簡単にひっくり返ってしまうものだ。いつだったか、彼が保健室でただひとり泣きながら己の腕に包帯を巻きつけていたのを偶然見てしまったあの瞬間、僕の世界はくるりと反転した。彼の透き通った涙がぱたぱたと叩きつけられる様に目を奪われ、心まで奪われてしまったのだ。彼の笑み以外の表情を見るのは本当に久しぶりで、思わず彼に駆け寄ってしまうほど僕には衝撃的だった。それから僕と彼はまた共に時間を過ごすようになったが、その距離は小学生の頃よりももっとずっと近い。「動かないでくださいね」重なるようについた無数の切り傷の上の真新しい傷から流れる血を拭い、傷口を押さえる。救急箱から消毒液を引っ張りだしてちらりと彼を見ると、僕の手元をただぼうっと見ているだけだった。「ねえ」まっさらなその表情の奥、彼の内側にあるとても柔らかい部分はひどく傷付き薄汚れた絶望に塗れている。光らない瞳は底なし沼のような不気味さと人を惹きつける奇妙な魅力があった。「テツヤはいつまでいるの」きっちりと巻けた包帯に満足気に息を吐いて、散らばったものを片付けながら僕は笑う。「いつまでもいます」彼も笑った。「嘘ばっかり」「嘘じゃないですよ、君の傷を治すのは僕です。僕はずっと君の隣で君の傷を治します」だから安心して傷付いていいですよ、全部ちゃんと、僕が治してあげますから。
rewrite:2022.03.09

薄霜色は呪いのかさなり

▼ 黒子テツヤ

酷いんです、あの人、僕の気持ちに気付いていたくせに誰彼構わず愛想を振りまくんです。にこにこ笑って優しくして、勘違いされてしまうって分かってるはずなのに偽物の愛をばら撒いて、そうやってたくさんの人から愛を捧げられながら、じいっと僕の反応を見ているんですよ。それから決まって嫉妬の炎に身を焦がす僕を見て、愉快そうに目を細めて甘美な笑みを浮かべながらごめんねって優しく言うんです。酷い人なんです、彼は。でも、僕は彼を愛せずにはいられないのでした。きっとそういう運命なんです、決まっていることだったんですよ、僕が彼に出会ったのも恋をしてしまったのも。「君」でも僕にはそろそろ耐えられなくなってきました。彼は色々な人から愛を搾取するけれど、決して自分の心は渡さないんです。奪ってみろとばかりに目の前でゆらゆらと揺らすけれど、絶対に触れさせはしない。届きそうで届かない、そんなところに置くのがとても上手でした。いくら僕が彼を愛していても、彼は僕を愛してくれないのです。紛い物の愛は吐けども、本物を出すことはない、全く酷い人。「君」もう一度彼の名を呼ぶと、今まさに階段を下りんとしていた彼がようやく振り返りました。聞こえていたくせに聞こえないふりをするなんて、なんて意地悪なんでしょうか。彼は僕を見ると、いつものように柔らかく甘い笑みを浮かべました。「テツヤくん、どうしたの?部活は?」「これから行きます」「そう、頑張ってね」それに頷いたとき、その手に握られたものに気付いてしまいました。可愛らしい柄の素敵な封筒は、俗にラブレターなんて呼ばれるものなのでしょう。彼は僕の視線に気付くと眉を下げわざとらしく困ったような笑みを浮かべました。僕の気持ちも何もかも知っているくせに。「君」「なあに」その華奢な肩を痛くないように優しく掴みました。「君が悪いんです」それから、突き飛ばしました。これでやっと、彼は僕のものになるんです。
rewrite:2022.03.09 | 元ネタ:黒子テツヤに殺されるbot様、女子高生に殺されるbot

蝶を結ぶシルエット

▼ 黒子テツヤ

あのね、僕実は幽霊が視えるだよ。心地良い風がゆったりと流れる中庭で、膝の上に弁当箱を広げた君はそう呟いた。「ええと……」なんと言えばいいんだろう、吃驚しすぎて言葉が出てこない。どうしたのだろうか、また何かに感化されたか?「嘘だと思ってるでしょ」断定的な声音で彼は言い、拗ねたようにじとりと僕を見つめて唇を尖らせた。「まあ急に言われても信じられないよね」しかしすぐにふにゃりといつものように彼は笑って、そのまま食事に戻ってしまう。彼が卵焼きを頬張るのをただぼんやりと見つめているとまた彼が箸を止めて僕を見た。「あのですね、実は就寝前になると霊感が通常の三倍になります」凄いだろう、と自慢げにどや顔付きで言ってくる。「赤くなりますか?」「残念ながら」「そうですか……。三倍になるとどうなるんですか?」彼は少しだけ考えるように宙を見つめた後、ざっくり言うと会話が出来る、と言った。「まあそれぞれの思いの強さというか、執着心というか、そういうものの度合いで少しずつ変わってくるんだけど、会話は出来るよ」会話が出来るというのはなんだか不思議な感じだ。一体彼はそういったひと(?)たちと何を話すのだろう。「例外でね、すごーく思いが強い人とは寝る前じゃなくても話せるし触れるんだよ。昼でも朝でも、いつでもね」「視たことあるんですか?」「あるよ。まだ一人だけだけど」す、と目を伏せた彼が何かを言おうとして、やめる。箸の先でミートボールをつつきまた顔をあげた。「もし僕が幽霊だったら、テツヤくんはどうする?」黒曜石のように煌めく瞳がじいっと覗き込んでくる。「僕は、テツヤくんが幽霊でもいいなあって思う。僕にしか見えないからちょっと嬉しいくらい。テツヤくんが幽霊でも、ずっと好きなままだよ」柔らかく細められた目が少しだけ泣きそうに揺れている。なんとなく、彼がどうしていきなりこんな話をしたのか分かってしまったような気がした。
rewrite:2022.03.10 | BGM:ふしぎデカルト / やくしまるえつこ

言の葉の色彩学

▼ 黒子テツヤ

偶然見た貸出カードがはじまりだった。彼の貸出カードに記された本たちの中にいくつか自分も読んだことがあるものがあり、更にその中に気に入っているものも入っていたのでなんとなく親近感というか、勝手に好感のようなものを抱いたのだ。僕が担当のときに彼がやってくることはなかったけれど、変わらず彼は図書室に通っているようで着々と貸出カードは埋まっていった。彼の貸出カードに記された本の題名を見る度に、彼が好む傾向がなんとなく分かってくる。彼が読むのは大抵ふわりとしたファンタジーや美しい言葉で綴られた恋愛小説だった。ふわふわした綿菓子のようなものが好きなのだろう。その綿菓子たちの間に時々グロテスクなものや悲惨なものも入っていたりするのは、甘ったるいものばかり食べていると時々しょっぱいものが食べたくなるのと同じようなものだろうと勝手に結論付けた。そうやって少しずつ彼の好きな作者や傾向を知っていくうちに彼自身にも興味がわいてきて、いつか本の話を出来たらと思うようになっていた。周りにあまり読書好きな人がいなかったからか、似た傾向を持つ彼と関わってみたい気持ちは少しずつ大きくなっていく。彼に僕のおすすめを読んでほしいと思うし、彼のおすすめも知りたい。学年も組も名前もわかっているのだから訪ねることも出来るのだけれど、どうにもその最初が踏み出せない。そうやって悶々としながら今日も一番手前にある彼の貸出カードを見つめる。最後の日付は三日前。あともう一日前だったら、僕が当番だったのに、と息を吐いて読みかけの本を開いた。偶々本棚整理の時に見つけた、以前彼が借りていったそれは綺麗な文体で綴られた恋の話で、慣れていないせいか少しだけそわそわしてしまう。数ページを捲ったところでドアの開く音がして顔をあげると、戸口にふわふわとした雰囲気の小柄な人がいた。その腕に抱えられた本のタイトルに見覚えがある。ざわざわと腹の内側が騒がしくなって、思わず「東雲君……?」すっかり覚えてしまった名前が滑り出た。
rewrite:2022.03.10 | BGM:気になるあの娘 / やくしまるえつこ

ただ一つ、ただの一つ、たった一つ

▼ 黒子テツヤ

部屋の電気がついている。遅くなると伝えていたからもう寝てると思ったのに、まだ起きているのだろうか。いつも寝るのが早い彼が起きて自分を待っているかもしれないということに自然と口元が緩んだ。きっと必死に睡魔と闘っているのだろう。コンクリートの階段を上って、ついこの前お揃いで買った犬のキーホルダーの付いた鍵を取り出してドアを開けた。「ただいま」鍵を掛けながら言うとリビングの方からこちらに向かう足音が聞こえ、やっぱり起きていてくれたのだと笑みが浮かぶ。「おかえりなさい」ひょっこり顔をのぞかせた彼は予想通りひどく眠そうだった。「待っててくれたんですか?」「うん、だっておかえりって言いたかったから」それにテツヤくんもおかえりって言われるの嬉しいって言ってたし、とふわふわとした夢見心地の笑みでいう彼に、きゅんと胸が痛む。些細なことでもそうやって覚えていてくれる彼が堪らなく愛しくなって、眠そうにゆっくりと瞬く彼を抱き寄せた。ぎゅうっと抱き締めながら彼の髪に頬を寄せるとシャンプーのいい香りが鼻を掠めていく。僕が使ってもこんな優しいにおいにはならないのに、不思議だ。「あっ、寝ないでください」少しずつ身体から力が抜け今にも夢の世界へと旅立ってしまいそうな彼を離し、むにりと頬を押さえる。重たげな瞼がゆっくりと持ち上がり、きらきらとした瞳に僕が映った。「だってテツヤくんあったかい」頬にあてた手の上に彼が手のひらを重ねた。僕とは違う、少しひんやりとした小さな手。ぱちりぱちりと星を散らす彼に、あ、と思った。「」彼にずっと言いたかったことがあった。けれどタイミングが掴めないままゆるゆると日々を過ごし今まで来てしまっていたのだが、もしかしたら今が、そのタイミングなのかもしれない。「なあに?」柔らかく細まった目は優しい色で埋め尽くされている。彼のこういう目を見る度に、ああ愛されていると再認識して、堪らなくなる。「結婚、してくれませんか」
rewrite:2022.03.10 | BGM:テレ東 / やくしまるえつこ

星の座の夜

▼ 黒子テツヤ

暗く沈んだ空のちかちか光る星たちに紛れて動くものが見えた。すいっと消えずに移動する光に、それが人工衛星だと気付く。流れ星かと一瞬思ってしまった。もし流れ星だったら。あまり星の見えない空から地面へと視線を落とし、ひとつの願いが浮かぶ。「(君の幸せを、僕がつくれたら)」まるで少女のようなことを考えてしまっている自分を心の中で笑い、また空を見上げる。君が小さな声で歌を紡いだ。片方の耳から流れてくるものと同じ軽やかな恋の曲だった。それは彼がすきだと言っていたアーティストのもので、とても素敵だから聞いてくれと彼に言われたものだ。はい、とバス停でイヤホンの片側を渡されたときはとてもどきどきしたし、今もまだ胸は高鳴っていた。バスが来たらきっとイヤホンは外されて、今は近いこの距離も少し離れてしまうのだろう。片側から流れてくる曲とその向こうから聞こえる彼の歌声に意識を寄せながら、隣に感じる温度のことを考えた。僕はいつまで君の隣にいられるのだろう。僕と彼はただの友達だ。それなりに仲は良いと思うけれど、クラスが変わっても彼と関わりを持っていられるかと言われたら頷けないくらい、僕と彼の共通点はあまりにも少ない。席が近くて、少し本の趣味が似ている、ただそれだけ。きっと別のクラスになったら君は僕のもとへは来ないだろう。そう思うと胸が鈍く痛んだ。僕は彼の隣にいたいと思うし、クラスが変わってもこうやってずっと帰路を共にしたい。曲はサビに差し掛かった。歌われる言葉はどれも輝いていて、こんなものを聞かせる彼に勘違いしそうになる。もし僕が今ここで君にすきだと言ったら、彼はどうするだろう。ちらりと覗いた横顔はじいっと空を見上げていた。街灯の光が彼の瞳を輝かせるその光景に、ふと思った。「(言ってしまおうか)」後押しされたのかもしれない。曲にも、彼の瞳に浮かぶ星にも。よくわからない衝動がじわじわと沸き起こってぐるぐる回る。曲はもう終盤に差し掛かっていた。「(この曲が終わったら、彼に)」
rewrite:2022.03.10 | BGM:人工衛星 / やくしまるえつこ

月の秘密をおしえてよ

▼ 黒子テツヤ

は僕の隣にいるようになってから、今までしてきたお遊びと言うにはあまりにもひどい様々な行いをしないようになった。もう思わせ振りな態度で女の子を惑わせることも、いらないと思った人間を手酷く切り捨てることもない。表面上はいつも通りに誰にでも優しいけれど、その優しさにはほんのり冷たさが混じるようになって、少し遠いくらいの距離を人と保つようになった。それが良いことなのかどうかはわからないけれど、多分、良いことなのだと思う。少し肌寒い土曜日の深夜、彼はいつもベランダで甘いミルクティーを飲む。彼の纏うものと似た淡い色を嚥下しながら静かな街を彼は黙って見下ろすのだ。「風邪、引きますよ」寝巻きの格好のままの彼にカーディガンをかける。静かな横顔がふわりと優しい色を持ち、淡い笑顔が僕へと向けられた。「ありがとう」月明かりできらきらと輝く瞳に、じんわりと体温があがっていく。の隣にいるといつもよりも体が熱くなって、頭がふわふわするのだ。その感覚は少し怖いけれど決して不快ではない。「いつから居たんですか」マグカップは半分ほど中身が無くなっている。「わかんない」細く息を吐きながら目を伏せる彼の頬に伸ばした指が、微かに震えていた。彼に触れるときはいつも緊張してしまう。拒否されるんじゃないかと、有り得ないと解っていても心の奥底で思ってしまうのだ。指先で撫でた頬はひんやりと冷たい。「外に出る時は何か着て下さい」「うん」僕といるとき、の口数はとても少なくなる。僕と彼との空間の殆どは静かな沈黙で構築されていたけれど、その代わり彼はとても優しい、幸せそうな空気を作り出す。ふわふわとした甘いそれを言葉の代わりにして僕へ全てを伝えようとするから、僕は必死にそれを拾い上げていかなければならない。それを面倒だと思ったことはなかった。「テツヤくん」彼が僕の名前を柔らかく呼んで、ぴたりと瞼をくっつける。それは僕と彼の間の、ひとつの合図だ。
rewrite:2022.03.10 | BGM:バーモント・キッス / やくしまるえつこ

チョコレートひと欠片分だけ優しくなろうとしたけれど

▼ 黄瀬涼太

俺は俺の出来得る限り精一杯彼を愛してきたつもりだった。多くのものを彼に捧げ、同時に有り余るほどの愛をもらって、俺たちは世界で一番幸せな二人かもしれないなんて夢見てしまうくらい、仲が良い自信があった。彼には俺の想いも何もかも全て伝わっていると思っていたのだ。俺たちは通じ合っているんだ、なんて。でも、どうにもそれは違ったらしい。「ねえ、涼太くんの嫌いなものを全部なくしたら、僕のこと、愛してくれる?」彼の言ったことを、俺はいまいちよく理解出来なかった。愛してくれる、だなんて何を言っているのだろうか。俺は彼を愛している。今も昔も、これから先もきっと、ずっと。それは少しヤキモチやきで勘違いしやすい彼にも伝わるように言葉にも行動にもたくさん表してきていたつもりだ。しかしそれが何ひとつ、全く伝わっていなかったのだろうかと思うと、悲しいような寂しいような、そんな苦しい気分になる。「涼太くんの嫌いな人、全部なくすから、僕のことだけ愛してくれる?」俺をじいっと見つめる彼の瞳はどこまでも真剣で、冗談の色なんて何処にもない。だからだろうか、その瞳に渦巻く純粋な嫉妬に、薄ら寒いものを覚えたのは。「なに、言ってんスか」笑おうとしたけれど上手くいかなかった。その透き通った目がたまらなく恐ろしいと感じたのだ。なくすって何、一体何をするつもりなんだ。「そんなことしなくったって俺は、」続けようとした言葉を飲み込んだ。彼の背後に回され隠されていた右手が、ゆらりと揺れて現れる。その手に握られた剥き出しの包丁は、場違いなほど鈍く光を放っていてなんだか現実味っていうものがなくて訳が分からなくなる。何でそんなもの持ってるんだ、一体それをどこで何に使うつもりだって言いたいことはたくさんあるのに固まった舌は思うように動かず、なにひとつ言葉にはならない。何も言えずにいる俺に彼はふわりとどこか壊れた笑みを浮かべた。「ちゃんと、上手くやるから」
rewrite:2022.03.10

バッドエンドのサイレンが鳴る

▼ 青峰大輝

彼の中での最優先事項が僕だということは知っていた。とても大切に思ってくれていることも知っているし、覚えの悪い脳が覚えていることのほとんどが僕のことだということも知っている。でも、やっぱり、僕以外の人間を目で追っている姿を見ると不安になるのだ。彼も男だ、そりゃあ素敵な女の子がいれば目で追ってしまうのも仕方がないと思う。思うけれど、受け入れられないのだ。僕以外を目で追うなんてと思ってしまうし、なにより、彼の視界の中にいていいのは僕だけなのだと思っていたい。「大輝?」ぼうっと窓の外を見つめる姿を見つけて、珍しいなんて思ってそばまで近寄って発しようとしていた言葉を飲み込む。綺麗な女の子がいた。窓の向こう、彼の視線の先に。「大輝」驚いたように肩が揺れて振り返る。「ああ、か。もう寝てなくていーのか?」くしゃりと笑って、大きな手で頭を撫でてくれる。いつもは嬉しく思えるその動作に今は何も思えなかった。「……?」どうしたんだと見つめてくる青い瞳の中で、ゆらゆらと陽炎のように自分の姿が映っている。今彼の視界には僕しかないけれどついさっきまで、そこには僕の知らない女の子が映っていた。今のように、彼が時折追いかけるのはどの子も僕なんかよりもずっとずっと素敵な女の子だった。男の僕が決して持つことの出来ないものをたくさん持っている、可愛くて柔らかい女の子なのだ。僕には曲線を描く柔らかい体も、甘いにおいも、優しいあたたかさもない。何もないけれど、それでも彼の視界を占有していいのは僕のはずなのに。ふといつだか読んだ伯爵夫人の話を思い出した。可愛くて素敵な女の子たちの血を浴び若返ろうとしていた伯爵夫人のように、彼が追いかけるような子たちの血をたくさん浴びたら僕ももっとずっと素敵になれるかもしれない。女の子にはなれないかもしれないけど、でも女の子よりも可愛くて素敵な人になれる気がするのだ。「ねえ大輝、僕もっと可愛くなるから、僕のこと以外見ないでね」
rewrite:2022.03.10

満ちて欠ける一瞬

▼ 黄瀬涼太

例えば誰かをすきになったとして、その誰かの一挙一動に馬鹿みたいに一喜一憂したりするのが嫌だった。自分が丸々他人に支配されてしまっているようで、自分が自分じゃないみたいで。女の子はみんな口々に恋は楽しいものだというけれど、そんな楽しいだけのものは恋ではないと思うのだ。恋は確かに甘くて柔らかいけれど、同時に冷たく辛く苦しくて全然綺麗なものじゃない。それに、好きになるとその人の汚い部分まで見えてきてしまう。それが一番嫌なのだ。見たくないものまで見えてしまうのは、それでその人を嫌いになってしまうのがすごく嫌だった。「本当に好きだったらそんなのことないよ。全部ひっくるめて好きになれる。嫌だなって思っても好きなままだもの。それで嫌になっちゃうならそんなの好きなんて言わないよ」ツン、と澄ましたようにひんやりとした声音で言った彼はちらりと横目で俺を見た。「黄瀬くんはまだ本当に誰かを好きになったことがないんでしょ、中途半端にしかないからそんなこと言うんだよ」大人ぶったような彼のその言い草が、なんとなく面白くない。「っちはあるんスか?」「あるよ」伏せられた睫毛は思っていたよりもずっと長くて、何故かそれにどきりとしてしまう。唇を引き結び地面に視線を落とす彼の横顔は静かで美しいと思った。「あのね、誰かに支配されてしまうのもそんなに悪くないものだよ」ふと顔をあげた彼が覗き込む。「疲れる時もあるし辛い時もあるけど、全部まあ悪くないなって思う」誰かを思い浮かべているのか、やんわりとした微笑が浮かぶ。誰かに恋をしている顔をする彼はやけに輝いてみえて、心臓の裏側がざわりと波打った。それを見慣れていないからだと飲み込むけど、でも本当はちゃんと分かっているのだ。でもペースを崩されるのは好きじゃないし、振り回されるのも好きじゃないからまだ認められない。「へえ、そうっスか」だからもう少しだけ、いいかなと思えるまで知らないふりをさせてほしい。
rewrite:2022.03.10