rewrite:2021.11.14
楽園の枯葉の下
しゃきん。彼の手の中で軽やかな音を立て、刃物が擦れ合う。しゃきん、しゃきん、と数度何かを確かめるようにすり合わせ、彼は小さく息を吐いた。それから何の躊躇いもなく、じゃきん。間に物を挟んだが故の濁った音を立てながら裁ち切られる。無感情に何度も刃を鳴らして、幼稚な悪意の言葉を切り崩していく。彼は無表情だった。燃ゆる炎の目は蒼褪め冷たい。「誰だ」人々に踏み躙られた花を拾いあげていた指先の優しさとは対照的に、彼女らを見つめるその目は恐ろしいほど鋭く荒々しい。「水緒を閉じ込めたのは誰だ、誰が言い出して、誰が手伝った」その威圧的する声に、哀れな少女たちの細い背は弱弱しく震える。その頼りないほど細い体内に、一体どれだけの悪意を詰め込んでいるのだろうか。どろどろに腐りきった幼い嫉妬は見境なく周囲を巻き込み、自らも燃やし尽くす。今頃保健室で静かに眠っているであろう少年に刻まれた傷を思った。何度も何度も繰り返し裂かれ、抉られ、焼かれ、醜く爛れて血を流し続けているのであろう傷を思った。その傷口が放つ痛みを少しでも和らげ少しでも癒そうとしていた赤い指は、今別の誰かに同じだけの傷を残さんとしている。止めなければならないのかも知れない。友人として、チームメイトとして、それはいけないことだと、それは違うのではないかとそう諭すべきなのかも知れない。けれど僕にはあの怒りに燃える炎も、少女たちの齎す嫉妬の炎も消すことは出来やしないのだ。じゃきん、とまた彼の手の中で音を立てる。それは鋭い槍となり少女らの喉元につきつけられた。沈黙は肯定なり、と。その矛先で裂かれた場所から溢れるのは、きっとどす黒く悪臭を放つ悪意だ。裂け目から溢れるそれをに二度と火が付かぬよう、彼は徹底的に水を掛けていく。その凍るような冷たさは彼女たちを底へと突き落すのだろう。「俺はお前達を許さない」圧倒的な憎悪、侮蔑、殺意。己が愛した人間の手に貫かれた少女は、一体何を思うのだろう。彼女らが散らした花が拾われることはない。
歪に名前をつけて
※エナメルを塗った魂の比重パロ
急に何も食べられなくなってしまった。ついこの前までは普通に、なんてことなく食べられていたものが食べられなくなった。いい匂いがするなあと思いながら食卓についても、並べられたものを見ると食欲が失せる。どうにも気持ち悪くなってしまうのだ、直前までは美味しそうと思っているのに。飲料物や流動食はまだ大丈夫だけれど、固形物は全て駄目になってしまった。無理矢理口に含み飲み込んでも胃が拒絶して結局戻してしまう。最初こそ体調を崩しているだけかと栄養価の高いものを飲んだり流し込んだりしていたが、食事が取れないこと以外には何の異変もない。「赤司さーん、赤司征十郎さーん」病院独特の消毒液のような匂いに混じって、妙に腹の空く匂いがする。物を食べられなくなってから一向に消えることのない空腹感をじわじわと刺激する匂いを感じながら、呼ばれるままに診察室へと入った。「こちらへどうぞ」内科よりも小児科のほうが似合っていそうな、随分若く見える医者が僕を見て優しく笑む。問われるがままにここ数日のことを説明すると、目の前の医者、十江先生は困ったように眉を下げた。「んー、その食べられなくなる前に何か兆候のようなものはあった?」「いえ、何も。前日までは食事はとれていたので」「うーん……」原因はやはり分からないのだろうか。溜め息を飲み込んで先生を見ると、彼はふわりと笑った。「赤司君、今何か食べたいものはある?」何かを確信している顔で、先生は優しく笑んでいる。「今……」何が食べたいか?何だろう、想像するだけで気分が悪くなりそうで、あまり考えたくない。けれど、敢えて言うとすれば、「肉……?」「何の肉だい?鶏?豚?」「いえ、」「じゃあ、何?」何、なんだろう。ふと下げた視線の先にすらりと伸びた綺麗な指が映る。おかしなことにじわりと唾液が出てきて、胃が活動しようとしていた。変だ、と思っているうちにすいっとその指が動く。「いいよ、噛んでも」口元へやって来たその白い指が美味しそうに見えて、ごくりと喉がなる。「どうだい、気分は」
急に何も食べられなくなってしまった。ついこの前までは普通に、なんてことなく食べられていたものが食べられなくなった。いい匂いがするなあと思いながら食卓についても、並べられたものを見ると食欲が失せる。どうにも気持ち悪くなってしまうのだ、直前までは美味しそうと思っているのに。飲料物や流動食はまだ大丈夫だけれど、固形物は全て駄目になってしまった。無理矢理口に含み飲み込んでも胃が拒絶して結局戻してしまう。最初こそ体調を崩しているだけかと栄養価の高いものを飲んだり流し込んだりしていたが、食事が取れないこと以外には何の異変もない。「赤司さーん、赤司征十郎さーん」病院独特の消毒液のような匂いに混じって、妙に腹の空く匂いがする。物を食べられなくなってから一向に消えることのない空腹感をじわじわと刺激する匂いを感じながら、呼ばれるままに診察室へと入った。「こちらへどうぞ」内科よりも小児科のほうが似合っていそうな、随分若く見える医者が僕を見て優しく笑む。問われるがままにここ数日のことを説明すると、目の前の医者、十江先生は困ったように眉を下げた。「んー、その食べられなくなる前に何か兆候のようなものはあった?」「いえ、何も。前日までは食事はとれていたので」「うーん……」原因はやはり分からないのだろうか。溜め息を飲み込んで先生を見ると、彼はふわりと笑った。「赤司君、今何か食べたいものはある?」何かを確信している顔で、先生は優しく笑んでいる。「今……」何が食べたいか?何だろう、想像するだけで気分が悪くなりそうで、あまり考えたくない。けれど、敢えて言うとすれば、「肉……?」「何の肉だい?鶏?豚?」「いえ、」「じゃあ、何?」何、なんだろう。ふと下げた視線の先にすらりと伸びた綺麗な指が映る。おかしなことにじわりと唾液が出てきて、胃が活動しようとしていた。変だ、と思っているうちにすいっとその指が動く。「いいよ、噛んでも」口元へやって来たその白い指が美味しそうに見えて、ごくりと喉がなる。「どうだい、気分は」
rewrite:2021.11.14
蜃気楼を織る
水緒の背から羽根が生えた。空想や絵画の中の天使のような、純白に煌めく大きな翼が。「水緒、痛くない?」その付け根はまだ少し赤く、痛々しい。一人では洗うこともままならなくなった彼の背を洗い流しながら問えば、彼はぼんやりとした目でただ頷いた。日に日に彼の意識は希薄になっている。あの日、痛みに叫び泣く彼に僕は近寄ることが出来なかった。痛い、たすけてと掠れた声で言う彼の鮮やかな赤を散らす白い背から目が離せなかった。ぼたぼたと大きな粒を瞳から落とす彼の背を引き裂き現れた、真っ白で美しい大きな羽根。微かに輝きを放ちながら姿を現したそれに、彼の叫びがなりを潜めて漸く近寄ることが出来た。触れることを躊躇うほどに神々しく、恐ろしさすら感じる天使の如き羽根。どうして突然、本物なのか、俄かに信じ難い、夢でもみているのか?ぐるぐると頭を駆け巡ったそれらは、恐る恐る触れた羽根の予想外のあたたかさに霧散した。感覚もあるらしいそれを切り落とすこと出来ず、かといって病院なんぞにも行けず、結局どうすることも出来なかった。「流すよ、熱かったら言って」少し温い湯をかけると、羽根の上をきらきらと光りながら滑り落ちていく。初めは僅かだった輝きは、日に日に強くなっている。周囲を光の粒子が飛ぶようにぼうっと光っているのだ。それに比例し薄くなる彼の意識に僕は不安を隠せずにいた。もし、このままどんどん彼の意識が薄れていって、無くなってしまったら。そうしたら、一体どうなるのだろう。「水緒?」流し終え、いいよと言っても動かない彼にどうしたって嫌な事をばかり考えてしまう。暫くして彼はやっと細い声で返事をした。「大丈夫?」「うん」「どこか痛い?」「ううん」緩慢な動作に合わせてぱたりと滴が落ちる。「あのね、最近、よく分かんないの」「え?」「あったかいのも冷たいのも、分かんない」どうしちゃったのかなあと呟いた彼の目は、どこを見ているのか分からない虚ろなものだった。少しずつ、けれど着実に彼の中で何かが失われている。全てはこの羽根の所為なのだろう。煌々と輝く白き翼が、どす黒いものに見えた。
rewrite:2021.11.23
夜光の逃げ道
触れた指の温かさを思い出した。電車の窓の冷たさに温度を奪われていく腕が、どこかで彼のぬくもりを求めている。労わるように触れ、撫でた彼の骨ばった白い指。ひらひらと舞い落ちていく雪が羽のように見えた。白い、天使の羽だ。もし僕が死んだら、果たして天国にいけるのだろうか、なんて信じてもいないくせに思って少しだけ気分を紛らわせる。日の沈みゆく街を照らす明かりが車窓に張り付いた雪で滲み、ぼんやりとした淡い光となっていく。どこか幻想的で美しい景色だった。吐き出した息が窓を僅かに曇らせ、外界を遮断する。目を閉じれば瞼の裏にまた彼が描かれる。一体何度目だろう。目を閉じるたび、彼の美しい横顔や柔らかな笑み、困った顔、怒ったような目が次々に思い出される。それが苦しくて薄く開いた目に、鋭い光が一瞬差し込んだ。遠くなる警報機の音。どこかの踏み切りをまたひとつ走り抜けたのだろう。今彼はどうしているだろう。僕のことを心配したりしてくれているだろうか。一瞬ポケットの中を探って、苦笑した。彼との思い出が山ほど詰まった携帯など持って来てしまったらきっと止めてしまうから、と置いてきたのは僕自身だろうに。必要最低限のお金しか入っていない薄っぺらな財布をポケットの中で握り締める。「ゆずはきっと僕に出逢うために生まれてきたんだよ」勝気な目で、自信たっぷりに微笑んだ彼が浮かぶ。どうしてここにいるのだろうと嘆く僕に、彼はそう言って温かな手を差し伸べてくれた。そうであればいいと思った。けれど今、僕は棄てようとしている。彼がくれた理由も、存在意義も、何もかも。怖かった。いずれ来る終わりにきっと僕は到底耐えられない。日に日に増す焦燥に似たものが、ゆっくり炙るように僕を甚振るのだ。安心ばかり与えてくれていた手にすら不安を覚えるようになって、柔らかな笑みにすら終わりがあるように思えてしまって、僕を見つめる赤い瞳が暗く翳るような恐怖を感じるようになってしまった。もう何もかも駄目になってしまった。駄目にしてしまった僕を、どうか許してほしい。
rewrite:2021.12.01 | BGM:サイレン# / ASIAN KUNG-FU GENERATION |「夜中の透明」の対
夜中の透明
部室の鍵を返してくるから待っていてと言ったはずなのに、玄関に戻るとゆずの姿は無くなっていた。トイレだろうかと思いながら下駄箱の前まで来たとき、下駄箱に立てかけるようにぽつりと鞄が置かれているのを見つけた。見慣れた色合いのその鞄は、ここにいない彼の物で間違いない。ふ、と嫌な予感が過る。掴んだ腕の骨ばった感触。憔悴しているような、不安定で壊れてしまいそうな目付きと、吹けば消えてしまいそうな空気。最近、彼がまた少しずつ以前の彼に戻ってしまっていることには薄々気が付いてはいた。けれど大丈夫だと思っていたのだ。昔、自分は何故生きているのかと嘆いていた彼の手を掴んだときのことが浮かび、また嫌な予感が湧く。大丈夫、と自分に言い聞かせるように呟いて彼の携帯へ電話をかけた。呼び出し音だけが永遠に続く、いつまでたっても繋がらないそれに不安が徐々に募って行って視線を足元へと下げたとき、再び鞄が視界に入った。まさか、いや、でも。でももしかしたら。ぐるぐると回り始める考えに指先が震える。そっと開けた鞄の中には彼の携帯電話が控えめな明滅を繰り返していた。遠くを見つめるようなあの眼差しが蘇る。鞄の中には彼の財布だけが見当たらず、さあっと血の気が引いていくのを感じた。脳裏を過ぎるのはつい数分前に彼が一瞬見せた、何か大切なものを諦めようとしているような、棄ててしまおうとしているような目、横顔。今すぐここから消えていなくなってしまいそうで思わず掴んだ腕の骨ばった感触。『征十郎くんが言うなら、そうなんだろうね。僕はあなたに出逢うために、ここにいる』嬉しそうにそっと微笑んだ瞳の淡い煌めきが今はひどく遠い。靴も履き替えないままに学校を飛び出す。一体何処だ、彼は何処にいる。彼が行きそうな場所を必死に考える傍らで、最悪の可能性が頭を擡げ始めた。足から力が抜けていきそうだ。ぐっと歯を食いしばり踏切で立ち止まった僕の目の前を電車が走り抜けていく。その一瞬、ドア口に佇む影が彼のように見えた。
rewrite:2021.12.01 | BGM:サイレン / ASIAN KUNG-FU GENERATION |「夜光の逃げ道」の対
獣の瞳で相対
どこか遠くから聞いたことのあるようなクラシック音楽が聞こえてくる。二人掛けのテーブルで、向かいには黒いネクタイに黒いワイシャツという喪服じみた全身真っ黒い格好の赤司が座っていて、その前には目玉焼きが乗せられた皿が一つ、置かれていた。俺の前にも一皿、置かれている。「さあ、食べようか」美しい顔でそう微笑んで赤司はフォークとナイフを手に取る。どことなく頭の中が霞がかっているような、夢現の狭間を漂うような、思考回路の動きが鈍くなっている俺は何も言わずにただぼんやりとそれを見つめていた。薄桃色に染まる半熟の黄身にナイフの先が沈む。すうっと刃先が動かされた先から、とろとろと赤味の強い黄色が溢れ出した。ただの目玉焼きのように思っていたけれど、その黄身がどこかきらきらと光る粒子を含んでいるように見える。赤司は柔く笑んだまま白身の端を切り取って、黄身を纏わせ口に含んだ。とろりとした黄身が垂れ落ち彼の唇を汚して、それが偏光色のような煌きを放っている。それがなんとも官能的でうっとりと見つめてしまった。「食べないのかい?」そう俺に言いながら真っ赤な舌で唇を汚す黄身を舐め取り、きゅうっとチェシャ猫のように目を細める。赤司らしくないその仕草に違和感を覚えた。「これ……なんの卵なんだ」また一口、卵を頬張る赤司に問う。再度べろり、と唇に纏わりつく黄身を舐めた赤司が「天使の卵だよ」とうっそりと笑った。いつの間にか赤司の前の皿は綺麗になっており脇に避けられている。代わりとばかりに白く発光する卵の乗せられたエッグスタンドが置かれていた。「食べてごらん、とても美味しいよ」笑う赤司は慣れた手つきで卵の上部を切り開け、スプーンで中身を掬った。「なかなか手に入らないんだよ。あまり捕り過ぎると争いになるから」その卵もまた半熟なのだろう、とろりとした赤っぽい煌く黄身が白身と混じってスプーンに乗せられていた。「まあ、争いになったところで天使如きに負けはしないけどね」薄く笑んだ赤司のその背に、蝙蝠のような大きな羽が一瞬、見えた気がした。
rewrite:2021.12.02 | 半熟卵食べる赤司くんはえっちだなって話。
心臓を飾るオーガンジー
朝の快晴具合はどこへやら、滝の如き土砂降り具合に溜め息が出る。天気予報でも晴れだと出ていたので傘なんて持ってきていないし、いつも持ち歩く折り畳み傘は今日に限って無い。つくづくついてない日だ。もしかしたら緑間が盲信しているおは朝占いで十二位だったのかも知れないな、と靴箱へ上履きを仕舞いどうしたものかと考える。どうせ待っていても止まないだろうから、このまま帰ってしまおうか。とん、と爪先を少々苛立ち混じりに叩きつけて歩き出そうとした俺の背中に、聞き慣れた声がかかった。「赤司?」はっと振り返れば、きょとんとした顔の聖司が立っていた。「聖司……自主練でもしてたのか?」「おう、早く一軍行きてーしなあ」「こんなに遅くまで?」「そういう赤司こそ」「俺はメニューを作っていたんだ」「ああ、どーりで黒子たちがいないのわけか」うんうん、と頷き靴を履き替えてから、あっとまた顔をあげる。「赤司、傘は?」首を傾げるその仕草に一瞬胸が高鳴る。それを抑えて「残念ながら」と首を振ると「なら一緒に帰ろうぜ」とにこやかな笑顔がかえってきた。なら、とは、どういうことだ。「俺の傘でかいし、赤司なら入るよ」紫原サイズになると厳しいけどと続けた彼に、一瞬思考が停止した。それはつまり俗にいう相合傘なんてものではないのか。ちん、と脳が出した結論にくらりと眩暈がした。ああもう、そういう期待させるようなこと、しないでほしいのに。もしかしたら、なんていう信用出来ない低すぎる勝率には掛けたくないのだ、どんな未来が待っているのか分かってしまっているから。「いいのかい?」彼がマネージャーである桃井に好意を寄せているのは知っている。「もちろん!」きっと俺の想いが叶うことなんて一生来ないということも知っている。「じゃあ入れてもらおうかな」それでもそうやって優しくされてしまうと、奥底で眠る絶望的な程小さな希望に縋ってしまいそうになる。もしかしたら、なんて、有り得ないというのに。
rewrite:2021.12.02
やわく潰れる胸のあいだ
一面の白い壁に格子の嵌め込まれた窓硝子と、ベットと棚と、クローゼット。それが彼の世界の全てだった。たったそれだけで彼の世界は構成されているのだ。枕に顔を半分埋め幾分か苦しげな呼吸を繰り返す彼の頬を撫でると、少しひんやりとしていた。リモコンで設定温度を少し上げ、眠る彼を見つめる。長い間ここで暮らしていたせいで少々病的な白さをした透ける肌に、一本の細い瘡蓋がまだ残っていた。すっかり爪を切ることを僕が忘れていて、伸びっぱなしのその爪で彼が引っ掻いてしまったところだ。治りかけで痒い、と彼が小さく言っていた瘡蓋の上をそうっとなぞり、今は短く切り揃えられた爪を指先で優しく擦る。そのままするすると指を動かして、あたたかい彼の手を握りしめた。やわらかくてあたたかい、真っ白な手。きゅっと力を込めると、夢の中にいるのに握り返してくれる彼が愛しくて、泣きそうになってしまった。「……あかしくんだ」寝起きで少し掠れた声にはっと顔をあげると、薄く目を開いた彼がふんわりと笑っていた。何も知らない、無垢過ぎるその笑みが僕の胸を突き刺す。「おはよう、水緒。ちゃんと眠れたかい?」それでも僕はそれに気付かない振りをして目をそらし、目の前の柔らかい髪を撫でる。気持ち良さそうに目を伏せながら、彼が小さく頷いた。「ふしぎな夢をみたよ」「へえ、どんな夢だい?」「あのね、あかしくん、魔法使いになってた」ふふ、と思い出したのか小さな笑みを零す。「それで、一緒に空を飛んだの。とてもきれいだった」目を閉じ、息を吐きながら囁かれた言葉にちりりと焦げる。「水緒、外に出たい?」彼は外に出たいのだろうか。でも外は、綺麗な彼にはあまりにも汚すぎる。「ううん」感情を消してしまったような無表情のあと、ぽつりと呟いた。「こわいから、いい」固く閉ざされた瞼の裏で、一体今彼は何を思い出しているのだろう。「そうだね」彼のことは何もわからない僕には、その頬を撫でることしか出来なかった。
rewrite:2021.12.02
醒めるまでどうか濁らないで
目の前にある白い紙コップをそっと耳に押し当てる。赤い色の糸は彼の色と同じだ。ああ、小指に繋がる運命の糸も赤いといわれているんだっけ、なんて思って少し笑ってしまた。それから、彼のことを考えながら耳を澄ませる。彼の言葉を取りこぼしてしまわないように、しっかりと全て拾い上げらえるように。『苦しい』しばらくして聞こえた小さな声は不安定に揺れていた。『悲しい』泣いてしまいそうに滲んで、『寂しい』消えてしまいそうに呟く。『皆が辛そうで苦しい』瘡蓋を引っ掻くような掠れた、痛々しい声。『何も出来なくて悲しい』誰よりも強かったけれど誰よりも弱くて、傷付きやすい彼の苦しさが糸を震わせる。『皆が離れていくのが寂しい』ぽつりと零されたその音に目を閉じ、コップを置いた。小さな信号はともすれば見落としてしまう。揺れる青褪めた心は鮮やかな赤で覆い隠されてしまった。けれど今、閉じ込められてしまった彼の声は確かに聞こえたのだ。確かに僕は拾った。「赤司くん」血は止まったのだろうか。それともまだ流れ続けているのだろうか。「知っていたんだ、こうなることは。それでも俺は彼らとバスケがしたかった。きっと凄いことが起きるだろうと思っていた。見たこともないものが見えると思ったんだ」「それは、見えた?」「ああ。とても綺麗だったよ、とても眩しかった」眩しすぎる光は、ときに凶器となる。「信じたくなかった。離れ始めてしまったあの二人を見て、もう終わりが近いんだと思いたくなかった。もしかしたらと思っていたんだ」もしかしたらどうにか収まって、このまま一緒にバスケを続けられるかもしれないと思ったんだ、と自分を嘲笑うその声は悲しいほど震えていた。「出来るよ」今、またあの弱かった光は輝きを取り戻し始めている。あの頃よりもずっと濃さを増した影は眩しすぎる光に触れようとしている。「絶対、また皆と出来る。だからそれまで、消えないでいて」どうか負けないでいて。貴方を眠りから覚ます手がやって来るまで、どうかそこにいて。
rewrite:2021.12.10
君が連ねたひかりたち
猫が死んでいた。バスケ部の朝練は早く、ひんやりとした朝靄が漂う街路はまだ眠っているように静かだ。いつものようにまだ目覚めていない家に小さな声で行ってきますと告げ、歩き始めた道の真ん中に見知らぬ鳥が二羽止まっていた。引っ切りなしに、更紙を裂くような声で叫ぶように鳴いている。その鳥のすぐ傍に何か黒い塊があった。ぎゃあぎゃあと明朝の静かで穏やかな世界をぶち壊すその声に少し眉を寄せながら、真っ直ぐ鳥たちへと近付く。黒い塊だと思っていたそれは、まだ小さな子猫であった。押し潰されたようにひしゃげてしまった小さな体に、たまらなく悲しくなる。俺が近づくと途端に黙り飛び去ってしまったあの鳥たちは、この哀れな子の存在を知らせてくれていたのだろうか。重い塊をぐっと飲み込んでなるべく大きなタオルを選び、そっと子猫を包んだ。この子はきっと、昨日の雨が降りしきり中でいってしまったのだろう。血の跡も何もかも雨で流されてしまったのか綺麗なものだった。冷たいタオルを胸に抱え、打って変わって憂鬱な色に染まった道を歩く。この子をどうしよう、どこに埋めてあげるのがいいのだろう。この辺の公園はどこも綺麗ではないし花もない。そのままどこがいいのか決まらずに校門が見えてきた。「今日も早いな、瀧川」朝靄のように透き通ってひんやりとした声と共に赤が視界に映った。「赤司」俺のざらざらと掠れた声に赤司は眉を寄せ、隣に並ぶ。「……何かあったのか」「猫がいたんだ。まだ子供だった」たったそれだけでも聡過ぎる赤司は俺の表情と手の中のものから答えを導き出してしまう。そうかと静かに頷いた赤司は、学校の裏庭に埋めてあげればいいと優しく笑った。「あそこは花がたくさん咲く。鳥もよく来ているから寂しくないんじゃないか」「うん」そうして訪れた裏庭は確かに多くの花が咲き乱れていた。「綺麗だな」「そうだね」先程見たあの鳥たちが、花々の中に出来た小さな丘を見て、美しい鳴き声を落として通り過ぎて行った。
rewrite:2021.12.12