Cemetery

好きがきらきら光るんです

その煌めく赤い宝石に見つめられてしまったあのとき、僕は一度死んでしまいました。彼のあの眼差しが僕の哀れな心臓を貫き、息の根を止めたのです。それと同時に美しきその瞳が僕を蘇らせたのです。彼に殺され彼によって再びこの世に生を受けた僕は、もう彼無しではきっと生きてはいけないのでしょう、何もかもを奪われてしまった僕には彼しかないのです、生きる為にはあの人を愛し続けるしかないのです。ああなんてひどい人、何もかもを奪っておきながら涼しい顔をして、僕の知らない人と親しげに、ああ、泣いてしまいそう。「……赤司くん」つい先日知った彼の名前をそうっと唇にのせる。赤司くん、赤司くん、征十郎、くん。ただ口にするだけでこんなにも胸が締め付けられ息が詰まるだなんて、ああ恋とは斯くも恐ろしいものなのですか。優しくて甘いだけが恋ではないのだと僕はあなたに心を盗まれてからはじめて知りました。息も出来ない辛さを知りました。身を焦がすような苦しさを知りました。煮えたぎるような、嫉妬を知りました。僕は汚い人間です、あなたに声を掛けられ見つめられる人はみな、死んでしまえばいいと思ってしまうような人間です。あなたの周りにあるもの全てが憎い。何もかもを壊してしまいたくなるのです、けれどそれをしたところであなたが僕を愛してくれる保障などどこにもない、ああ、なんて、なんて悲しい。泣いてしまいます、でもあなたが涙を拭ってくれることはないのでしょう、知っています、だってあなたにはとても大切な人が、愛しい人がいるのですから。あなたの愛を一心に受ける人。何度羨んだでしょう、あなたの隣という場所を手にしたその人を。いっそ殺してしまいたくなる。あなたが愛すことなどもう二度と出来ぬよう、切り刻んでしまいたい。僕は汚い人間です、こんなことを考えてしまうくらい、汚い。けれど全ては、あなたへの愛故なのです。あなたを愛するが故、なのです。ああいつか、あなたにこの想いが届いたらどんなにいいでしょう。報われることを願いながら今日も、そうっと息を潜めてあなたの傍を通り過ぎる。
rewrite:2021.09.09

色違いの裏と裏

何故こうも上手くいかないのだろうか。少し先でテツヤたちとじゃれ合う聖司の姿にじりじりと頭の奥が焼き付くにおいを感じる。明滅する視界の中、くっきりと浮かぶのは楽しそうに笑う聖司の顔。僕の前ではそんな顔、しないくせに。強く握った手のひらに爪が刺さる。煮え立つのは嫉妬か怒りか、その両方なのかもしれない。手のひらに突き刺さる爪の鋭さを心の隅で感じながら、ゆっくり笑い声に近付く。僕になんて気付きもせずに涼太と小突き合い、テツヤを撫でまわす彼にどこかが引き攣っていた。「……赤司君」水面のような目がすいっと動く。テツヤの言葉に聖司の肩がひくりと跳ねた。「やあ。ちょっと聖司借りていくね」上手く笑えただろうか。いや、笑えていないだろう。涼太の恐怖と心配に強張った表情とテツヤの僅かな怒りが浮かんだ、けれどどこか憐れむような眼差し。どれもが苛立たしくて鬱陶しい。二人の口から何かが飛び出す前にさっさと聖司の手を引き背を向ける。「あ、赤司、どこ、行くんだよ」微かに震えた声に混じるのは恐怖と戸惑いと、それから、何だろう。心臓を握り締める力が増す。痛い、苦しい。何だっていうんだ。「聖司、お前は誰のものだ?」理科準備室に半ば無理矢理引き摺りこんで、目の中を覗き込む。不安定に揺れ動き続ける瞳に滲むのは怯えだった。怯え。テツヤたちの前ではあんなにも楽しそうに笑い柔く細まっていた目は、僕の前ではただ怯えしか見せない。「答えろ。お前は誰のものだ?」歪んだ煌めくその目にはただただ平たい顔をした僕がぼんやりと映っている。「俺、は」泣いてしまいそうに喉を引き攣らせて、視線を下げながら「赤司のものだ」とそっと呟く。きゅっと結ばれた唇が悲しい。どうしてこうも上手くいかない。何故彼は僕だけのものにならないのだろう。何故彼は、僕の前では笑わないのだろう?煮え立つのは一体何だ。「なら、言いつけを守れ。言う事を聞かない犬は嫌いだ」愛だなんてもので美しく作り上げられた皮を剥いでしまえば、残るの一体何なのだろう。
rewrite:2021.09.11

最果ての地、幸福の国

肺の中に水が満ちていくような凍える感覚にうっとりと目を細めた。どんどん遠くなる。薄い皮膚越しに伝わる冷たい水の温度はまだ少し攻撃的だけれど、直に馴染むだろう。そうしてその頃には僕は原形もない程どろどろに溶けていなくなっているはずだ。「すきだよ」裏側でそっと囁くような声が聞こえた。まるで自分に言い聞かせるようなその音は、彼が僕のことなんて愛していない証拠だ。あの人はなんだって誰よりも器用に上手く熟せるくせに、嘘を吐くことだけは誰よりも下手だった。あの人の嘘はいつだって完璧で、それ故中身が透けて見えてしまうのだろう。それでもそれを受け止め呑み込んできて、脆い嘘に騙されたふりをしていたのは僕が何よりも彼のことを愛していたからだ。僕の一方通行だったとしても、偽物でも、それでも良かった。それでも良いと思えるほど、僕は惹かれてしまっていた。そうっと心臓の裏側を微かな悲しみが撫でていく。ああ、彼は最後まで僕を愛してくれることはなかった。きっと彼は誰も愛せない人間なのだろう。誰一人、自分すらも愛せない可哀想な人。だからあんなにも綺麗な目をしていたのだろうか。何ものにも穢されず、濁ることもなく、透き通るような瞳。ここの外に広がる血の海よりも濃い、息を呑むほど美しい赤い双眸。あの目に見詰められると堪らなく苦しくて痛かった。決して僕のものにはならないと嫌でもわかってしまうから。それは悲しい。ああ、どうしてあの人は愛してもいないくせに僕の傍にいたのだろう。硝子細工の愛を吐き出してまで、どうして隣にいたのだ。ちりちりとした痛みが頭の奥を這う。彼のか細い息遣いが聞こえる気がする。可哀想な人、まだ貴方は痛みの最中にいる。僕と同化し始めた水が揺らめいた。彼は最期まで僕を愛してくれなかった。最期まで偽りの心を差し出した。気泡の愛はいずれ弾けてしまう。「さようなら、征十郎くん」目を閉じて、沈み込む。貴方への想いと共に僕は息絶えるのだ。
rewrite:2021.10.10

癒えるような傷じゃだめ

聖司が満月の夜になるとふらりと何処かに行ってしまうことに気が付いたのは、一緒に暮らし始めて随分経ってからだった。何かと理由をつけて何処かに行っては、翌朝まで帰ってこない。聖司に限って遊び歩いているわけではないだろうが、やはり気になるものは気になる。そうしてある満月の夜、また何処かへ出かけようとする聖司を捉まえて問えば心底困ったような顔をして言ったのだ。『信じられないだろうけど、俺、実は人じゃないんだ』何を言うのかと思えば、エイプリルフールもハロウィンもまだまだ先だ。何の冗談だろうか、と聖司を見ても冗談を言っているような顔ではない。続けて聖司は、自分は人狼との混血なのだと眉を下げた。『だから月がよく出るような日とか、満月はちょっと危なくて』人を喰らわぬよう知り合いの家の地下に閉じ込めてもらっていた、と俯きながら語られたその言葉も冗談のような内容だったけれど笑うことは出来なかった。あまりにも彼が泣いてしまいそうな顔をしていたから。ごめん、と呟く彼に何を言っていいのか分からず、その時はただ件の知り合いの元へ向かう背を見送った。それからなんやかんやごたごたあったけれど、今も僕は彼と共に暮らしている。色々思うところはあるけれど、そんなことどうでもよく思えるほどには僕は彼がすきだったから。ただひとつ、あれから変わったことといえば彼の籠る場所が知り合いの家ではなく、僕たちの家になったことくらいだ。今後も共に暮らすことを、月の出る晩も自宅で過ごすことを望んだ僕に彼が提示した条件は、彼の部屋に外側から錠をおろせる鍵をつけ月の美しい晩は必ず鍵を掛けることだった。「じゃあ征、おやすみ」ちゅうっとやけに可愛らしいリップ音を鳴らして僕の額にキスをした聖司が、自分の部屋へと姿を消していく。今夜は満月だ。夜になる前に鍵を掛けようと彼の部屋の前に立ったとき、ずっと奥底にあった思いが浮かんだ。もし朝になり目覚めたとき、自分が食したものが僕だったと分かったら、一体彼はどんな顔をするのだろう。
rewrite:2021.10.17

頬に落ちる影のきれはし

何を勝手に考えて勘違いしたのか知らないけれど、そうやって勝手に決め付けて勝手に離れていくのはあんまりだと思うのだ。僕の意思は、気持ちはどうなる?いつもそうだ、何をぐだぐだ悩んでいるんだか知らないけれど、僕は聖司がすきで、聖司も僕はすきっていうそれだけでもう十分だろうに。たったそれだけで二人並んで生きていくには十分すぎる程の理由となるんじゃあないのか。「でも、俺じゃあお前に相応しくない」またそれかと溜め息が出る。相応しい相応しくないで何もかも駄目にしてしまうなんて、そんなの馬鹿がすることだ。「相応しいかどうかで、僕から離れてしまう程度の気持ちなのか」「ちがっ、それは違う!」「なら、なんでお前は僕から離れようとしているんだ」ぐっと唇を噛んだ彼の顔が今にも泣いてしまいそうな、迷子の子供のように不安げに歪んだ。ふらふらと揺れ動く瞳の奥に燃えるものは何ひとつ変わっていない。僕がすきだとひどく苦しそうにいったあの時と同じ目だ。「誰に何を言われたのか知らないけれど、勝手に決め付けて離れていくのは身勝手過ぎるんじゃないのか」すっかり黙り込んでしまった彼を少し睨むように見れば、とても後悔しています、と大きく書かれた顔をする。その眉を下げた情けない顔はどこか犬を思わせた。「少しは僕の気持ちも考えろ馬鹿」ふうっと息を吐けば、ごめん、とつっかえながらもう既に半分泣いているような彼が言った。「ほら、おいで」困ったやつだな、と腕を広げると、涙腺が決壊したようで子供のように泣いて謝りながらも飛び込んでくる。ぎゅうっと思い切り抱きしめてくる腕に笑みが零れた。顔が埋められた肩口が湿っていく感覚は少々気持ち悪いが、まあ良しとしよう。背中を宥めるように撫で、次からは僕のことも考えてくれと耳朶にぴたりと唇をくっつけながら言うと、くすぐったそうにしながらもしっかりと頷いた。かわいいやつだ。しばらくそのまま抱き合い、彼が落ち着いたのを見、覗き込む。「それで、一体誰に何を言われたんだ?」
rewrite:2021.10.17

青褪めてざらざらの眼差し

もう随分と時間が経っている。三杯目のコーヒーに口をつけ時計を見上げると、約束の時間はもうかれこれ三時間近く過ぎていた。来ないつもりなのだろうか。そんなの許されると思っているのだろうか。がちゃん、とカップがソーサーに当たり硬い音を立てた。テーブルに置かれた端末を手に取り少しだけ考えてみる。今、恐らく彼は家にいるだろう。家で行こうか行くまいか悩みうろうろして、それから落ち着こうとコーヒーを飲み、またうろうろ悩んでいるのだ。発信履歴の一番上を選び、自分の想像を少し笑いながら耳を寄せる。しばらくの呼び出し音の後、少し息苦しそうな声が聞こえた。「コーヒーはもう飲み終わったかい?僕はかれこれ三杯飲んでしまっているよ、お前を待つ間にね」『ご、ごめん、あの、すぐ行くから……』「いや、いい。僕がそっちに行くよ。ゆっくり残りのコーヒーを飲んでいるといい」半分は残っているだろうからね、と笑えば、息を飲むような音がして掠れた了承と謝罪が聞こえた。それにまた笑って電話を切る。まだ残っているコーヒーを置き去りに、さっさと会計を済ませ店を出た。何か買って行ってあげようかと一瞬考えたがすぐに向かうべきだと思い直し、そのまま電車に乗り込む。今頃真っ青な顔で震えているのだろう。飲みかけのコーヒーを飲む気にもなれず、うろうろ部屋を歩き回り逃げる術を考えているのだ。馬鹿な聖司。僕から逃げられるわけがないのに。彼の家は駅のすぐ側だ。彼の部屋の大きな窓は駅側に面しているから、きっとそこから、僕が来るのを見ているのだろう。見え始めた彼の住むマンション、その部屋辺りに視線をあげれば大きな窓に人が立っていた。やっぱりな、と少しおかしくて笑いながら窓辺の彼へ片手をあげてからさっさと中に入る。窓辺で固まる彼を思い浮かべながら、真っ直ぐ部屋へ向かい鍵のかかっていないドアを押し開ければ、案の定彼は窓辺に立ち尽くしたままだ。「おはよう、聖司。ああ、もうこんにちはかな?」ちらりと見たテーブルには、やはり中身がまだ半分ほど残っているコーヒーカップが置いてあった。
rewrite:2021.10.17

あたらしい日々のような終わり

征十郎くんは僕が勝手なことをすると怒ります。僕がお料理を失敗しても、お掃除でドジを踏んでも笑って優しく頭を撫でてくれるのに、僕が勝手に行動するととても怖い顔するのです。それが僕は怖くていつも泣いてしまいそうになります。そうすると征十郎くんはいつも、お前は僕の言うとおりにしてればいいんだよと優しい声で言って抱き締めてくれます。あやすように髪を撫でながら、僕が安心して、ゆっくりと息を吸うことが出来るまでずっと抱き締めていてくれるのです。征十郎くんは、僕と違って何でも自分で出来てしまう人でした。頭も良くて、言うことは全て正しいのです。だから彼は僕が間違ったことをしないように、といつも色々なことを言ってくれます。だというのに僕は時々、勝手なことをしてしまうのです。それに対して彼が怒るのは多分、それが間違っていることだからなのでしょう。いまいちどこをどう間違えているのか分からないけれど、征十郎くんが怒るということはそういうことなんだろうと思います。彼の言葉に反しているから、きっと間違っているんです。「水緒」征十郎くんは僕の名前を呼ぶとき、とても優しい顔をします。それがなんだかくすぐったくて、いつも僕は嬉しいような恥ずかしいような、けれどひやりとするような少しだけ居心地の悪いものを感じます。「なあに?」「今から仕事が入ったから僕はいなくなるけど、ちゃんと家にいるんだよ」言い付けは守るように、とまるで小さい子に言い聞かせるような声で彼は言います。それに頷くと、いい子だと言って頭を撫でてくれました。征十郎くんの優しい手は、僕をいつも幸せな気分にさせてくれるのです。「お前は僕の言うとおりにしてれば、それでいいんだ」彼はよくこの言葉を僕へ投げかけます。言い聞かせるように、刷り込むように。けれど本当は僕は知っているのです。僕は馬鹿ですが、知っていたのです。それが間違っているということも、彼の目が汚く澱んでいることも。何も間違えない彼の、唯一の間違いです。
rewrite:2021.10.17

染めたての微睡

教室の騒がしさに疲れてしまって、静かな場所を求めやってきた図書室は思っていたよりもずっと居心地の良い場所だった。薄いカーテンで柔らかくなった日差しがほんのりと室内を暖めていて、眠気を誘う。読みかけていた本を閉じ、開けられた窓から時折入る風にひらひら揺れるカーテンの裾をぼんやりと眺める。なんだか知らないところにいるようだ。喧騒とは無縁なここは淡い色ばかりが散っていて、ふわふわと足元が安定せず意識も舞ってしまいそうになる。眠たい。ぼうっとしている内にだんだんと瞼が重たくなってきて、夢と現実の境目が曖昧になっていく。まだ休み時間は残っているし少しだけ眠ろうと欠伸をひとつ、ひんやりと気持ちのいい机に頬を寄せた。目を閉じてしまえば、あとはもうゆっくりと意識がとけて沈んでいった。「こんなところで寝てたら風邪引くよ」仄かに甘いにおいがする。女子にしては少し低い優しげな声がして、ふわりと何かを掛けられた。誰だろうと思って目を開けようとしても、くっついてしまった瞼はそう簡単に持ち上がらない。吐息がこぼれるような小さな笑い声がして後、優しく丁寧な手付きで頭を撫でられた。あたたかいその温度が気持ちよくて、また意識が沈んでいく。「赤司君」肩を叩かれる感触と潜められた声にハッと瞼を開けた。どれぐらい眠っていたのだろう。途中夢を見た気がする。「黒子……」見知った水色の髪に体を起こすと、ぱさりと肩から何かが滑り落ちた。淡い色のブランケット。あれは夢じゃなかったのだろうか。このブランケットは、あのときの誰かが掛けてくれた物なのだろうか。「ここに来たとき誰かいたか?」あのあたたかい手は一体誰だったのだろう。「いいえ、赤司君しかいませんでしたよ」「そうか」記憶に残ったあの柔らかな香りと淡い声がくるりと回る。「心当たりはないんですか?」「ああ、困ったことに」そう言うわりには楽しそうですね、と言う黒子に笑いながら、仄かに甘く香るブランケットに触れた。
rewrite:2021.10.18

黙して夢を見る

母さんが連れてきたのは真っ赤なひとだった。燃える瞳は宝石のように煌めいていて、とても綺麗だと思ったのをよく覚えている。そのひとのことを母さんは人形だと言っていた。僕にはひとのように見えていたからその違いが少し不思議で、でもその不思議を聞いて怒鳴られたりしてしまうのが嫌だったから口を閉ざす。その人形は征十郎というのだそうだ。「征くん」征十郎が長くて言い辛そうにしていた僕を見かねてか、彼はすきに呼んでいいと笑ってくれた。「なんだい」征くんは、僕にとてもやさしくしてくれる。彼の周りの空気はあたたかくて息がしやすい。ここの空気はひどく冷たいのだ、僕に息をさせまいと必死に拒む。僕はみんなに嫌われていた。今だって、ぎいぎいと固い椅子が文句を言っている。ひんやりとした指先が髪を撫でていくのに目を伏せながら、もう一度彼を呼んだ。「どうしてみんな帰ってこないの?」いつからか、何の物音もしなくなったこの家はやけに広い。冷たい空気を吸いほわりと吐き出した彼が薄く笑いながら「水緒は知らなくていいことだよ」と言う。彼がそう言うならそうなのだろう。彼の言うことはいつだって正しいのだ。ひとは間違うものだと聞いたことがあるけれど、彼が間違えたことは一度もないから本当に人形なのかもしれないなあ、とあたたかい彼の体に寄りかかり目を閉じた。母さんも父さんもいないこの家はとても静かで、なんだか別の世界にいるみたいだ。けれど彼らの大きな声はまだ消えず、ふとした時に落ちて響く。それが僕には怖くて仕方がなかった。「水緒」もう夕飯にしようと僕の手を引き彼は立ち上がった。そのまま僕をテーブルにつかせ、いそいそと準備を始める。また今日もお肉だ。最近お肉ばかり食べている気がする。少しだけ固くて、懐かしいような怖いようなにおいがするその肉は、あまり好きではなかった。美味しいのだけれど、食べている内に不思議と彼らを思い出してしまう。「いただきます」それでも彼が作ってくれたものは食べなければならない気がした。「どうぞ召し上がれ」ああ、これ、母さんのにおいがする気がする。
rewrite:2021.11.11 | BGM:ツギハギ惨毒 / マチゲリータP

神様の什器

「もう大丈夫だよ、水緒。怖いものはもういないからね」薄暗い蛍光灯の下で赤い瞳が煌めいていた。座り込んだ僕はただそれをぼんやりと眺める。差し出された手は白くて綺麗で体温を感じさせず、僕はその手もただぼんやりと見つめた。怖くないよ、とその人はもう一度繰り返す。口元に浮かべられた微笑みはとても優しい。こんなに優しい表情を向けられたのは、きっと生まれて初めてだ。みんな僕を素通りしていってしまう。僕はここにいないものだからそれは当たり前なんだろう、よく分からないけれど。でも時々、とても冷たい無機質な目を向けられてしまうことがある。そういう時、少しだけ息が苦しくなる。「水緒」「安心していいよ」「怖いものは全部なくなったから」「もう君を苛める人はいないよ」「僕が綺麗にしたから」その人は優しい笑みのまま、優しい声音で次々に言葉を紡いでいく。でも僕の意識はその人の向こうに見える倒れた誰かに向いてしまっていて、彼が何を言っているのか上手く理解出来なかった。あれは何だろう、おかしいなあ、さっきまではわかってたと思うんだけど。「水緒?」「具合でも悪いのかい?」「何処か痛い?」「それとも、」何も反応出来ない僕を覗き込むように、その人も座り込んだ。兎のように真っ赤な目がじいっと見つめてくる。けれど僕の意識は相変わらずあちこちに霧散していて、丸見えになった彼の背後が気になってしまう。あれは何だろう、何の温度も感じさせない。物と同じだ。でも僕はそれが何なのか知っているような気もする。わからない。「水緒」白い手が頬をそっと撫でた。冷たく見えたその手は案外あたたかくて、その温度にふと何かが顔を覗かせる。ああ、あれはもしかしたら、僕の、「ほら水緒、はやく行こう」「こんなところに居ちゃ駄目だ」ね、とにっこりその人は笑って僕の手を握る。そこで初めて僕は彼の顔をきちんと見た。「僕の家に行こう、きっと水緒も気に入るよ」びっくりするほど綺麗な、お人形さんのような顔が優しい笑みを浮かべている。はて、この人は、一体?
rewrite:2021.11.14