大切な子と一緒に暮らし始めた、とこっそり教えてくれたときのあいつは、至極幸せそうな、とろとろにとろけたチーズみたいにでろでろとだらしない顔で笑っていた。
なんとなく、最近の嶺二は変な顔色をしているような気がしていた。化粧で隠しているのだろうが目の下が薄らと黒ずんでいるし、顔の肉が落ちてきたような気もする。それは筋トレで引き締まって、とか、食事制限や何やらで痩せて、という感じではない、肉を削がれたような窶れじみたものを感じものだった。
何か変だ、何か、のっぴきならない何かがこいつに起こっている。そんな気がして何やらわいわいと盛り上がっている撮影陣から少し離れたところで、ひとり静かに水を飲んでいる嶺二へと近寄った。
今までならああいう賑やかな場の中心にいたというのに、ここ最近の気持ち悪い顔色をしたあいつはその場に混じることも無く、ひっそりと気配を殺して息を殺してでもいるかのように隅の方で水を飲んだりぼんやりとしている。
いつだってわーきゃーうるせえ奴が異様に静かだっていうのは、心底不気味だった。
「おい、お前最近変だぞ」
カミュや藍も最近様子がおかしい嶺二のことを気にしていた。だがどうにも二人ともタイミングが合わず、またどこか拒絶する空気をこいつが出しているから聞くに聞けず、歯に物が挟まった微妙な顔でちらちら嶺二を見ていたのを知っている。
どことなくよそよそしいというか、ぎこちないような空気が俺たちの間に漂い出して、いい加減なんとかしなければと思っていた矢先、俺と嶺二のバラエティ出演が決まった。渡りに船、じゃあないけれどこれを逃せばきっと次はなかなか来ない。
どっかりと嶺二の前の席に腰を下ろしながら、下手に逃げられるのも面倒で直球で問い掛けた。
「……え?」
「変な顔色してるしよ、お前ちゃんと寝てんのか」
「寝てるよ、大丈夫」
ぼうっと俺のことを見ていた嶺二がへらりと笑う。大丈夫なんて到底言えないような顔をしているくせに、へらへら笑うのが気にくわない。顔を顰めた俺に嶺二は「ランラン、お顔が怖いよ~」とまたへなへな笑った。
いつもみたいな調子で軽薄にへらへら笑うけれど、けれど何かあったのかと聞いても決して答えない、答える気のない様子に嫌な感じだけが募っていく。撮影も再開するということでその日はそれ以上問い詰めることも出来ず、結局何も聞くことはできなかった。
* * *
寿嶺二の調子は、日に日に悪くなっていっているようにしか見えない。久しぶりに飯でも、と嶺二を誘い入った居酒屋の個室で、黒崎蘭丸は向かいに座る彼を顰めた顔で見つめていた。
目の下の隈はもう化粧なんかではどうしようもなくなっているほど酷い上、誰が見ても分かるほど窶れ、覇気がない。加えて落ち着きも無く、始終あちこちに視線を飛ばしては些細な物音にびくりと肩を揺らせるのだ。見えない何かに怯えているその仕草は、周囲の人間の誰もが嶺二の精神面を心配するほど異常で、異様だった。
今も何もない部屋の隅にちらちらと視線を投げては、何かを恐れるようにそわそわと体を揺らしている。
「なあ」
どこか異様な空気に満ちていた静寂を破り、蘭丸は嶺二を覗き込んだ。焦点のずれた光の無いその目はさながら死人のようだった。今まで馬鹿みたいにきらきら目を輝かせてとぼけたことを言ったり元気に周りを振り回していた人間のあまりの変わりように、鳩尾辺りがずっしりと重くなる。
嶺二は一瞬ぼうっと蘭丸を見つめ返してから、ハッと夢から醒めたように目を瞬かせ笑って「なあに?」と首を傾ける。いつものように笑っているつもりなのだろが、その笑みは引き攣り歪んだものだった。
「お前、自分が今最悪な状態だって分かってるか」
「……最悪って、そこまでひどくないよ。ちょっと最近眠れないだけで」
「飯も禄に食ってねえだろ」
「食べてるよぉ、この前も音やんとトッキーの三人でご飯行ったし」
「この前って……お前、それいつの話だ?」
嶺二が後輩の一十木音也と一ノ瀬トキヤを連れて食事に行ったと言っていたのは、蘭丸の知る限りではもう二ヶ月以上も前の話のはずだ。その後食事に行ったという話は音也もトキヤもしていないし、嶺二からも誰からも聞いていない。それぞれがやっているSNSにもそれらしきことは載っていないし、そもそも、嶺二のアカウントはかれこれ半年以上前から更新が停滞している。
嶺二は蘭丸の言葉にきょとんと目を丸めた。え?と首を傾け、少し考える様な素振りをみせた後、ただでさえ白い顔から血の気を引かせる。
「わかんない」
誤魔化すような笑みは、泣きそうに引き攣っていた。
もう限界なのだ。彼が何を抱え、何を隠しているのかなど見当もつかない。けれどそれが信じられないほどの重さとなってその身を圧し潰そうとしているのだろう。どうして助けを求めないのだろう、周りに手を差し伸べる人間はたくさんいるのに。
蘭丸は顔を歪めながら、「どうしちまったんだよ、なあ」と問いかける。
「どうもしないよ」
へらへら歪な顔で笑い、「大丈夫だよ」とまた嶺二は言った。
大丈夫大丈夫って、何が大丈夫だっていうのだ。ひと月前、バラエティの収録があった日もそう言って結局何も話してはくれなかった。何も大丈夫なところは無いだろうに、まるで自分に言い聞かせて信じ込ませるように大丈夫だというのだ。
まだ自分は大丈夫、だから平気、大丈夫―――。
馬鹿じゃないのか、と蘭丸は怒鳴り散らしたくなった。なんだってこの男は何も分かってくれないのだろう。周りの人間がどれだけ自分を心配しているのか、今のこいつには分からないのだろうか。
「心配してくれてありがとね、でもほんとに大丈夫だよ」
「大丈夫だって自分に言い聞かせてるだけだろ!お前のそのツラ見てどこが大丈夫だって言うんだ!?そんなに、そんなに俺たちは頼りねぇのか?信頼出来ないって?」
話しているうちに胸の辺りが重苦しくなって、声が震えてしまいそうになる。それなりに長い付き合いなのに、何も相談されないというのがこんなに辛いものだとは思わなかった。
嶺二はそんな蘭丸を少し驚いたように見つめ眉を下げる。
そんなつもりは全くなかった。信頼してないとか、頼りないだとか思ったことはただの一度もない。ただ、これは『自分たちの問題』なのだ。その『自分たち』に蘭丸を含むメンバーの彼らや後輩の彼らなど自分の周りにいる人々は入っていない。入っているのは嶺二と、彼の愛する恋人である大和だけ。
この問題に関われるのはその二人だけなのだ。“二人だけ”の問題なのだ。
「そんなんじゃないよ、全然、そんなこと思ってない」
「じゃあなんで!」
「ごめんね」
それは紛れもない拒絶だった。それ以上は入って来るなという明確な線引き、それを突き付けられて、それでも踏み込めるほど蘭丸は馬鹿でも無神経でもなかった。
「……そうかよ」
「うん」
「話は、いつでも聞く。俺だけじゃなくて、カミュも藍もそうだ」
「うん。ありがとう、ランラン」
ごめんね、と嶺二はもう一度言った。
謝るくらいなら、そう言いそうになって、蘭丸は口を閉ざす。言葉を押し込めるように目の前の食べ物を口に押し込んで、飲み込んだ。
白昼をさまよう瞬きの群
rewrite:2022.02.23