人ひとりの人生全てが、こんなにも重いものだなんて思っていなかった。軽いものだなんてことは思ってなかったけれど、こんな、息も出来ないほど圧し潰されてしまいそうなほどだなんて、思ってもみなかったのだ。
大丈夫だって、きっと上手くいくってどうして思えたのだろう。自分なら彼を救える、彼を幸せに出来るって、何の根拠もないそれを何故あそこまで信じ、彼の支えになって生きていくんだって思えたのか、今になっては何も分からない。
何の音もしない部屋の中で、ぼんやりと寿嶺二は自分の手のひらを見つめた。まだ感触が残っている。何ものにも代え難いほど大切で、心底愛おしいと思っていた彼の全てを奪った感触が、まだ、この手のひらにこびりついている。
窓から差し込む柔らかな日差しがじんわりと背中をあたため、それが無性に悲しく感じた。彼を抱き締め、抱き返してくれた時もこんな風にじんわりとあたたかくて、この世で一番の幸せ者な気持ちだった。彼の体温を感じる度に胸がいっぱいになって、世界中に自分の幸せを伝えまわりたいなんて馬鹿みたいなことを思っていた。
視界が一気に滲み、ぼたぼたと涙が落ちてくる。どうしてこんなにも上手くいかなかったのだろう。
ただ、彼とふたり、幸せに笑い合っていたかっただけなのに、どうして。
* * *
俄かに信じがたいその話に、三人は揃って顔を見合わせ、何かのドッキリにしては至極性質が悪いと思っていた。否、思い込もうとしていた、というべきだろうか。徐々に顔から血の気が引いていく彼らを見ていられず、日向龍也は目を伏せた。
信じられない、何かの冗談か、と日向に問いかけるカミュと美風藍の横で、黒崎蘭丸だけ何かに気付いたように唇を震わせている。
一週間前、現場でとうとう倒れた寿嶺二は療養という名目で半ば無理矢理長期の休みを取らされた。しっかり身体を休めるように、というカミュと藍に嶺二は薄く笑んで「温泉にでも行ってこようかな」と答えた。この世の何よりも大切だと三人に零していた恋人と、随分前から約束していた温泉旅行に行ってゆっくりのびのびしてくる、と。
その言葉に、蘭丸は僅かな胸騒ぎ覚え嶺二の顔を見つめた。どろりと濁り澱んだ、死人のような目と、歪な笑みを象るかさついた唇。生きることに疲弊してしまったように見えるその姿は、かつての嶺二とはまるで別人だ。
少し前、二人で食事しながら話をした日よりもなお悪い今の嶺二の様子にどうにも嫌な予感が拭えなくて、蘭丸はしつこいほどに連絡するように、と言った。
「あはは、なんかランラン、お母さんみたい。心配性だなあ」
「そうさせてんのはお前だろうが」
「うん、あはは、心配してくれてありがとう。じゃあ、ごめんね、あとよろしくね」
そういって少しばかり申し訳なさそうに笑って、嶺二は帰っていった。それが最後だった。
真っ青な顔をした藍が「嘘だよね」と掠れた小さな声で言った。
信じられなかった。日向が言った、『寿嶺二が恋人を殺め自殺した』という話がどこか遠い場所にいる知らない誰かの悲しい事件のように思えたのだ。それはカミュや蘭丸も同じだった。
疲れ切り、心が擦り減っていたのには気付いていたけれど、こんなことになってしまうほど追い詰められていたとは思わなかった。そうなる前に、話してくれると思っていたのだ。声を上げて、手を伸ばして、助けを求めてくれる。それだけのものが自分たちの間にはあると、そう信じていたのだ。
「……アイツに何があったのか、知ってるなら教えてほしい」
笑えるほどに震えた声だった。
渦巻く『何故』を知りたい気持ちと、知らないでいたい気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合っている。蘭丸は日向の黒いネクタイをぼんやりと見つめたまま、「知っていることを全部教えてほしい」ともう一度言った。
嶺二が決して教えてくれなかった、彼を取り巻いていた何か。それを少しでも知ることが出来れば、その頃の嶺二の苦しみがほんの僅かにでも分かるかもしれない。それが分かったとして今更どうにかなるわけではないけれど、それでも何も知らないまま何もかも薄れていってしまうよりきっといいはずだ。
蘭丸はそう思って、日向を見つめた。
けれど日向は嶺二が恋人の首を絞めて殺し、自らも首を吊っているところを朝食の用意をしに来た女将が発見したということしか知らない、と力なく首を振った。
文机の上に置かれた紙には『ごめんなさい』とただ一言書かれていただけで、それ以外遺書と思われるものは何も残されておらず、彼に何が起こったのか、何に追い詰められていたのか知る術はほとんど何も無かった。
嶺二の鞄の中から彼名義の睡眠薬と、彼の恋人である工藤大和名義の睡眠薬と安定剤が入っていたことや、通院歴などから、色々推測されてはいる。だが本当のところ、というものは何も分かっていない。
それに答えてくれる本人もいなければ、その本人が、何の話も周りにしてこなかったから。
どれだけ考えたところで決して答えの出ることがない何故が延々と脳を巡る。何故あんなに大切だといっていた人を手にかけたのか、何がそこまで彼を追い詰めたのか、何故、自分たちに何も話してくれなかったのか。
この先、きっと一生解けることの無いその問いに、三人はただただ青褪めた顔で立ち尽くすしかない。
* * *
「ね、ね、マトちゃん、この旅館とかよくない?離れだから静かだし、お部屋まで美味しい料理届けてくれるし、露天風呂もお部屋にあるんだって!」
膝の上に広げていた旅行雑誌を隣でのんびり紅茶を飲んでいた大和へ見せながら、嶺二は楽しくてたまらないという顔でにこにこ笑う。
先月の大和の誕生日に何が欲しいか聞いたとき、大和は何度か躊躇った後に「何時になっても良いから、二人で旅行したい」と言った。自分からはあまりあれがしたいこれがしたいと言わない大和の、珍しいその要望に嶺二は一も二もなく頷き、あちこちから旅行誌を集めてきたのだ。
まだいつ長期の休みが取れるか分からないというのに、雑誌を広げてああでもないこうでもない、という嶺二が大和は愛おしくて仕方がない。自分のために一生懸命になってくれる嶺二が愛おしくて、胸が苦しくなって泣いてしまいそうになるくらい。
「でもそんなに広い部屋じゃなくてもいいんじゃないか?俺、狭い場所でお前とくっついてんの好きだよ」
「マトちゃん……っ!」
そうだね、そうだね、と何度も頷きながら雑誌を放り投げて嶺二は大和をぎゅうっと抱き締める。あたたかな体温を感じながら、お仕事頑張ってお休みもらって、絶対絶対二人で旅行に行こう!と嶺二は心に決めた。
これから楽しい思い出をいっぱいいっぱいふたりでつくっていくのだ。色んな場所に行って、美味しいものをたくさん食べて、写真もいっぱい撮って、あの時はああだったこうだったってその写真を見返しながらたくさん話をするのだ。
マトちゃんだいすき!と言いながらぎゅうぎゅう抱き着けば、くふくふ楽しそうに大和は笑い、つられるように嶺二も笑い声をあげた。
どうか赦しをくれ
rewrite:2022.02.23 | 「残夢」完結