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※寿嶺二が好きな子と幸せになりたかっただけの話


視界の端がちらちらと不規則に揺れている。自分のすぐ後ろで誰かが笑っているような息遣いが聞こえ、でもそこに誰もいないことをどこかにいる“冷静な”ぼくは知っていた。
少しずつ自分というものが擦り減って小さく薄くなっていって、そうして最後は跡形もなく溶けて消えて無くなってしまう。そんな感覚が、もうずっと自分の中にあって消えない。
啜り泣く大和の引き攣れた呼吸を宥める様に、震えるその背中をそっと優しく撫でる。ぎゅうっと縋るようにぼくのパジャマの胸元を握りしめる手はひどく冷たく、抱き寄せると薄いパジャマの布越しに凍るような温度が伝わってくる。同じように冷たくなってしまった足先が可哀想で、温度を分け与えるように自分の足で挟み込んだ。
「れいじ……」と小さな、不規則な呼吸の合間に吐息のような声で呼ばれ、返事をするように「大丈夫だよ」と囁いた。大丈夫、と強く抱き締めて背中を撫で続ける。
二人で眠るために買ったふかふかな、少し大きめのベッド。二人で並んでも余分にスペースはあるのにぴったりくっついて眠るのがなんだかくすぐったくて幸せで、小さな明かりだけ灯して眠りに落ちてしまうまでじゃれあっていた、そんな日々が息を潜めだしたのは何時からだったろう。二人で並んで寝ても、悪夢ばかり見るようになってしまって、泣き叫ぶ声に飛び起きて、啜り泣く声に目覚めるようになって、どれくらい経ったのだろう。
大丈夫、大丈夫だよ。何度も何度も繰り返した言葉が誰に対しての大丈夫なのか、もうぼくには分からない。

「大丈夫だよ、マトちゃん。ぼくがいるからね」
「うん……」
「大丈夫、ほら、もう誰もいないよ。ね?」

うん、と小さく頷いた大和がぼくの背中へ腕を回して遠慮がちに抱き締め返してくれながら、甘えるように胸に額をくっつけてくる。柔らかな髪を梳いて撫でてから、少しでも体を休めようとぼくも目を閉じた。
少しずつぼくが擦り減っていくのと同じように、少しずつ彼の状態も悪くなっていく。緩やかな坂をゆっくり下っていくように。その坂の最後、ぼくたちの行きつくところは一体どこなんだろう。


夜更け前、遠くで泣き叫ぶ声に目を開けた。
大事に抱えていたはずの彼はいつの間にかぼくの腕の中から消え、シーツもすっかり冷たくなっている。いつ抜け出してしまったのか全然分からず、随分と深く眠ってしまっていたことに気付いた。いつから独りにしてしまったのだろう、どれくらい長い間泣いているのだ。まだ疲労が残り重怠い身体を引き摺って声のする薄暗い居間へと向かった。
手探りで照明のスイッチを探し、灯す。眩しさに目を焼かれながら大和を探せば、ベランダのカーテンの前で小さく身体を縮めて震えていた。やめて、やめて、とどこか幼い声で泣いてひどく怯えている。

「……大和
「や、やだぁっ、来ないで!やめてよぉ」
大和、ぼくだよ、嶺二だよ。大和、よく見て」
「あ、うぅ、れ、れいじ……?」
「もう大丈夫だよ」
「れい、れいじっ」
「うん、ぼくが来たからね。大丈夫、助けに来たよ」

すっかり冷え切ってしまった身体を抱き締めて、ゆらゆら揺すりながら背中を叩く。強張っていた身体から次第に力が抜け、くたんとぼくの方へと寄り掛かってくる。すん、すん、と小さく鼻を啜りながら大和は何度もぼくの名前を呼び、そうしてとろとろと目を閉じた。
ここのところはずっとこんなことの繰り返しだ。薬もカウンセリングも何の意味もなしていない気がして怒りすら湧いてくる。それでも結局ぼくは彼に安定剤を飲ませ、カウンセリングを受けさせて、睡眠薬を飲ませるのだ。それ以外、どうしていいのか分からないから。
時々、これで良かったのだろうか、ぼくは彼と居て良いのだろうかと思う。けれどぼくには彼を手放すなんてことは到底出来ない。ぼくが離れたら、大和はひとりぼっちになってしまうし、ぼくは彼と約束したのだ。ずっと一緒にいるって約束した。ずっと一緒に、ふたりでしあわせに暮らそうねって。


* * *


音やんが育った孤児院では毎年バザーが開催されていて、よっぽど外せない用事がない限り音やんは必ずそのバザーの手伝いに行っている。今年も手伝いに行くという音やんに、ぼくも手が空いているし一度可愛がっている後輩の育った場所に行ってみたくてくっついて行った先で、ぼくは大和と出会った。

音やんと同じく手伝いとして参加していた彼の、少し青褪めた横顔と憂いに満ちた瞳がどうしようもなくぼくの心をざわつかせた。
この子は救いを求めている。何もかもが己に牙を剥き、ただ生きていくことすらも苦しく難しい、日々神に縋るように祈り安寧を求めることしか出来なかった、かつての自分と、あの頃の自分と彼が重なって見えた。ぼくにはぼくを支えてくれる仲間がいたけれど、彼の傍には誰かがいるようには見えない。彼は、ひとりぼっちだ。今にも折れてしまいそうな、掻き消えてしまいそうな命を、細々と昏い眼差しで紡いでいる、そう思えて仕方がなかった。
同じ孤児院で過ごしていた音やんに彼のことを問えば、仄かに悲しみとやりきれなさの滲む瞳で彼の苦しみをこっそりと教えてくれた。音やんが言うには、彼は一時世間を騒然とさせた一家惨殺事件の生き残りだというのだ。まだ幼かった彼の目の前で両親が殺された。それがどれだけの傷となって彼の中にいるのか、ぼくなどには到底計り知れない。
それは翳となって彼に纏わりつき、やんわりと人を遠ざけたのだろう。孤児院に居た頃も仲の良い人はいなかったと音やんは言った。みんなそれぞれ彼に声を掛けたり一緒に遊んだりしていたけれど、誰かと特別に親しかったこともなく、どこか一線が引かれていたしそれを踏み越えることは出来なかった、と。誰もが彼の幸せを祈りながらも彼のもつ翳に触れることを恐れ、どうすることも出来なかったのだろう。

どうか彼を紹介してほしいとお願いしたぼくを、音やんは少し驚いた目で見た。それから少しだけ険しい顔つきでどういうつもりなのかと問うた。
彼はもう一人のぼくだ。かつてのぼくなのだ。そう思って、そう感じてしまえばもうぼくは彼を抱き締めたくて仕方がなくなってしまった。大丈夫だよって、ひとりじゃないよって、ぎゅうっと抱き締めて、彼の安心できる場所になりたい。
そう思ってしまうくらい、信じられないくらい強烈に、心が彼に惹かれたのだ。
彼にはきっと、傍にいてぎゅうってしてくれる人が必要なのだ。心細い時に手を握ってくれる、手を引いてくれる、そういう人が。その役目は、ぼくでありたい。
音やんはぼくの話にそこまで言うのならと言って彼を紹介してくれた。しばらくは心配そうな不安げな顔をしていたけれど、何度目かのぼくと彼の食事に付き添った後、どうか彼のことをお願いしますと言ってくれたのだ。

ずっと音やんを介していたやり取りが直接僕と彼だけのやり取りになってから、少しずつ彼は心の柔らかい場所をぼくにみせてくれるようになった。夜、ふと恐ろしくなったときにぽつんとメッセージを送ってきたり、自分だけじゃどうしようもなく苦しくなってしまったときに電話をくれたり。
その頃にはぼくはもう、彼がかわいくて愛おしくて堪らなくなってしまっていた。同性であるということは最早何の障害にもならないくらい、僕はひとりの人として、工藤大和という人間を心底愛してしまっていたのだ。
そのことに気が付いてしまえば、もう抑えることなんて出来ない。ぼくは全身全霊でもって彼への愛を表現した。そもそもゆっくりと穏やかに彼の心が変わるのを待つ、なんていうオトナなこと、ぼくには出来っこないのである。ぼくは恋に恋する子供みたいに、日々のささやかな言葉、表情、僅かな触れ合い、その全てにありったけの想いをのせて彼からの愛を希った。
そうして、彼がぼくの腕の中に落ちてきたとき、ぼくは泣いてしまいそうなほどに嬉しくて、神様に感謝して、彼のことをこの先一生をかけて愛し大切にすると誓ったのだ。
彼の心の傷をたとえ完全に解ってあげることが出来なくても、その痛みを少しでも分かち合いたいって、嬉しいことを半分こするように、悲しいことも苦しいことも二人で半分にするんだって誓った。もう彼がひとりで泣かないように、ぼくが彼を守っていくんだって。

それがそもそもの間違いだったのだろうか。

小さな灯りで痛む夜

rewrite:2022.02.23