02

学校の寮へ移り住んでまもなく、初めての発情期が訪れた。
服用した緩和剤と相性が良かったために、少しの熱っぽさと何もしたくなくなるような怠さのみという随分と軽い症状だけで俺の初めての発情期は過ぎて行った。
冬休みが明け新しく同級生となった人たちは、全員揃いも揃って自我の無い人形のようで到底仲良く出来そうには無かった。それはあちらも同じようで、オメガらしいとはとても言えない俺を遠巻きにしている。
当然友人は出来ず、将来の不安や変わっていく体に不安を抱いてもそれを相談できる相手はいない。
募っていく不安や寂しさを抱いたまま三学期を終え、春休みの最中に二度目の発情期が訪れた。

「おい」

緩和剤を飲んで憂鬱な気持ちのまま眠りについてすぐ、誰かが肩を揺さぶってくる。

ヤマト、起きろ」

聞いているとぞくぞくするような、腹の奥がじくじくするような甘くて低い声がすぐ耳元で聞こえてくる。ずっとずっと、もう一度聞きたいと、会いたいと願っていた人の声だ。
重たい瞼を動かすと、きらきら輝くガラスの天井と花々、そして美しい翡翠の目が見えた。

「レオナ……」

ああ、俺はまたあの“夢”を見ることが出来たのだ。
もう一度レオナに会えた、そう思うと同時に甘くてほろ苦い匂いが濃く香ってきて全身の力が抜けていく。
くたっとしたまま起き上がらない俺をレオナは眉を寄せた顔のまま抱き起してくれた。凭れた胸元からふわふわと、脳がとろとろになってしまうような香りが漂ってくる。
レオナが何も言わないのをいいことにうっとりとその香りに沈んでいるとこちらへ向かって走ってくる足音が聞こえてきた。

「レオナさーん、飯買って来たっスよー」
「っち、おいラギーこっちに来るな」
「え?うわっ、なんすかこの匂い……!」
「いいから早く出ていけ」

守るようにぎゅうっと俺を抱き込んだレオナの喉が、グルグルと威嚇でもするように低く鳴っている。
抱え込まれているせいで見えないけれどラギーと呼ばれた人が走り去っていくような音が聞こえ、それから少ししてからレオナのグルグル音はおさまった。
身体から少し力を抜いたレオナは俺を離して地面に座り込むと、すぐにまた俺を抱え込んだ。レオナの胡坐の上にすっぽりと収まるように横向きに座らされ、俺の顔はちょうどレオナの首元に埋まるような位置となった。

「見ねぇうちにデカくなったな」
「うん、もう十六だし」
「……最後に会った時はいくつだ」
「十三」
「三年……?」

何かを考えるように黙り込んだレオナだったけど、すぐに「じゃあこの匂いはなんだ」と俺の首にはまった革と金属の首輪を引っ掻いた。
寮に入ったその日に養護教諭とカウンセラーの人が部屋に訪れ、鍵穴らしきものが付いた見るからに頑丈そうな首輪を渡してきた。望まぬ番関係を結ばない為だと言って目の前で首輪をはめるようにいい、付けさせられた物だ。首輪の鍵は卒業するまで学校預かりとなるらしく、当然俺の首輪の鍵も二人が持って行ってしまった。
首と首輪の間にわずかに隙間があるから擦れたり被れたりということはないが、見るからに“オメガ”といっているその武骨でオシャレさの欠片もない首輪は俺にとって忌むべきものである。

「俺、今発情期だから……緩和剤飲んでるからあんまりしないはずなんだけど」
「お前、人間なんじゃないのか」
「人間だけど……レオナのとこは無いのか、発情期」
「獣人の中にはそういう奴もいるが、人間では俺の知る限り無い」
「……じゃあベータしかいないのかもな」
「おい寝るなよ」
「寝てない……」

寝てないけど、なんだかふわふわしていて夢見心地なのだ。レオナの匂いがそうさせているのか、あまり身体に力は入らないが怠さは無く、微睡んでいるような心地で気持ちが良い。

「お前の言うそれは人間内での種族みたいなもんか?」
「性別。俺のとこでは性別が六種類あるんだ。レオナのとこは?」
「基本二種類しかねえ」

見上げたレオナの顔には知りたいですってデカデカと書かれているからつい笑ってしまう。
今は頭が働いていないからあまり要領を得ないかもしれないが、と断ってから俺の世界での性別を簡潔にだが教えていった。男女の他に三種類の性別があること、その性別の特徴、社会における地位、俺が、今後どうなっていくのか。

「レオナからは、甘くて苦い匂いがするんだ……チョコとコーヒーみたいな」

見た目通りだと笑う俺にレオナはにやりと笑って言った。

「お前に匂いがわかるってことは俺はアルファだってことか?」
「ん~、俺の世界ではそうだと思う。レオナは?」
「花蜜の匂いがするぜ。甘ったるくて、喉が渇いて仕方なくなる」

ぐるる、と喉を鳴らして笑うレオナの眼は怖いくらいにじいっと俺を見ている。

「お前は今発情期で、俺はお前がいう“アルファ”らしい」
「うん……?」
「何でお前をちゃんと捕まえとかなかったのか、この三ヶ月で俺は死ぬほど後悔したぜ。この俺がだ。信じられるか?」
「レオナ?」
「もう逃がさないからな」

獰猛な目で笑うレオナが呟くように何かを言った途端、首に触れていた革の感触が消え、さらさらとした砂になって滑り落ちていく。

「緩和剤効いてるうちは番になれないとかあんのか」
「その人たちによるけど、なあ、今何したの」
「お前の大好きな魔法だ」
「首輪がない」
「必要ねぇだろ?」

久しぶりに剥き出しになった項がなんだか妙にすうすうとして落ち着かない。

「……レオナ、俺のこと好きだったんだ」
「知らなかったのか?」
「好かれてるとは思ってたけど言われてないし」
「言わないと分かんねぇのか」

項に鼻先を寄せて匂いを嗅いだ後、レオナの革のグローブをはめた指がすりすりとそこを撫でてきた。噛む場所を確かめるみたいになぞって、ここだぞと教え込むみたいに突いて押さえてくる。

「レオナ、俺、言われてない」

く、と眉が上がって、がぶっと顎を噛まれる。それからじいっと俺を見つめてから。

「好きだ、ヤマト

砂糖のたっぷりと詰まったケーキみたいにただただ甘い声がじわっとまた俺の脳を溶かしてくるから、俺はもっとふにゃふにゃのぐにゃぐにゃになってしまう。
ぺとっとレオナにくっついてしまった俺にレオナは愉快そうに喉で笑ってから、急に俺を抱えて立ち上がるとずんずんと歩き出した。

「どこ……」
「部屋。ちゃんと掴まってろ」

花々が早送りに流れていく。一度も出たことのない温室の外へレオナは俺を連れて行こうとしているようだった。
まだ目覚める気配はない。この夢か現実なのか分からない世界に、俺はいつまでいられるのだろう。
起きたくない、と零れた言葉をレオナは鼻で笑って「逃がさねえって言っただろ」と言い、聞き取れない言葉で何かを言う。
胸ポケットからのぞく何かにつけられたオレンジがかった宝石のようなものがチカチカと輝き、光る粒子のようなものが俺とレオナの周りを飛んだ。くるくると俺とレオナの周りを飛んだ粒子は光る球体となってじわりと俺の胸元に消えて行った。

「レオナ」
「害はない」

硝子の扉が目の前にある。扉の向こうには道が続いていて、そのずっと先に城のような大きな建物が見えた。
また宝石がちかちかと光って扉がひとりでに開いていき、風が吹き込んでくる。

「絶対に手離すなよ」

これから何かが起きるのか、真剣な顔で言うレオナに頷いてその首に緩く回していた腕にしっかりと力を込めた。
そして一歩、温室の外へ足を踏み出した途端、気持ちよく吹いていた風が荒々しいものへと変貌した。俺たちの周りで渦を巻いて、それからそのまま温室の中へ押し込むようにびゅうびゅうと吹き荒む。
目を開けていられず強く閉じて頭をレオナの首筋に押し付けた時、ぐいっとレオナに巻き付けていた腕を強く引かれた。
驚き見れば、太い植物の蔓のようなものが巻き付いている。意思があるようにうねりながらするすると蔓は巻きつき、痛みを感じないぎりぎりの強さで締め付けられた。

「れ、れおな……」
「クソ、やっぱり使うんじゃなかった」
「れおな、なんかこれ、頭ぼーっとする」

蔓が巻き付いた場所の感覚が徐々に希薄になっていく。それと同時に頭が薄い靄がかかるような眠気に意識が遠のきそうになった。眠くて仕方がなくて、力も入らない。
レオナがまた舌打ちをして、それからまた聞き取れない言葉を言う。閉じそうになる瞼の隙間からでもあのきらきらした光が見えた。目の前で光の粒子が散ると同時に腕に巻き付いていた蔓が怯んだように蠢いて、腕から引いていく。
腕から完全に離れた一瞬、周囲の風が止んだ。

「口閉じとけよ」

言うや否や周りの景色がすごい速さで流れていく。
獣人は身体能力が高いと言っていたけれど、それなりに体格の良い重たい男を抱えているというのになんとも速い。なんだか一般的な華奢なオメガになった気分だ。
ちらりと振り返り見た温室から、様々な太さの蔓がうねりながら俺たちへと伸びてくるのが見えた。温室は天井だけではなく壁面も硝子張りなのだが、その硝子の向こうも蔓や蔦のようなものに覆われ見えなくなってしまっている。
一体何が起きているのか分からないが、何かに捕まりそうになっていたというのだけは分かった。
時折道を曲がりながらも走り続け、レオナは円形の建物の中に飛び込んだ。大きく豪奢な装飾のなされた鏡のようなものがいくつもある。その中の一つにレオナは駆け寄り、そのままスピードも緩めず突っ込んでいった。
ぶつかる、と思って身を固くしていたのにそんな衝撃はどこにもなく、かわりとばかりに少し砂っぽい熱風がぶわりと顔を撫でてくる。

「ここまでくりゃあ平気か」

ようやく走るのを止めたレオナがちらりと背後を振り返ってから息を吐いた。
薄っすらと浮かんだ汗からむわっと音がしそうなほど甘くて苦い匂いがして、またじわじわと思考が滲んでいく。緩和剤を飲んでいてこれなのだから、飲んでいなかったら一体どうなっていたのだろう。

「くすぐってぇ」
「ん~……」

レオナが何か言っているのは分かるけれど理解が出来ない。それどころじゃないのだ、こちらは。目の前のミルクチョコレート色の肌から、信じられないくらい良い匂いがしていて、俺はそれを嗅ぐのでいっぱいいっぱいなのである。
ずっと嗅いでいたいけど、これ以上嗅ぐのはやばいって頭の片隅でも思ってて、でもやめられない。これ、絶対中毒になるようなやつだ。俺には分かる。

未知の光体

2022.09.28