その日は夜更けから雨が降り頻っていた。
半端にカーテンの開けられた薄暗い室内は静かで、雨が窓を打つ音がいやに響いている。アバッキオはベッドに腰かけサイドテーブルに置かれた鍵を見つめながら、ジョシュアの勤務日を思い出していた。
この前聞いたものが変わっていなければ、今日もジョシュアは出勤しているはずである。
どこかぼんやりとした瞳のまま身支度を整えサイドテーブルの鍵をポケットに捻じ込むと、アバッキオはすっかり行き着けとなっている少し遠くの喫茶店へと向かった。顔馴染みとなっている店員へ挨拶をしながら店内を一度見まわし、それから窓側の席に腰かける。雨の為か向かいの本屋の扉は閉じられているが、明かりがついているからいつも通り営業しているのだろう。
運ばれてきたものを口にしながら、考えるのはジョシュアのことばかりだ。
あの扉の向こうで、ジョシュアはきっとレジカウンターの前で読書に耽っているのだろう。ドアが開いて客が入れば顔を上げて、穏やかな笑みを見せて挨拶をするのだ。それからまた本へと視線を落として、文字を追いかける。その横顔はきっと時が止まったように静謐で、美しいのだ。
最後の一口を飲み込み、アバッキオは席を立った。どこか熱を持ったようにぼんやりとした顔で、まさしく夢遊病患者といった足取りで、アバッキオはふらふらと店をあとにし何処かへと向かっていく。
そうして辿り着いたのは、これまで何度も見たことのあるアパートだ。ついこの前、初めて足を踏み入れた部屋。その扉の前に立ったアバッキオはしばしの間小さな鍵穴見つめ、一度だけベルを鳴らした。そっと息を潜めて耳を澄まし、何の音も聞こえてこないことを確認すると、ポケットから飛び出していた真新しい革のキーホルダーを引っ張り出す。硝子細工に触れるようにそっと、そのキーホルダーの先に付けられた鍵を鍵穴へと差し込んだ。
かちゃん、と錠の外れる軽やかな音は雨音に紛れて消えた。
ふ、見上げた時計の針は、もう正午を回っていた。いつの間にそんなに時間が経っていたのだろう。
抱えていたクッションと羽織っていたブランケットを脇の置き、柔らかなカウチから立ち上がったアバッキオはキッチンで一杯水を飲み、息を吐く。少し腹は空いているが、胸がいっぱいできっと今は何も喉を通らないだろう。使ったグラスを洗い、立て掛けて、アバッキオはもう一度息を吐いた。
ふらふらとキッチンからまたリビングへと戻り、アバッキオは足を止める。視線の先にあるのは、一つの扉だ。
あの日、腕に抱えたあたたかな体。くったりと安心しきったように身を預けて、すやすやと寝息を立てていた彼の顔。思い出す度に、あれは夢だったのではないかと思う。けれど、それは間違いなく現実に起こったことなのだ。現実であるというその証拠に、アバッキオの手にはあの日の夜に手に入れたこの部屋の、ジョシュアの住まうこの部屋の鍵があるのだから!
ふらふら導かれるようにアバッキオは目の前の戸を開けた。あの日、ジョシュアを腕に抱えて入った、彼の寝室。彼のにおいが一番濃い場所。きちんと整えられたベッドといくつも置かれたふかふかのクッションがあの夜と変らずそこにある。
「ジョシュア」
どろどろにとけて澱んだ甘い声でそうっとこの部屋の主の名前を呼びながら、アバッキオはベッドシーツを撫ぜる。異様なほど熱を持った肌にシーツの冷たさが心地よい。するすると指を滑らせ、静かに乗り上げる。ぎし、と軋む音が淫らに聞こえて、アバッキオはくっと息を詰めた。
ごくんと生唾を飲み込んで、クッションたちの間へその身を沈め込む。洗剤か柔軟剤の優しいにおいを混じらせたジョシュアのにおいが一気にアバッキオを飲み込んだ。
ここで、いつもジョシュアが眠っているのだ。一人で寝るには少し広めだけれど、二人で寝るには少し狭いだろう。けれどその分ぴったりとくっついていられるから、きっとちょうどいい。あのあたたかさを腕に閉じ込めて眠ることが出来たら、どれだけ幸せだろう。死んでしまってもいいかもしれない。
ここにはいない彼の代わりにぎゅうっとクッションを抱き締めながら、小さく恍惚の滲む笑みを浮かべアバッキオは目を閉じる。
* * *
坂道を転がるよりも早く、どんどんとアバッキオの恋心は変化していた。ただ好きで、思うだけで胸がいっぱいに詰まってしまうようだったそれは、どんどんと欲深くなっていく。一目会いたい、一言声を聞きたい、話をしたい、隣に立ちたい。触れて、抱きしめて、キスして、何もかも混じってひとつの生き物になってしまいたい……。
ジョシュアの全てが知りたくて、その全てを自分のものとしてしまいたい、そんな思いをアバッキオは抱くようになっていった。
いつも触れているからかすっかり手に馴染んだ革のキーホルダーを指先で弄りながら、アバッキオはじっとパソコンを見つめている。二十四インチのモニターにはいくつかの画面が開かれているが、一番大きく映されているのはひとつの部屋の様子だった。天井近くにカメラが置かれているのか、映像は俯瞰するようにして部屋全体が映されている。
アバッキオは耳に差し込んだイヤホンから流れ聞こえてくる小さな歓声に緩く口角をあげた。画面の中に映された部屋の中では男がひとり、カウチに腰掛けて華奢なワイングラスを傾けては美味しい、と嬉しそうに独り言ちている。
「そうだろ、俺もそれを飲んだ時、美味くて驚いたんだ。きっとジョシュアも好きだと思って買ったんだぜ」
画面の中の男、ジョシュアへ向かって語り掛けるように言いながら、アバッキオは笑った。まるでそれに答えるように、ジョシュアはグラスをゆらゆらと揺らしながら「レオーネにお礼しなきゃな」と呟く。その声はどこか眠そうな、とろりととろけたものだった。
小さなワイングラスにたったの一杯。それを今飲んだばかりだというのに、もう酔いが回ったかの如き様子にアバッキオはほう、と息を吐いた。
今ジョシュアが口にしていたワインは、昨日、アバッキオがプレゼントしたものだ。「この前飲んで美味しかったから、お裾分けに……前に美味い酒を家でも飲みたいと言ってただろ」、そういって少しだけ笑ったアバッキオに、ジョシュアは嬉しそうな声をあげてとびきりの笑顔をみせた。きらきらと輝く瞳で受け取ったワインを見つめるジョシュアに、アバッキオがうっそりと笑んでいたなど彼はきっと気付いていない。そのワインに何が入っていたのか、何が入れられていたのか、飲んだ今もきっと気付いてなどいないだろう。
空になったグラスをテーブルに置いたジョシュアが、ずるずるとカウチに横たわった。イヤホンからは、何の音も聞こえてこない。
「俺も礼をしなきゃな」
頭の中で、路地裏にいた売人の男の顔を使えるもののリストへ付け加えながらアバッキオはイヤホンを外し、モニターを消すと席を立った。
* * *
足を踏み入れるのは、これで五度目だ。
一度目はただ訪れただけで胸がいっぱいで、満たされていた。二度目に訪れた時もただただここでジョシュアが日々を過ごしている、と思うだけで満ち足りていた。しかしその帰り、ジョシュアの部屋の前でうろつく見るからに不審で気持ちの悪い男と鉢合わせした時、アバッキオの中でまたひとつ、何かが壊れた。
この世界には危険が溢れている。まして彼は、その“危険”を惹きつける空気を纏っているのだ。今までは運よく無事であったけれどこのままひとりで放っておいたりなんてしたら、きっとあっという間に骨の髄までしゃぶりつくされ、跡形もなくなってしまうだろう。そんなこと、許せるはずがない。何人たりとも彼に触れさせたりなどしたくない。
そのために俺が、守らなくてはならない。俺だけが彼を守れるのだ、俺だけが。
そうしてアバッキオは今まで無為に貯め込んでいた金を、“ジョシュアを守るために”惜しみなく使っていった。
静まり返った室内に錠を落とす音が響く。三度目と四度目に訪れた時にあちこちに仕込んだ盗聴器とカメラの位置や具合を確かめ、カウチで眠る人影へ近付いた。
つい先程まで画面越しにその姿を見つめていた相手、ジョシュアはアルコールにほんのりと頬を染め健やかな寝息を立てている。ジョシュア、とアバッキオが声を掛けてもカウチから抱き上げても身動ぎひとつしない。しっかりと深くまで眠り込んでいる。
アバッキオは慣れた様子で寝室の戸を開けてベッドへとその身を横たえると、クッションをいくつか下へと落とし自分もジョシュアの隣へと潜り込んだ。それからそうっと少し熱い身体を抱き締める。首筋から薄く香るボディソープのにおいが信じられないくらいアバッキオを高揚させた。
ここに来るのは五度目だけれど、こうしてジョシュアを抱き締めてひとつのベッドに横たわるのは初めてのことだ。愛おしい体温が己の腕の中にある、その事実がアバッキオの僅かに残る理性をどんどんと削りとっていく。
……少しだけ。
誰にともなく言い訳するように胸の内で思いながらアバッキオは身を起こしてジョシュアへ覆い被さって、柔く綻んでいる桃色の唇にゆっくりと唇を重ねる。しっとりとしていてふにゅりとした、夢見心地の感触。ただ触れ合わせている子供の戯れのようなキスだけれど、たったそれだけで背筋が痺れるほどに気持ちが良い。
何度か感触を確かめるように触れては離れ、を繰り返し、我慢できずに薄く開かれた唇の隙間へアバッキオは舌をねじ込んだ。熱い口内をねっとりと舐めて、くたん、と力の抜けている彼の舌を絡めとる。微かに残ったワインの香りが鼻から抜けていった。思うままに口内を蹂躙し、溢れ出る唾液をとろとろと流し込み、飲ませ、ようやく惜しむ様にゆっくりと舌を引き抜いていく。
自分と彼の唾液で濡れた唇をべろりと舐め、アバッキオは獣の顔で笑った。同じように二人の唾液でぬらぬらと光る唇にもう一度柔らかなキスを落として、その耳に囁く。
「ジョシュア、もう少しだけ待っていてくれ」
二人で暮らす家を買うための金を今、貯めているんだ。それが貯まるまで、もう少しだけ待っていてくれ。
祝福は春の底より
2019.7.14