目の前で血が広がっていく。それを認識した時、アバッキオは自分の行いのせいで人の命がひとつ失われていくことへの罪の意識と、しかしその全ては自らの“愛に基づく正しい行い”によって齎されたものであり此度の犠牲は致し方のないことであったという意識に二分され、身動きがとれなくなった。
足元でどんどんと血溜まりが広がっていく。その真ん中に横たわる良き相談相手でもあった同僚の息が微かなものになり、その向こうで“収入源”のひとつでもあったチンピラが痛みに呻きながら逃げようと藻掻くのを、ただ立ち尽くして見ていた。銃声を聞いた住人が呼んだのであろうパトカーのサイレンが聞こえてきても、アバッキオはそこから動くことが出来ずにいた。これからどうすればいいのか、分からなくなってしまったのだ。
アバッキオ自身に、今まで間違ったことをしたという認識はない。愛する人を守るため、という大義名分のもと、アバッキオはいつだって自分の正しいと思う道を選んできたのだ。
この世の何よりも愛するジョシュアを守るために、彼のよく通る道に蔓延る薄汚い者どもは出来うる限り消した。彼に何があっても駆け付けられるように合鍵を作った。夜中に男が押し入ってきたことがあると聞いて、彼の部屋の状態がすぐに分かるようにカメラと盗聴器をつけた。その出来事以来眠りが浅くなってしまったという彼へ、良く眠れるように“特製”ワインをプレゼントした。人肌があればより安眠できると聞いてワインを飲んで眠り込んだ彼に添い寝した。
そうしたジョシュアへの行いの全てを、アバッキオは“愛に基づく正しい行い”だと胸を張って言える。そこに幾許かの下心が無かったとは言わないが、彼に付きまとうその辺の人間どもとは違い、自分は崇高な気持ちを以てして彼を愛し守っている自信があった。
ジョシュア自身に知られないようにしてきたのは、彼が知ったらとても気に病むだろうと思ったからだ。何でもかんでも自分の中に抱え込んでしまうジョシュアは、人に頼るのがとても苦手である。人の手助けを笑顔で断ってしまうようなところもあって、強引に手を出せば負担になってしまったと思って黙って距離を置く。そういう人だから、だからアバッキオは彼へ何も告げずに全てを行っていた。
そうしてやっと、ジョシュアを守る、ということの終着点が見えたのだ。その終着点はなんてことない、彼と共に暮らせばいい、ただそれだけである。
薄汚れた人間の蔓延る穢れたこんな世界で生きるには、彼はあまりに脆く美し過ぎる。いつ何時奈落へ引き摺り落とされ骨の髄まで貪られるか分かったものではない。はっと瞬いたその一瞬で、その身が目の前から掻き消えるかもしれない。助けを求め伸ばされた手を掴めず、その身が堕ちていくのを見るしかないなんてそんな状況、絶対に陥ってはいけないのだ。
ならばどうするのか?答えは簡単だ。ジョシュアの全てを、手の内にしてしまえばいいのだ!
アバッキオがまだ幼い頃、大切なものは大事に仕舞っておきなさいと母親に言われたことがある。その言葉のとおり、アバッキオは大切なものを大事に大事に仕舞ってしまおうと思ったのだ。自分にしか分からない場所に大切に仕舞っておけば、もう誰も触れることはない。何よりも安全な場所で、彼はこれから先ずっと暮らしていく。
そうと決まればもう早い。あとはもう“宝箱”を買って整えるための金を揃えるだけだ。
揃えるだけだったのだ。
だけれど今、それが出来なくなるかもしれない状況にアバッキオは立たされていた。通報で駆け付けた警察官が取り押さえたチンピラからアバッキオの収賄が発覚したのだ。
アバッキオは汚職警官として、警察社会から追放される。一番の収入源を失ってしまう上、“警官”という権力も失う。それはつまり、今までのあらゆる収入源が立ち消える可能性が高いということだ。そうなってしまえば、終着点があっという間に遠のいてしまう。
遠のけば遠のくほど、“宝物”が、誰かに奪われてしまうかもしれない。
どうすればいいのか、アバッキオはもう二度と向かうことの無い職場から持ち帰った少ない荷物を手に自宅で立ち尽くし、ああ、と気付いた。
もう、形振り構ってなどいられないのだろう。アバッキオはひとつ、息を吐いてキリリと唇を結んだ。
この世にたったひとつしかない“宝物”を守るためならば、たとえ己が取り返しのつかぬほど汚れてしまうとしても、たとえ腐敗臭漂う底なし沼にずぶずぶと沈んでいくことになったとしても、いい。彼を守る代償に、身を削られてしまうのだとしても、いいのだ。
沈む自分に巻き込まれてジョシュアが穢されてしまわないように、彼とは今後一切の交流を断った方がいいのだろう。もう共に夕飯を食べることも、帰路を歩むことも無くなってしまう。けれど、仕方がないことだ。今は全てを耐えなければならない。これを耐えた先に、アバッキオの夢の実現が待っているのだから。
アバッキオの宝石めいた瞳がしっかりと強い輝きを持つ。その輝きが澱んだ悍ましいものだと気付く者はそこに誰もいない。
* * *
己が身に宿されたその力は、神からの贈り物なのかもしれない。超能力が具現化したような“ソレ”、ムーディー・ブルースと名付けた自分の“スタンド”を見つめながら、アバッキオは目を細めた。
ジョシュアを守るために自ら奈落へ飛び込む様に裏社会へと身を沈めたアバッキオは、イタリアに数多くあるギャング組織のひとつ『パッショーネ』に拾われ、そこでスタンドと呼ばれる能力を開花させたのだ。過去の事象を再現できるというアバッキオの能力は、仕事だけではなく彼の宝物を守るためにもよく使われている。
今日も、仕事を終えたアバッキオはその日一日の自分が見ていられなかった時間のジョシュアをムーディー・ブルースに再生させ、その身に何も降りかからなかったことを確かめた。
「……ただいま」
革のキーホルダーの付けられた鍵でドアを開けて、近い将来当たり前になるその言葉を小さな声で言い、少し照れたように唇を綻ばせたアバッキオは部屋の中へ進んでいった。
手にしていた荷物をキッチンへ置いて、仕掛けていたカメラや盗聴器を回収していく。それを終えてやっと、リビングの柔らかなカウチにくったりと横たわった人影へ近付いていった。クッションへ顔を埋めるようにして眠る人影、ジョシュアの前へ跪くと、ほんのりと薔薇色に染まった頬へ恭しく口付けを落としてからその身を抱き上げ、勝手知ったるように寝室へと向かう。
アバッキオがワインをプレゼントしたあの日から、ジョシュアは自宅でよく酒を口にするようになっていた。アバッキオの“特製”ワインを飲みぐっすりと眠ってしまったことを、酒を飲んでしまえばぐっすり眠れると勘違いしたのだろうか。それから度々、翌日が休みの日は必ず酒を飲むようになったのである。
今日も飲んだのであろう、小さなワインのボトルがテーブルに置かれていた。それはかつてアバッキオがプレゼントした”特製”ワインと同じものである。味が気に入ったのか、ぐっすり眠れたことからか、それとも両方の理由からかジョシュアはあのワインを飲み切ってからも度々このワインを購入していた。
だからジョシュアがこのワインを買う度、アバッキオは『善意』で彼の自宅へ赴きワインへ手を加えて”特製”にしてあげている。よく眠れますように、とおまじないを掛けながら。
ベッドの上へ横たえられたジョシュアは身動ぎひとつせず規則正しい寝息を立てている。当然だ、今日もアバッキオが”特製”にしたワインを口にしていたのだからその効果が切れるまで余程のことがない限り目覚めることはない。
ベッドへ乗り上げジョシュアへ覆い被されば、随分と伸びた髪がさらさらと流れ天蓋のように二人を隠す。柔らかな煌きを放つ艶やかなアバッキオの髪は、今や肩を超えるほど伸びていた。アバッキオが髪を伸ばしているのは、ジョシュアが気に入っていたからに他ならない。
まだ短かった頃、アバッキオの髪に触れたジョシュアがその柔らかくもコシのある手触りにうっとりとしながら言ったのだ。きっと、長い髪もレオーネに似合うだろうな、と。手触りもすごく良いだろう、と。だから今、アバッキオはジョシュアの為に髪を伸ばしている。せっせと手入れをして、ジョシュアを宝箱に仕舞い込んだ時にたくさん触ってもらうために。
ほんのりとワインの香りのする唇へ何度も自分の唇を触れさせ、擦り付けて、やわやわと食む。はあ、と気持ちの良さそうな吐息がもれてくれば、そうっと舌を差し込むのだ。
ジョシュアと一切の交流を断つと誓ったけれど、アバッキオにとってそれはあまりに酷な事であった。
遠目や画面越しにいつだってその姿を見ることは出来る。声だって聞くことが出来る。けれど、触れることは出来ない。彼の肌のあたたかさや柔らかさを知ってしまっているアバッキオにそれは耐え難い苦痛となり襲い掛かった。だからアバッキオは、彼の意識の無い時なら、会っているうちに入らないのではないかと憔悴し疲弊しきった頭で考えたのだ。
それからアバッキオは、細心の注意を払い、ジョシュアが”特製”ワインを口にした日だけ彼の家へ訪れることを自分に許した。そうしてアバッキオの心の平穏は保たれたのである。ジョシュアの睡眠の平穏は別として。
ジョシュアの仄かにワインの味のする唾液を啜り、自分の唾液を飲ませ、満足いくまで舐り尽くし、アバッキオは舌を引き抜いた。零れた二人の唾液を舐め取って、首筋に一度唇を押しつけてから身を起こし、熱い息を吐く。
自身を落ち着かせるように何度か深呼吸をして、ぐるりと部屋を見回す。
この部屋とももう、今日でお別れだ。彼のお気に入りの品は持っていくつもりだが、それ以外の物は全て廃棄予定である。彼のための家具はもうほとんど用意してあるのだから。
ジョシュアの隣へ横になりながら、早く彼が目覚めてくれるように思わずにはいられない。胸がどきどきして、小さな笑いがつい零れてしまう。ぎゅうっとジョシュアの体を抱き締めて、くふくふ笑うのを止められない。
今日、やっと、アバッキオの”宝箱”が完成したのだ。
* * *
酒を飲んで眠った次の日は、いつも少しだけ怠い。昨晩も酒を飲み、カウチで横になったところから記憶がないけれど、きっとまたちゃんとベッドで眠ったのだろう。いつどうやってベッドに入ったのか記憶はないが、酒を飲んでカウチで横になっても朝起きればちゃんとジョシュアはベッドにいるのだ。きっと夢現でベッドに入っているのだろう。
今朝も、少しの怠さを感じながらいつものように重たい瞼を押し上げ、ひゅうっと息を飲んだ。
「Buon giorno、ジョシュア」
愛おし気に細められた、金色のような鼈甲のような、仄かに紫がかっても見える不思議な色をした美しい瞳。そんな瞳も持ち主は、ジョシュアの知る人たちの中に一人しかいない。
暫し前からずっと音信不通で、警察を辞めたとは聞いたけれどどこで何をしているのか全く分からなかった、友人だと思っていた男だ。連絡が途絶えてからずっと心配していたが、元気そうで良かった、と思考が一瞬逃避する。
「な、んで、レオーネ、ここに……」
掠れた声は途切れ途切れにしか言葉を吐けない。レオーネは、ジョシュアの今まで知り合ってきた人々の中でもかなり親しくしていた人物である。であるけれど、こんな、ひとつのベッドで共に眠る様な仲では決してない。
心臓がばくばくと脈打ち、冷や汗が噴き出る。嫌な予感が、何かとても恐ろしいことが起こる予感がするのだ。
「迎えに来たんだ、お前を。やっと家が出来たんだ、随分と待たせちまって悪かった」
甘い、蕩けるような声でそう言いながら、男は身を起こし真っ青な顔をして震えるジョシュアの額にひとつ、キスを落としてくる。
覗き込むように見つめてくる宝石の瞳。以前までは、まだ夕飯を共にしたりしていたころまでは、綺麗で好きだった瞳が、いまや何よりも恐ろしいもののようにジョシュアには感ぜられた。
「ほら、起きてくれジョシュア。さっさと準備をしないといけないからな。この部屋とはもう、今日でお別れなんだから」
朝日にきらきらと髪を光り輝かせながら、男は満ち足りた、息を飲むほど美しい顔で笑った。
今日はえいえんの最初の日
2019.09.08 | ここまでお付き合いくださりありがとうございます、「福音」これにて完結とさせていただきます。