03

ジョシュアからアバッキオのもとへ連絡が入ったのは二週間ほど経ってからのことである。連絡のあったその日一日アバッキオの機嫌は良く、同僚から少し揶揄われてしまうほどであった。
ジョシュアが働く書店にほど近いこじんまりとしたトラットリア。そこがジョシュアの指定した店である。手頃な値段で味も良く、品数も豊富なその店は彼自身よく店帰りに食事をする場所らしかった。正直なところ、アバッキオは緊張とときめきで何の料理を食べて、どんな味がしたのかという記憶が薄い。ただ覚えているのは、柔らかな橙がかったペンダントライトに照らされ柔らかな光を纏ったジョシュアが、この世で一番尊いものに思えたことだけである。
その日から、アバッキオのただでさえ濃く鮮やかで大きかった恋心は加速度的に育っていった。けれどそれを示してしまえばジョシュアのまわりに居た人間と同じ、彼をただ性の捌け口の対象としているように思われてしまうかもしれない。アバッキオはそう感じ、決してそれを表に現すことはなかった。
ジョシュアはアバッキオのその恋心を押し殺すが故の寡黙さを彼本来の性質と勘違いしていたようだ。逆にそれが良かったのか、ジョシュアはアバッキオを気に入った様でそれから度々、二人は共に食事を取るようになった。
誘うのは決まってジョシュアからで、アバッキオはただひたすら自分の電話が鳴るのを祈る様に待っていた。決して自分からは近付かない。その姿勢が、少しずつ、ジョシュアの中に僅かに残っていたアバッキオへ対する警戒心を解いて行ったのだろう。
共に食事をするようになって約半年経ったその日、初めてジョシュアはアバッキオの前で酒を口にしたのだ。


* * *


目の前でワインを口にするジョシュアをアバッキオは驚いた顔で見ていた。
今まで何度も食事を共にしたが、彼が酒を口にしたところを目にするのは初めてのことである。アバッキオがワインを飲もうがビールを飲もうがジョシュアが口にすることは一度としてなく、アバッキオは彼は酒が飲めない性質なのだと思っていたくらいだ。

「酒、飲めたのか?」
「ん?ああ、飲めるよ。飲めるけど、外で飲むのは初めてだ」
「そうなのか?」
「俺、すぐ酔うから。でも今日はレオーネと一緒だし、俺が酔っ払っても送ってくれるから大丈夫だろ?」

悪戯っぽく笑ったその顔はあまりにも無防備で可愛らしかった。
あんなにも遠かった彼が、今はこんなに近くに居る。自分に向かって笑って、色々な話をしてくれて。夢みたいだ。けれど同時にその無防備な信頼が、ひどく苦しくてアバッキオはぐっと息を詰めた。今すぐにでも彼の目の前に跪き、その手を取って愛を乞いたくなってしまう。
だがアバッキオは、それでも全てを飲み込み、瞳の熱を隠すように薄く笑うのだ。

「ああ、任せてくれ」
「ははっ、頼もしいなぁ」

それからにこにこと楽しそうに笑いながらジョシュアは酒を飲んでいく。そうしてあっという間に酔っぱらってしまった。
ワイン二杯でふにゃふにゃになってしまったジョシュアをその場に捨て置くことも出来ず、半ば抱き込む様にしてアバッキオは店を後にし帰路へ着く。酒のせいでいつもより高い体温が伝わってきて、気を抜けばその場に彼を押し倒してしまいそうだった。美味しそうな御馳走を前にひたすら『待て』を命じられた犬の心地だ。
いつもよりも随分と掛かってなんとかジョシュアの自宅まで辿り着いたのだが、さらに酔いが回ったのか彼は最早自立出来ないほどくったりとしていた。

ジョシュア、着いたぞ」
「うん……」
「鍵はどこだ?鞄か?」
「うん……」
「ああ、これか?」

鞄から革のキーホルダーがついた鍵を引っ張り出し、差し込めばがちゃんと錠が音を立てる。戸を開けて「ジョシュア、大丈夫か?」と伺うが小さな返事のような唸り声は返って来るだけで、夢の中に片足を突っ込んでいるのか反応が鈍い。
少々逡巡し、一度深呼吸してからアバッキオは家の中へ足を踏みいれた。今まではドアの前で別れていたので、部屋へ上がるのはこれが初めてのことである。

初めて入ったジョシュアの部屋は彼のにおいに満たされていた。良く片付けられた物の少ない部屋。けれどあちこちに彼がどんな日々を過ごしているのか見える。例えばカウチの背もたれにかけられたままのパーカーだとか、テーブルに置かれたままのカップとしおりの挟まった本。どれもがきっとこんな風に過ごしていたのだな、と簡単に想像できてしまうものだった。
すっかり寝息を立ててしまっているジョシュアをそっと抱き上げる。ずっしりとした重みが途方も無くアバッキオの幸福感を煽る。夢みたいだ、と思いながらアバッキオは部屋の奥へと進み、一つだけある戸を開けた。
暗いその部屋は、一番彼のにおいが濃い。寝室だ。整えられたシンプルな作りのベッドには、ふかふかのクッションがいくつも置かれている。
ゆっくりとベッドへ歩み寄ったアバッキオは、腕の中ですやすやと眠るジョシュアをこれ以上ないほど優しくベッドへと寝かせた。よほど深く眠っているのか、ジョシュアは一度も目を開けることなく健やかな寝息を立てている。

ジョシュア……」

いつもは決して出さない、焦がれた声でそっと名を呼ぶ。ずっと触れてみたかった髪を撫で、あの手当てをした日に湿布越しにしか触れることの出来なかった頬を撫でる。それから、僅かに開かれた薄紅の唇を震える指でなぞった。今まで触れたものの何よりも柔く、とろけそうな心地すらするその桃色に、アバッキオは熱い息を吐き出す。
何かが壊れてしまいそうだった。彼に触れていると、自分の中の何かが、めちゃくちゃに壊されて跡形もなくなってしまうような気がした。

実際、その時アバッキオの心はどこかが壊れ綻んでしまったのだろう。

アバッキオはジョシュアの唇に触れた指で己の唇を押さえると、もう一度だけ息を吐き出し部屋を後にした。彼の鞄から取り出した鍵を握りしめ、『鍵はドアポストに入れていく』と一枚だけメモを残して。
翌朝起き出したジョシュアはメモ用紙を見て、ああ、アバッキオにたくさん迷惑をかけてしまったな、と少し落ち込むだろう。そしてしっかりと施錠されているドアと、ドアポストの鍵を見て少しだけ微笑むのだ。その鍵が今まで自分が使っていた純正の物ではなく、新たに複製された物だと気付かずに。

甘く、とろけるような

2019.06.22