02

今朝はすっきりと目覚めたし、淹れたコーヒーも美味しかった。天気も良くて、朝の柔らかな日差しの中で見る全てが優しく煌いてみえる。ジョシュアと再会した途端、世界は再び美しく甘く輝きだした。千々に乱れていた全てがぴったりと噛み合い合致して、停滞していたものがどんどんと流れ出したような清々しい気分である。
同僚は初めて見るゴキゲンな様子のアバッキオに目を瞬かせ、ははん、と頷いた。

「随分機嫌が良いな、アバッキオ。彼女といいことでもあったのか?」

同僚の質問に、一瞬アバッキオはきょとんとした顔をした。その後少しばかり恥ずかしそうに口元を覆い、いや……と言葉を濁す。しばしうろうろと落ち着かなく視線を彷徨わせたアバッキオは、こほんと一度咳ばらいをして同僚へ「ずっと会いたかった人に会えたんだ」と小さな声で告げた。
気の良いこの男は、絶対に揶揄うことはないだろうし、むしろ良いアドバイスさえくれるかもしれない。そう思いアバッキオは見回りへ赴くために乗り込んだパトカー内で同僚へぽつりぽつりと話をし始めた。

「高校からって、じゃあもう六年くらい片想いしてるのか?」
「ああ、まあ……そうなるのか」
「なら絶対この機会を逃しちゃあダメだ、アバッキオ。早速食事に誘え!」
「……連絡先は聞いていない」
「何をしているんだアバッキオ!?お前、連絡先を聞いていないだって!?」
「それどころじゃなかった。偶然ばったり出くわしたってわけじゃあなくて、襲われてるところを助けたんだ。だからそんなこと、聞けないだろ」
「ああ……そりゃあ、そうだな……向こうからも聞いてこなかったのか?」

同僚の問いに頷きながら、アバッキオは昨夜のことを思い出していた。
自分のすぐ隣を歩くジョシュアの白い頬。時折ぽつぽつと言葉を紡ぐ柔らかそうな唇は時々控えめな笑みを浮かべ、低く心地の良い声は遅い時間帯だということもあって幾許か潜められて、それ故どこか甘い響きがあった。時折こちらを見上げる瞳はまだ少し水気を帯びて輝いている。
あんなに恋しく思っていた人が、すぐ隣にいる。それは夢のような時間だった。ジョシュアのアパートまでそれなりに距離はあったはずなのに、あっという間着いてしまった、と思ったくらいだ。
玄関口で、ありがとうとはにかんだ顔。上衣をアバッキオへと返すその手を引いて、すぐにでも腕の中へ閉じ込めてしまいたいくらい可愛くて、くらくらした。

「ま、でもこの街にいるならきっとどこかでまた会うだろう。その時にしっかり声を掛けて、食事にでも誘うんだ」
「そうだな、そうする」

そうだ、ジョシュアはこの街にいる。彼の自宅も知っているし、その道中に彼の職場も聞けた。会いに行こうと思えばいつだって会えるのだ。そう急ぐことはないだろう。


* * *


長年の想い人であるジョシュアとの再会はすぐのことであった。

休みの日は必ず自宅近くの喫茶店で朝食を食べることにしているアバッキオだが、その日は“気分を変えるために”少しばかり遠出して、来たことの無いエリアに来ていた。目についた喫茶店に入り、一通りの注文を終えて窓の外へと目を向ければ、向かいの通りにあるこじんまりとした本屋が見える。その本屋は、“偶然にも”ジョシュアが勤務しているといっていた店であった。
運ばれてきたコーヒーを口にしながら、アバッキオは本屋から見つめる。鮮やかな青い扉は開け放たれているものの、中の様子までは伺えない。だが、その奥で、ジョシュアが働いている。それを思うだけで、どうにもどきどきそわそわと落ち着かない気分になってしまうのだ。
遠い海の向こうではなく、すぐ近くに彼がいる。それが堪らなく嬉しい。
クロワッサンやサラダなど注文していたものが揃ったところでようやく、アバッキオは本屋から目を逸らした。焼きたてでさくさくとしたクロワッサンを咀嚼しながら、もしかすると、ジョシュアもここで昼食やなんかをとっているのかも、なんてことを思う。
次に会えたら、連絡先を教えてもらいたい。それか、なんとか食事にでも誘えないだろうか……。
だが、待て。もし万が一誘えたとして、ジョシュアは了承してくれるだろうか?アバッキオにとっては長年慕っていた相手であるが、ジョシュアの方からしてみればアバッキオはつい先日会ったばかりの他人だ。会って二度目で食事にいってくれるだろうか。会って二度目の人間に、連絡先など教えてくれるのだろうか。昔から何かと大変な目に遭っている彼のことだから、警戒心も強いだろう。もしかするとどちらも断られてしまうかもしれない。
乱気流の如く浮き沈みしながら、アバッキオはまた本屋の方へと視線を向けた。と、どうも様子がおかしい。本屋の前でジェラートか何かを手にした子供に向かって二人組の男が怒鳴り散らしているようだ。
大方、子供とぶつかって服が汚れただとかそういうことだろう。見るからにガラも頭も悪そうな男共だ。
アバッキオは一度溜息を吐いて、最後の一欠けらを口へ放り込みコーヒーを煽る。料金を払い店の外に出て、向かいの通りへ行こうとしてアバッキオは目を剥いた。
ジョシュアがいたのだ。子供を庇うように男たちの前に立ち、何かを言っている。ジョシュアに何か言われた子供が、泣きながら走って逃げていく。
ああ、一体何をやっているのだ!アバッキオは慌てて道路を渡り男たちのもとへ走った。男が顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげながらジョシュアの胸倉をつかみ上げるのが目に入る。振り上げられた腕。

「やめろ!」

びりびりと響くような声でアバッキオは吼えたが、男の腕は止まらなかった。ガツン、と左頬を殴られたジョシュアの体が傾く。
それを目にした瞬間、頭が真っ白になった。ほとんど本能的にジョシュアへ手をあげた男を殴り飛ばし、吹っ飛んだ体を蹴り上げる。もう一人の男はアバッキオの爛々と光る眼に怯えた悲鳴を上げて後退った。追い打ちを掛けようとしたアバッキオの服を何かが引っ張る。振り向けば、頬を腫らし唇の端を血で滲ませたジョシュアがアバッキオを見つめていた。
頭にのぼっていた血が引いていく。騒めきながら遠巻きに様子を伺う通行人たちに気付いたアバッキオは己を鎮めるようゆっくりと息を吐いた。

「また腫れてしまうな」

あの日と同じく腫れた頬と切れた唇。折角綺麗に治っただろうに、また傷付けてしまった。

「手当をしよう」

男たちなどはじめからいなかったように振る舞うアバッキオに戸惑った顔をしながらも、ジョシュアは背を押されるがまま己の勤務先の中へと入って行った。
狭いながらもぎっしりと本の詰まったその店は、古い本特有の仄甘い香りが漂い、昂っていたアバッキオの精神を少しずつ落ち着かせてくれる。ゆっくりと平常心へ戻ると同時に、ジョシュアへ触れてしまったことに気付いて、アバッキオは大いに動揺した。
背に触れた手が一気に汗ばむ。何も考えずに手当をといって店の中へと入ってしまった。

「あの、ありがとう。あの時のおまわりさんだろ?」
「あ、いや……礼を言われるようなことはしてない」
「いや、おまわりさんが来なかったらきっと俺はもっと殴られてたよ」

店の奥にあるカウンターの向こうに置かれていた椅子にジョシュアを座らせ、アバッキオは辺りに視線を彷徨わせた。彼以外、人の気配がしない。

「誰もいないのか?」
「ん?ああ、俺がいるからな。狭いとこだし、店番は一人でいいんだ」
「そ、うか……」

カウンターの横の棚から救急箱を引っ張り出し、膝の上へ乗せたジョシュアが、ふとアバッキオを見上げた。

「そういえば今日は制服じゃないけど、休みだったのか?」
「ああ。そこの……向かいで朝飯を食ってたんだ。そうしたら偶々、子供に怒鳴るあいつらが見えて」

まるで言い訳でもするようにへどもど言葉を紡ぐアバッキオに、ジョシュアは親し気な笑みを見せ「それで駆け付けてくれたのか?」と首を傾けた。
初めて自分へ向けられたはっきりとした笑顔に、アバッキオの胸はこれ以上ないほどに忙しなく脈を打つ。顔を引き締めることに必死でもう何も言えなくなってしまったアバッキオは、ジョシュアの問いにただ頷いた。
その仕草に照れていると思いふっと息を吐くように笑ったジョシュアだが、不意にぐっと眉間に皺を寄せた。切れた唇が引き攣って痛んだのだろう。嘆息し救急箱から湿布と絆創膏を取り出したジョシュアに、アバッキオが小さな声で「俺が貼ろうか」と言った。

「ん、じゃあ頼むよ。なんか面倒ばかりかけて悪いな」
「いや、気にしなくていい」

彼の前に膝をついて、その手から湿布を受け取ったアバッキオは一声かけてから成る丈優しく、腫れた頬へそれを貼り付けた。どうしてかジョシュアはじっとアバッキオを見つめている。アバッキオは彼の視線に内心パニックを起こしながらも、震える指で桃色の唇の端へ絆創膏を貼った。
絆創膏越しに彼の柔らかな皮膚に触れてしまい、最早どきどきしすぎて吐き気がしてきたくらいだ。くらくらして、目の端がちかちかして、何がなんだか訳が分からない。

「すげえ綺麗な目だな、おまわりさん」

じっとアバッキオを見つめていたジョシュアの言葉に、いよいよアバッキオの鼓動は止まった。
かっと見開かれた瞳をジョシュアはしげしげと見つめる。金色にも見えるが、それよりも少し薄い。砂糖を煮詰めた鼈甲のような柔らかな色だが、少し紫がかっているようにも見える。不思議な、けれどとても美しい瞳だとジョシュアは思った。

「俺は、あんたの方が、綺麗だと思うぜ。シチリアの海みたいだ」

顔が熱い。きっと赤くなってるのだろう。それが恥ずかしくて、隠すように俯きながらアバッキオは震えた小さな声でそう返した。

「はは、初めて言われたぜそんなこと、嬉しいけど恥ずかしいな。なあ、おまわりさん、名前は?」
「レオーネだ、レオーネ・アバッキオ……」

いつもはアバッキオ、と姓のみを名乗るのだがジョシュアにはどうしても名前を読んで欲しくて真っ先に名を告げた。レオーネ、とその桃色の唇で己の名前を紡いで、笑んでもらえた暁には死んでしまうかもしれないけれど。
ジョシュアも先に名前を名乗ってくれた。これは、名前で呼んでもいいということなのだろうか。この短時間で、随分と距離が縮んだような気もするし、食事に誘っても、頷いてくれるかもしれない。
アバッキオは、手汗の滲んだ掌をぐっと握りしめ、ジョシュアを見る。

「その、都合の良い時にでも、食事に行かないか」

アバッキオの唐突なその誘いに、ジョシュアは目を瞬かせた。

「いや、これも何かの縁だろう?だから……ああ、そうだ、何かあった時のために連絡先を渡しておく。また絡まれたり、困ったことがあれば連絡してほしい。この前のようなことがもう起きないとは限らないし、あー、だから……」
「っはは、おい落ち着けよ、結構言ってることがめちゃくちゃだぜ」
「……悪い」
「いや、アンタが心配してくれてんのはよく分かったよ、二回も助けられちまったしな。連絡先はもらっとくけど、口ん中が切れてっから飯はしばらく先だな」
「え、いいのか」
「これも何かの縁、だろ?それに助けてもらった礼もしてないからな」

しっちゃかめっちゃかなことを口走りながらカウンターのメモ紙にアバッキオが走り書きした連絡先を手に取り、ジョシュアが二ッと笑った。

「治ったら連絡するから」
「っああ、待ってる」

じゃあまた、と別れを告げて店の外へ出る。男たちはどこぞへと行ったのか運ばれたのか、辺りは穏やかさを取り戻していた。
ふらふらと覚束ない足取りでアバッキオは本屋を離れていく。まだどこか夢でもみているような気分だった。ジョシュアと食事をする約束をしたのだ。しかも彼から連絡すると言ってくれたのだ!
ただの社交辞令なのかもしれないけれど、それでもアバッキオの胸は喜びで息苦しいほどだった。今すぐ大声を上げて辺りを走り回ってしまいたい。ああ、世界は薔薇色だ、自分はこの世で一番幸福だ!
溢れんばかりの喜びを噛み締めながら、アバッキオは自宅への道を歩んでいった。

きみは幸せの匂いがする

2019.06.02 | 警官ッキオくんは普通の好青年のイメージが強いです。