月と蛞蝓


▼ 宮田司郎

彼は、愛してはならない人だった。愛してはいけない人を俺は愛してしまったのだ。
彼は存在すること自体が罪なほど美しい、神に等しい人だった。聖母マリアの如き慈愛に満ちた微笑みも、時折悪戯めいた光をみせる蠱惑的な瞳も、人を魅了する様々な言葉を操り紡ぐ唇も、何もかもがどうしようもないほどに心を掴み、逃れられないほど絡み付いてくるのだ。
それは最早悪魔的ですらあった。彼は愛してはいけない人だ。けれど愛さずにはいられないのだ、何もかも投げうって、全てを差し出しても構わないと思わせるものが彼にはあった。

「先生」

そうっとひそめられた声はぞっとするほど甘い。ベッドにくたりと横になったまま、彼はこちらを見つめている。

「先生、もう帰るんですか」
「ええ、もう診察は終わりましたので」

これ以上ここに居てはいけない。こんな、彼の香りしかしない部屋に二人きりで、手を伸ばせば容易に触れてしまえる距離にいるだなんて気が狂いそうだ。

「先生」

手早く診察道具をまとめていく俺をもう一度彼が呼んだ。

「もう少しここにいて」
「……」

衣擦れの音がして、気配が近付く。

「先生、いつもすぐ帰っちゃうから寂しいんです」

白衣がくん、と引かれぐわりと腹の底が熱くなる。

「せんせい」

すぐそばで甘く掠れた声が囁いてくる。細い指がやわやわと白衣の裾を引いて、

「せんせい」

とろりとした毒の混じった甘い声が脳を焼く。革の持ち手を握りしめていた指から力が抜け、鞄が音を立てて床に落ちた。

「ね、せんせい。すこしだけお話、しましょう」

裾を掴んでいた手がそうっと空になった俺の手に触れ、やんわりと指先を握ってくる。少し冷たいその手に引かれるがまま振り向けば、身を起こした彼が柔く笑んでいた。
駄目なのに、いけないと思えば思うほど彼に恋焦がれ、彼を思えば思うほど気が触れそうになる。腹の底が熱をもって、じりじりと思考を煮立たせる。

「せんせい、ここ、座って」

示されたベッドの上、そこに腰かけてしまえば終いだ。

2023.12.17