踵に仕舞われた魔法


どこにも行けない、と彼はいつも言う。
どこにも行けない、ここから出られない、ここにしか居られない。
昔は二人で美味しいものを食べに行ったり、彼の好きな映画を見に行ったり、素敵な本を探しに行ったり、色んなところに出掛けていたのに今じゃあ彼は自分の城からは一歩も出て来なくなってしまった。いつの間にか、彼の好きなものをたくさん集めたその部屋でしか彼は生きることが出来なくなってしまったのだ。

「今日は良い天気ですよ、出掛けてみませんか」

カーテンの閉めきられた薄暗い部屋の片隅に置かれたベッドで、毛布をかぶり小さく丸まったその体に手を添える。僅かに覗いた彼の頭が、いやいやと揺れ動いた。
綺麗に片付けられた彼の部屋から、靴がひとつ残らずなくなったのは彼が外に出ることを拒み始めて数日過ぎた日のことだ。お洒落な靴がたくさん並べられていた棚は空になり、よく履く靴もお気に入りの靴も何もかも無くなっていた。
彼の色に溢れていた玄関は瞬く間に息絶え、無色で冷たい空間へ変貌してしまったのだ。

「美味しいケーキ屋さんを見つけたんです」

細い絹糸のような髪を指に絡め、くん、と引っ張る。

「行ってみませんか?きっとも気に入りますよ」

いやいや、とまた頭が動いた。

「……靴がないから、出られないよ」

小さい、くぐもった彼の声が毛布の中から聞こえてきた。
靴がない。外に出ようと僕が言うと、靴がないと彼は必ず言う。靴がないから楽しい場所にも素敵な場所にも行けない、と。
靴があれば出られるのかと言えば、僕なんかに合う靴はないと答える。その繰り返しで何も進まない。無理に引っ張り出すのは良くないと思ってここまできたけれど、今日は引くことは出来なかった。

「靴があればいいんですか」

だって今日は、大切な彼の誕生日だ。こんな閉めきられたところでそんな素敵な日を無駄にしてしまうのはよくない。

「僕が履ける靴はないよ」
「あります。僕は君に似合う靴をたくさん知ってる。それでも嫌だと、無理だというのなら靴なんて履かなくていいです。そんなものなくたって、僕はあなたを連れて行きますから」

rewrite:2022.03.08