月の海でなら裸足になれたね
甘いお菓子がすき。フリルやリボンがついた可愛いお洋服もすきだし、お人形もすき。だいすきな話は白雪姫やシンデレラだ。
「おはよう、薫君」
男である自分がお姫様になんてなれないことはとうの昔にわかっていた。だけれど諦められない。奥底に沈むもしかしたらが忘れられないのだ。
僕がお姫様とは程遠い、最早真逆の王子様だあだ名で呼ばれてしまうようになっても、そのもしかしたらは捨てられずにいた。
「おはよう、河野さん」
思わせぶりに甘く優しく笑んで、僕をなりたくもない王子様に仕立て上げたことへの些細な復讐として、僕は今日も彼女たちに少量の毒が混じった真っ赤な林檎を渡すのだ。たとえ少しだとしてもそれは毒、積もれば致死量へと変わる。
「あの、わ、わたし、薫君のことがすき、なの」
震え、赤い顔を俯かせた目の前の人間は紛れもなく少女だった。どんなに望んでも手に入ることのない柔らかな曲線を描く体が、軽やかな声が、甘いにおいが、羨ましくて憎らしくて仕方がない。
彼女は僕が望んでやまないお姫様になれる。
「ありがとう」
些細な復讐として僕は彼女たちにとびっきりの優しさをぶつける。これから毒林檎を食む彼女たちへつかの間の幸せを感じさせるのだ。
そんなことを繰り返していくうちにすっかり僕は毒に塗れてしまっていた。取り返しのつかないほどに、黒く赤く。
「すきです、薫君」
水に沈む瞳をきらきらと輝かせ、優しく彼は笑った。最初から何もかもを知っているように、毒に塗れていようと構わないと、あなたの望みを叶えさせてくださいと、彼は僕に手を差し伸べる。
「僕では、だめですか」
ああ神様はなんて残酷なのだ。もう僕はお姫様になんてなれないというのに。
そうっと握られた手から伝わる温度は哀しいほど優しく、泣きたくなるほど苦しいものだった。
だめなのだ、この手を取ることは僕には出来ない。あなたの手をとるには僕はあまりにも汚れすぎてしまった。
「ありがとう、テツヤ君」
もう遅いのだ。
rewrite:2022.03.05 | BGM:甘き死の柩 / マチゲリータP