誰かが追って来たときは高尾和成かと東雲は思った。しかし高尾にしては突然そばに現れたような感じがしたし、妙に静かなのだ。
どうにもその妙な静けさに嫌な予感がして、東雲は山の方へ向かっていた足を止め息を潜めた。身を屈めながらさっと辺りを見回す。
木の間から何かがちらりと見えた。
強烈な、目に焼き付くような赤。
「(最悪!)」
見間違えるわけがない、あれは赤司征十郎だ。最悪だ、赤司とやり合うには場所も悪ければ武器も少な過ぎる。こうなったらもう何がなんでも逃げ切るしかない。
東雲は身を起こすとまた勢いよく山の中へと走り出した。林より山の中の方が木は密集しているため逃げ切れる確率は上がる。
背後で轟いた銃声に冷や汗をかきながらも東雲は山の斜面をなんとか駆け上がり、見えた展望台と小屋のわきを通り過ぎ林の中へ転がり込んだ。草葉に隠れるように身を伏せ耳を澄ませる。
赤い髪が見えた。赤司が来たのだ。
林を抜けてすぐ立ち止まったようで、今は何の音も聞こえない。きっと東雲を探しているのだろう。地面に伏したまま、東雲はじっと赤司の気配に集中した。
枝葉を踏みしめる微かな音がしたが、それはこちらへ向かって来てはいない。展望台か小屋の方に行ったのだろう。どちらかの中に入ってくれれば、逃げ切れる可能性は高い。
祈るように入れ、入れ、と念じていれば、小屋の方から重苦しく間延びした銃声が轟いた。
赤司の持つ銃の発砲音ではない。自分たち以外にも誰かがいたのだ。続いてもう一度音は鳴り響き、その後は何の音も聞こえてこない。誰かが小屋から出てくる音もしなければ、争うような音もしない。
建物に誰かしらがいる可能性をすっかり忘れていたことを悔やんでいると、また赤司が動き出しだのだろう、ぱきぱきと小さな音が鳴っている。かちゃん、と扉の開く小さな音がして、そうっと僅かに東雲は顔を上げた。
赤司が小屋の中を覗いている。しばらく扉に隠れるように中を見ていた後、ゆっくりと小屋内へと入って行った。
それを見るや否や、東雲は身を起こして静かに慎重に、しかしなるべく素早く、半ば斜面を滑り落ちるように山を下りる。背後から追われているような心地が消えないまま山を一直線に下り、平地にようやく足が着いたところで東雲はとうとうしゃがみ込んだ。
ひどく疲れている。追ってきているような音はしないけれど、追ってきていないとは限らない。疲れ切った足に力を入れ立ち上がると、東雲はすぐに林の中を歩き出した。
現在地はおおよそでしか判断出来ない。それも地図や方位磁針も見ずに山を下りたせいで、そのおおよその位置も正しいかどうかは分からないものだ。
ならばいっそこのまま真っ直ぐ西へ進んで、海岸にでも出てしまったほうがいいかもしれない。西海岸に出て北へ行けば黄瀬の死体がある神社へ辿り着ける。
そうして方位磁針を片手に林の中を少し歩いたとき、人の声が聞こえてきた。誰かと話しているその声は、東雲が求めてやまなかったものに思える。
ふらふらと引き寄せられるように、東雲は声のする方へ歩いて行った。
X X X
「忘れもの」
そう言って笑った東雲の顔に、堪らなく嫌な感じはしたのだ。ぞっと足元から酷く冷たいものが這い上がって心臓をぎゅうっと締め付けてきて、それがとても恐ろしく思えて茉柴の腕を掴み自分の方へ引き寄せてしまった。
あの時、引き寄せなければよかったのだ。
高らかな笑い声のように鳴り響いた音に目を丸めた茉柴の胸から散った赤に、高尾和成の頭は真っ白になった。あんな適当に、それほど狙わずに撃ち放たれた弾のひとつがまさか真っ直ぐ胸に中るだなんて。訓練を受けた兵士ではないのだ、中るわけがないとどこかで思っていたのかもしれない。
「!」
高尾が腕を引いた茉柴の胸を、弾は貫いた。高尾が腕を引っ張らなければ、きっと誰にも中らなかった。
倒れ込んだを追うようにしゃがみ込んだ高尾の上を通り過ぎるように、数度銃声が鳴る。ぐ、と呻くような声にハッと顔を上げれば、脇腹を赤く染めた緑間が崩れるようにしゃがみ込むところだった。
「真ちゃん、」
嘘だ、そんなこと信じられるか?
高尾は咄嗟に握った銃を東雲へ向けて発砲したが、その時にはもう東雲は走り出していて中りはしなかった。その背は木々に紛れ遠ざかっていく。
「真ちゃん、、」
脇腹を赤黒く染めた緑間が、大丈夫だと言うように首を振る。けれど顔色はひどく蒼褪め、細く吐き出される息も唇も細かく震えていた。
高尾にそうっと抱き起された茉柴の口からごぼりと血が溢れ出す。どこか非現実的で嘘っぽい光景なのに、ずっしりと腕にかかる重みがこれが夢でもなんでもないことなのだと知らしめてくる。
たったの数秒で、なにもかもが零れ落ちていくようだった。
「か、かず……ごめ、」
「待って、、、目開けて」
待ってくれ、俺を置いていかないでくれ。
戦慄く唇からはもう音は出て来ず、細く掠れた息が微かに漏れただけだった。
「、!」
閉じられた瞼は重く、持ち上がらない。力の抜けてきた体もまた、ひどく重たい。
高尾は呟くように何度も繰り返し茉柴の名を呼んだ。そうすれば再び目を開けるとでもいうかのように、何度も何度も。
もう笑いかけてくれることはないのか、少し鬱陶しそうに眉を寄せることも、困ったように首を傾けることも、拗ねるたように顔を背けてしまうことも、もう無いというのか。
ぐっと胸に抱き寄せた体のどこにももう力は入っていない。ただただ重たい、抜け殻のようだった。
「……高尾」
「真ちゃんどうしよう、、死んじゃった」
どうしよう、とそう言った高尾の目からは止め処なく涙が伝っている。口元は歪な笑みを浮かべ、どこか虚ろな目をする高尾に緑間は胸が苦しくなって目を逸らした。
がいないなんて考えられない、が死んだら俺も死んじゃうかも、といつかふざけたように高尾が言っていたことを緑間は思い出したのだ。茉柴は云わば高尾の安定剤でありある種のストッパーのような存在だった。
たった少しの間に全てを壊されてしまった。数分前まで二人はじゃれて笑っていたのに。
緑間は重たい腕を動かし結局一度も使うことの無かった、使うことの出来なかったボウガンを高尾へと投げ渡した。
「行け。ここにいたら人が来るかもしれない」
それに高尾は何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに茉柴をそうっと地面に横たえると自身の上着をその身の上に掛けた。名残惜しそうに頭を数度撫で、緑間のボウガンを握り立ち上がる。
「絶対戻ってくるから」
東雲を殺して戻ってくると微かに笑ったその顔に、かつての輝きはどこにもない。あるのはただ暗く澱んだものだけだ。
数分にも満たない間に、何もかも崩れ果ててしまった。それがプログラムというものなのだろうか。
その先にある喪失
2022.08.18