こちらへ向かって歩いてくる東雲の足取りはどこか躊躇いがちで、視線も自身の不安を示すようにあちこに飛んでいく。誰かに助けを求めているように見えるその姿は、弱った小動物を思わせた。
高尾和成はその様子に眉を寄せ、忌々し気にもう一度舌打ちをする。ひどく嫌な予感のようなものが足元を漂っているのだ。そしてその予感は恐らく外れていない。
本当に東雲は今不安を感じているのだろうか。答えは否だ。不安に震えている振りをしているに過ぎないはずだ。
東雲は人の心の隙間に入るのが異常なほど得意だと高尾は思っていた。いつの間にかするりと入り込んで、本人でも気付かないうちに上手いこと操作し自分の良いようにする。あいつはそういう人間だ。
「……誰かいるの?」
小さなひっそりとした声。緊張と恐れを示すよう、忙しなく辺りを見回している東雲は近くに人がいることを把握している。すぐさま攻撃されないことから、上手くいけば“中に入れる”とでも思っているのかもしれない。
じ、と東雲を見つめる高尾のすぐそばで、東雲は泣いてしまいそうな顔で立ち止まった。その姿を哀れにでも思ったのだろう、見かねたように茉柴が立ち上がろうとするのを緑間真太郎が制する。
どうして、と言いたげな顔をして緑間と高尾を見る茉柴に、高尾は静かにしていろとジェスチャーして立ち上がった。
「動くな」
「っ、あ、高尾くん……?」
東雲の涙で潤んだ目が高尾を捉え、一瞬その身体から力が抜けたように見える。しかし高尾の冷ややかな眼差しと向けられた銃口に驚いたように目を丸め、一歩後退った。
「あの、僕、」
敵意はない、と伝えようとしているのだろう。東雲はおろおろと視線を泳がせ、必死に何かを言おうとしている。無害そうに見える姿に、高尾は随分と上手いことだと心の中で悪態を付いた。
東雲の手には拳銃が握られている。いつ何時撃たれるか分からない。高尾はすぐさま発砲できるよう安全装置を外してしっかりとグリップを握り引き金に指を掛けた。
高尾の視線に気付いたのか、東雲は慌てたように握っていた銃を上着のポケットの中へと仕舞い込んだ。そして何も持っていないと両手をあげ見せてくる。
「あの、う、撃たないで、ほしいんだけど……」
だが高尾は銃を下ろさなかった。銃が無いからといって、東雲相手にとてもではないがすぐには警戒を解くことは出来ないのだ。
けれどそれは我慢出来ない、見過ごせないとばかりに茉柴が高尾の上着の裾を何度も引いた。
「カズ」
小さな声で名前を呼んで、やめろと言いたげに何度も首を振る茉柴を目の端で捉え、高尾はしばし逡巡した後、渋々と銃を下した。銃は下ろしたが、きつく睨みつけるような眼差しは変わらない。
東雲は高尾の様子にほっとしたように少し笑んでから、その、と続けた。
「高尾くんの他に、誰かいる……?」
敵意など微塵もありません、と両手のひらを見せたまま東雲はきょろりと視線を彷徨わせる。
その無防備とも思える姿を物陰から見ていた茉柴がもういいだろう、と再び高尾の上着の裾を引き目で訴えた。
こんな状態の人間が何かするとは到底思えない。たった一人で心細いのであろう姿が茉柴にはなんだか可哀想に思え、庇護欲にも似たものが刺激されてしまったのだ。
ちらりとそんな茉柴を見た高尾は、その眼差しにため息を吐きながらも結局は許し茉柴のやりたいようにさせてみることにした。少しでも不審な様子を見せた時は容赦なく攻撃すればいい。緑間ともそうアイコンタクトを取り、高尾は茉柴へ頷いた。
それを見、茉柴は立ち上がる。
「や、東雲」
片手をあげ笑った茉柴に、東雲も安心したように笑った。
X X X
東雲は結局山には登らず、その山の正面を沿うように林の中を歩いていた。
山の正面を過ぎ、灯台のある方角へと少し歩いた辺りで誰かの話し声が聞こえたと思ったけれど、今は何も聞こえない。足音にほとんど気を配っていなかったので、恐らくこの辺りにいた誰かに気付かれてしまったのだろう。
失敗した、と思いながらも東雲はそのまま大して音を潜めずに声が聞こえていた方へ歩いて行く。なるべく怯えて見えるよう、そろそろと歩いて、あちこちに視線を投げる。
「(熱い視線を感じる……)」
誰かにじっと見られている。誰かに熱く見つめられるなんてことはまあそれなりにあったけれど、この視線は好意を含んだ甘いものではない。鋭い針のような、ちくちく刺さるような敵意しか感じられなものだ。
そんなに見られたら穴が開いちゃう、と心の中で呟きながら東雲は周囲へ視線を走らせる。
なるべく怯えているように見えるよう、おどおどとした素振りで、そろそろとした足取りで。すると何処かで葉擦れの音に紛れるように自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
馬鹿がいるな、と思いながらも東雲は真っ直ぐ声がしたほうへ進んでいく。どんな相手なのか、何人なのか分からないが、一人と分かっていても攻撃してこないところを見るとなるべく争いたくないタイプの人たちなのかもしれない。
いままでもずっと隠れてやり過ごしていたのかもしれないが、そんなことではこの場では生き残れない。
東雲は躊躇いがちな足取りのまま、声がした辺りまでたどり着くことが出来た。誰も出て来ず、どこからも攻撃はされていない。
誰かいるのかと声を上げしばし、人の気配が揺らぎ、少ししてから「動くな」と強張った冷たい声が東雲へと投げ掛けられた。現れたのは銃を手にした高尾だ。
真っ直ぐこちらへ銃口を向ける姿に舌打ちを飲み込み、腹の底で毒づきながら後退る。
高尾が自分のことを好いていないことは知っている。出会うのならば自分に少しでも好意的な人間が良かった、と思ったが、ここに高尾がいるということは傍に茉柴と緑間がいる可能性は高い。この三人は大体セットでいるのだ。
そばに茉柴がいれば上手くいく。茉柴とは仲良くしていたし、自分にとても好意的だ。
銃をポケットにしまい込み、両手をあげながらもたもた喋る。高尾の警戒を解くことは無理だとしても、この場に茉柴を引き摺り出せれば十分。
そしてそれは成功した。
「や、東雲」
「ま、茉柴くん」
その茉柴の後ろにじっとりと睨みつけるように緑間が立っている。やはり三人でいたようだ。
「ひとり?」
「あ、うん、あの、逸れちゃって……」
「逸れた?」
「うん、さっきまでテツヤくんたちと一緒だったんだけど……。あの、テツヤくんと火神くん見てない、よね」
「見てないなぁ」
「そっか……」
ありがとうと礼を言い小さく笑うと、東雲は「じゃあ僕行くね」と三人に背を向けた。無防備なその背に茉柴は同じように人探しをしていた黄瀬を思い出し、高尾と緑間は安堵の溜息を吐いた。
三人は油断していた。
だから少し歩いたところで東雲が立ち止まり振り返っても、警戒するのが遅れてしまったのだ。どうしたのかと首を傾げる茉柴に「忘れもの」と東雲が笑った時には、もうその手には銃が握られていた。
一発でも当たればいいと東雲は躊躇わずに引き金を引く。
三人全員を殺すのは無理だと分かっている。しかし少しでも怪我をさせられれば勝機は増すだろう。
深追いはしないし、欲もかかない。だから東雲は高尾が銃を構えるのを見るや否や、彼らから逃げるように走り出した。
ひとりとひとりの息遣い
2022.08.12