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東雲はなんとか農協のマークが描かれた建物に辿り着くことが出来た。二階建てで結構大きな建物で、一階部分の三分の二ほどが店舗になっているようだ。
硝子の扉を押し開けそうっと中に入っていく。どれくらい放置されているのかは分からないが、置かれっぱなしの商品のほんとは傷んでいるのだろう、酷い臭いがあちこちから漂ってくる。
店内を歩き回ってみるけれど人影はなく、レトルトや缶詰のコーナーも物が減っている形跡がない。もしかすると、まだ誰も来ていないのかもしれない。
銀行や保険窓口のエリアにも回ってみたが誰もいない。そのまま窓口の奥へ進んでいくと従業員以外立ち入り禁止と書かれた金属扉を見つけた。鍵は開いており、扉を押し開けると階段が見える。二階部分は事務所や会議室にでもなっているのだろうか。
どこで待つのが一番いいのだろう。誰かが入って来たらすぐ動けるようにしていたい。二階から外を見下ろせるだろうけど、もし上への出入口がこの扉ひとつだったら危ないだろう。
どうすべきか、と開け放ったままの扉に寄りかかりながら考えていると、コツリと床を叩く硬い音が聞こえた。明らかに人工的なその音に東雲は息を飲み扉から離れる。
人がいたのだ。どこかに隠れていたのだろうか、ああ失敗した、もっとよくよく確認すべきだった。
東雲は舌打ちしたい気分のまま身を屈め音の方を見つめる。銃を構えるか否か迷っていると、音の正体が声をあげた。

「……君?」

商品棚の隙間からそろりと覗いた顔は、クラスの女子内でも一番ヒエラルキーの高いグループに属している広川綾(女子十五番)だった。

「広川さん……」

強張った顔をしていた広川は東雲に呼ばれ安堵したように笑みを浮かべ、棚の向こうからこちらへと駆けてくる。その右手に握られた拳銃に、一瞬東雲は眉を寄せた。
誰かと思った、と東雲も笑みを浮かべながら言い、自身の銃をさり気なくベルトへ差し込む。

君、怪我したの?」
「え?あ、これ……」

広川の指す場所を見れば、制服の袖に点々と血の跡がついていた。佐野雄大の頬をアイスピックで突き刺した時にでもついてしまったのだろう。
うっかり見落としていた、と内心で舌打ちしながら東雲は眉を下げ、なるべく悲しそうに見えるよう俯いた。

「これ、僕のじゃないんだ。多分、佐野くんの……」
「え、佐野のって」
「僕、ここに来るまで佐野くんと一緒に居たんだけど、途中で小嶋くんに会って、それで……」
「もしかしてさっきの音って」
「……うん」

薄い涙の膜が、今にも破れてしまいそうにゆらゆらしている。
いつも楽しそうに笑っていたり、優しく微笑んでいるような人の悲し気な表情に広川はきゅっと胸が痛むような心地がした。同時に、クラスでも人気の男の子の、きっと誰も見たことのない弱った姿を今自分だけが見ているのだということに優越感じみたものも湧いてくる。
言葉を詰まらせ俯く東雲の手を、広川は衝動的に握り締めた。少し冷えた手は自分よりも大きく、また胸がきゅうっと痛む。

「ね、君、良かったらだけど、うちらと一緒にいない?」
「えっ」
「上にあかねたちもいるんだけど、少し休んでくだけでもどう?」
「……いいの?」
君ならみんな絶対オッケーするから大丈夫!」
「じゃあ、みんなが良いっていってくれたらお邪魔しようかな」

ありがとう、とまだ涙で潤んだ瞳で東雲は微笑む。広川も笑みを返して、まだ握りしめたままの手を引き、従業員立ち入り禁止と書かれた金属扉をくぐって二階へと向かって行った。


X X X


黒子テツヤの腕にようやく見つけたガーゼをあてて包帯を巻き付けながら、火神大我は先程の黒子の言葉を思い返していた。
―――自分の大切なものは絶対に守ろうとする人間です。君はそれを、知っていたんじゃないんですか。
ああ、知っているとも。ずっと二人を近くから見ていたのだ。東雲がどういった人間なのか、黒子の言う通り大体分かっている。
東雲は自分が大事だと思ったものはどこまでもずうっと大切にし、傷一つ付かないように細心の注意を払っている。
物ならばこまめに手入れや修繕をして綺麗なままを保てるようにしているし、人ならば相手への愛情表現を決して惜しまない。一度“大切なもの”の枠に入ったものは、よほどのことがない限り枠の中に居続けるのだ。
けれど、と火神は思う。そもそも、その“枠”は極々小さなものなのではないか。枠の中の大切なものは極少数のものなのではないか。そのひどく狭い枠の中に入ったものだけを愛で、それ以外は簡単に切り捨てる。東雲は、そういう人間なのではないか。
それこそ赤司征十郎と一緒だ。あの男も自分と双子の兄以外には全く関心を示していない。

「(それをこいつは分かっているんだろうか)」

あの酷薄そうな冷え冷えとした眼差し。自分の世界にいるもの以外は塵以下だとでも言いたげではないか。実際そう思っているのかどうかを断言できるほど火神は東雲を知らない。
けれどこれだけは言える。
確かに火神はクラス内では東雲の一番の友人と言っていいほど彼と親しくしているが、その狭い“枠”の中に火神は入っていない。黒子はそこを勘違いしているのだ。

「紫原君……?」

居心地の悪い静けさを黒子の声が不意に破る。発された同級生の名前に火神は顔をあげ、黒子の見ている窓の外を同じように見やった。
黒子の言う通り、診療所の東側に広がる林の中を紫原敦が歩いていく。誰かの手を引いて、時折気遣うように振り返っては何かを離しているようだった。似たような光景を学校で何度も見たことがある、と思っていれば案の定、手を引かれ歩いているのは紫原の幼馴染だという鶴賀水緒だ。
あの二人は大抵いつも一緒にいた。親と小さな子供のように紫原は鶴賀の世話を焼き、鶴賀はふわふわ笑いながらそれを受けいれている。こんな状況になってもそれは変わらないのだろう。いや、こんな状況だからこそ、なのかもしれない。
北へと向かって行く二人の背を見送ってから、火神は包帯やガーゼを仕舞った小さな救急箱をデイパックの中へ入れた。

「持っていくんですか」
「ああ。東雲も怪我してるかもしれないだろ」
「……そうですね」
「……悪かったな」
「え?」
「東雲、後回しにして。あいつの方に行ったの、多分佐野だったからなんとなく大丈夫だと思ったんだよ」
「ああ、いえ……僕も言い過ぎました。すいません」

互いに謝罪したことで、軋んでいた空気が僅かに緩和する。思い出したように手当の礼を言う黒子へ首を振り、火神は人知れず溜息を吐いた。
黒子へひとつ、嘘を吐いてしまった。佐野だったから大丈夫だと言ったのは、恐らく黒子が思ったような、佐野が丸腰の相手を傷付けることを甚く躊躇うような男だからというわけではない。佐野のような親切心に満ちた心根の優しい人間に、東雲が成す術もなく殺されるわけがないと思っているからだ。
黒子は気付いていないかもしれないが、小嶋義行のものではない発砲音が何度かしていた。火神はそれが佐野ではなく東雲によるものだとどこかで確信しているのだ。

「どこから探す」
「とりあえず農協に行きましょう。行く予定でしたし、もしかしたら先にそこで待ってるかもしれません。下手に歩いて学校の区域に入ったら危ないのでこのまま南下してこの住宅地を通って行きましょう」
「住宅地に入んのか?さっきも誰かが撃ってたし、そばを通るぐらにした方がいいんじゃねーの」
「じゃあ中には入らないで横を通っていきましょう。そばだとうっかり片足がエリアにはいるかもしれません」
「……分かった」

デイパックを背負い、サブマシンガンを担いで診察室を出ていく黒子の足はもう震えていない。
その後を追いながら火神はもう一度溜息を吐いた。


X X X


井戸の家から神社へは真っ直ぐ北上すれば着くはずである。遠くで誰かが撃ちあっている音を聞きながら黄瀬涼太は井戸の家を後にし、方位磁針の指す通り北へ歩いて行った。
神社へ行くのは初詣の時くらいだ、と思いながら木々の間を縫い進んでいく。この辺りは木が密集し、もうすっかり日が昇っているというのに薄暗い。
先程の井戸を覗いたときに妙なスイッチでも入ってしまったのか、この暗さも静けさも何かもが恐ろしく思えて仕方がない。何の音もしないけれど、何かが自分の背後をぴったりとくっついて来ているように思えて気味が悪い。
何度振り返り、周りを見ても人影らしきものも、生き物の影らしきものもない。けれど恐怖感は一向に治まらなかった。こういう時は何か別のことを考えるのがいいのだろうけれど、こういう時に限って何も考えられないのだ。別のことを、と思えば思うほど嫌な想像ばかりしてしまう。
早く明るいところに行こう、と黄瀬は歩く速度をあげ林の中を進んだ。
その時、近くでがさりと音がした。情けなく引き攣った声を上げながら黄瀬は足を止め、辺りを見回すが視界に入るのは木ばかりだ。
でも今の音は風が立てるような音ではなく人によるものだ。靴で草を掻き分けたような、枯れたものを踏んだような。
いや、でももしかしたら人ではなくこの辺りで暮らす野生動物かもしれない。いるかどうかわからないが、これだけ自然に溢れていたら動物の一匹や二匹、いてもおかしくはないだろう。
黄瀬はじっとそこに留まって何かが出て来ないか見回していたが、人影も動物の姿も見えず音も聞こえてこなかった。気のせいだったのだろうか。神経が過敏になっている自覚はあるから、そのせいかもしれない。
黄瀬ははあ、と深く息を吐くと再び歩き出した。そして数分も歩かぬ内に木々の群れの終わりが見え始め、神社の鳥居が姿を現す。

「やった」

今度は迷わず辿りつけたこととやっと明るい場所に出たことに気分が浮上する。意気揚々と石段を駆け上り、そして、

「え、ぁ、君……?」

拝殿の脇に広がる林の前にずっと捜し求めていた背中を見つけた。出会えた喜びに黄瀬の顔に笑みが広がっていく。

「やっと見つけた!」

だが黄瀬のその嬉しそうな声に振り返った十江の頬は涙で濡れ、その右手には銃が握られている。
そして気付く。
十江の足元には同級生が一人、倒れていた。

遠浅のクレバス

2022.07.07