農協から南西へ進んだ先にある山を避けて歩き辿り着いたのは綺麗な砂浜であった。
ゴミひとつない海と砂浜に寺山は小さく歓声をあげて近づいていく。日光を反射して海が眩いほどに煌めき、ブレザーを羽織っていない寺山には少し寒く感じるほど涼しい風が吹いている。
さらさらとした砂に足を取られながらも寺山は波打ち際まで歩いて行った。ゆったりと寄せては返す波に触れてみれば、まだ五月なこともあってかひやりと冷たい。
桃井さつきと一緒に、夏休みにこういう綺麗な砂浜のあるところに遊びに行きたい。去年はキャンプに行けたが海にはいけなかったから。海に行った帰りにそのままどちらかの家に泊まって、夜通し色々な話をするのだ。
ぼんやりとそんなことを考えながら煌めく海を眺めていると、遥か彼方まで続く水平線上に点々と存在する黒い物を見つけた。あれがきっと、男の言っていた監視の船なのだろう。僅かに浮上していた気持ちがどんどんと沈んでいく。
もう桃井とどこかに遊びに行けることはない。キャンプにも、海水浴にも、お泊りも、もう何も出来ない。どうしてここから出られるのは一人だけなのだろう。どうして自分たちのクラスが選ばれてしまったのだ。
本当なら今頃、桃井と笑い合いながら修学旅行を満喫しているはずだったのに。
「(こんな国、さっさと滅んでしまえばいい)」
目隠しの何もない場所にこんな長時間いるべきではない。
寺山は海に背を向けると重たい足を引きずるようにまた林の中へと戻って行った。海が僅かに見える距離まで離れ、木に靠れ水を飲む。
次はどこに向かおう。桃井が行きそうな場所はどこだろう。考えようとする端から思考は霧散して、考えは纏まらない。ほとんど休憩を挟まずに動き続けているせいで、眠気と疲労が身体をどんどん鉛へと変えていく。
今座ってしまったら、きっともう立てない。
寺山は必要がない限り屋内から出ることがない根っからのインドアなタイプだった。こんな風に長時間外を歩き回るなんてことは学校行事以外ではほとんどになく、桃井と遊ぶときもどこかに出かけることよりも互いの家で話に花を咲かせていることの方が多い。
元々体力もない寺山がここまで大した休憩もせずに活動し続けていられるのは、他でもない桃井を探すという何よりも大切な目的があったからだ。
あの時、安藤千恵に声をかけられた時、一緒に行かず断っていればこんなに不安に思うこともなく桃井といられたのに。けれど安藤と一緒に行かなければ、銃も何も手にすることはきっとできなかった。
もう一口だけ水を飲み、寺山は凭れていた身体を起こした。
動きたくないけれど、それでも桃井は探さなければ。誰かに傷付けられてしまう前に何としてでも見つけなければいけない。
「(私が守らないと)」
散弾銃の肩紐をきつく握りしめ、寺山は再び林の中を歩き出した。
X X X
診療所の奥にある診察室に置かれたベッドは少々硬く、寝心地が良いとは到底言えない代物であったがあの柔らかすぎるソファよりはマシに思えた。
診療所内を物色し終えた赤司征十郎はブレザーを脱いでベッドに上がり、枕元に銃を置いてゆっくり息を吐く。人家ではないせいか、それとも疲れていたからか、ベッドに横になって間もなく赤司は眠りに落ちていった。
数度、遠いところで何かの音を聞いた気がした。小さな、風船が破裂したような音だ。何の音だろう、と思っている内にまた意識は揺蕩い、夢とも現実ともつかないところを漂う。
その中で赤司は愛する兄と戯れ、笑いあっていた。もう今は随分と遠くなったと感じてしまう、慣れ親しんだ心地の良いものがそこにある。赤司の話を聞いて兄はくすくす笑ったり拗ねたりしてみせ、兄の話に赤司は頭を抱えたり怒ってみせたりしていた。
穏やかで幸せな夢は、すぐ近くで何かが落ちる音が聞こえるまで続いていた。
音にパッと目を開けて見えた覚えのない天井に一瞬身が強張る。瓶が並んだ棚、パイプ椅子、古そうなデスク。どれも見覚えがなく一瞬ここがどこだか分からなくなったが、すぐにここが診療所であったと思い出し赤司はゆっくり息を吐いた。
自分の上に掛けていたブレザーが床に落ちている。この音で目が覚めたのだろう。
ブレザーを拾い上げながら腕時計を見れば、針は十時半過ぎを示していた。
「えっ」
十時半。確か自分がここに来たのは八時を少し過ぎた頃だったはずなのに、と思わず時計を二度確認してしまう。一時間だけ眠るつもりでいたのに、二時間半近く眠っていたのか。
はあっと深く息を吐いて、ばたりと再びベッドに倒れ込む。
もしかして、あの夢現で聞いた風船が割れるような音は発砲音だったのではないだろうか。そんな音が聞こえる中で、こんな状況下でよく暢気に寝ていたものだ、と自分自身に少し呆れてしまった。
ここに人が来ていたら確実に死んでいた気がする。誰も来なくて本当に良かった。
勢いをつけて身体を起こし軽くストレッチをしてから赤司はてブレザーを羽織る。生越空腹を感じ間食に何か食べようか迷ったが、とりあえずまだ食べないでおこうと水だけを飲みデイパックを背負った。
この二時間でどれだけ減っただろう。あと放送まであと一時間半、それまでにどこに行こうか。
赤司はデイパックから引っ張り出した地図を眺めてから、迷って止めた農協にまず行くことを決めた。そこから倉庫のある家を回って、その後はまた人のいそうなところをぐるぐる回ってみればいい。それほど大きくはない島だ、歩いていれば誰かに出会うだろう。
枕もとの銃を手に取り、赤司は診療所を後にした。
X X X
どこか重苦しい空気が漂っているのを感じながら、桃井は青峰大輝の背を追い林の中を歩いていた。
前を真っ直ぐ見つめる青峰の顔は冷たく強張ったままだ。険しく張り詰めたその表情をどうにか和らげたくても、桃井には掛ける言葉も分からずどうする術もない。
今、寺山はどうしているだろうか。まだどこかで生きて、自分を探してくれているのだろうか、それとも。
それとも、動くことが出来ずにいたら、もし、もう目を開けなくなっていたら。
何度目か分からぬその考えがぐるぐると桃井の頭の中を回り、落ち着きをどんどん奪っていく。瀧川の青白い顔が寺山のものになるイメージがどうしたって拭えないのだ。
涙が出てしまいそうになるのを必死に堪え、嫌な想像を振り払って青峰を追い駆けていると、低い声で待てと言いながら青峰が立ち止った。
何かの音を聞いたのか、じっと押し黙ったまま辺りを窺っている。桃井も同じように木々に隙間に目を凝らすように見回していると、風に危機が揺れる音とともに何かが聞こえた。
草の根をかき分け、ゆっくりと進んでくる音がする。
ふっと青峰は短く息を吐き、灰崎から瀧川へ、そして瀧川から青峰の手へと渡ったブローニング・ハイパワーを握りしめた。
音は近づいてくる。何かを引き摺っているように妙に間延びした音は不気味で、桃井は上着のポケットに入れていた手榴弾をそっと掴んだ。躊躇わずに使わなければ、そう暗示でも掛けるように自分に何度も言い聞かせ、息を詰める。
音はもうすぐ近くまで迫っている。木々の隙間からちらちらと自分たちと同じ制服の白いジャケットが見えた。そして長い黒髪まで見え、桃井は息を飲んだ。
「ちゃんっ」
桃井が捜し求め、安否を心配し、ひたすら無事を祈っていた、寺山がそこにいた。
突然響いた声に驚く青峰など視界にすら入っていないのか、桃井は真っ直ぐ寺山のもとへ走っていく。そのまま、まだ状況の飲み込めていない様子の寺山にぎゅうっと抱き着くと「さつきちゃん……?」と確かめるような声がし、何度も頷くと同じように強く抱きしめ返された。
「よか、良かった、また会えた」
涙が止まらず、嗚咽に途切れながらも互いに生存を確かめ合い、心から喜び合った。
「ちゃん、髪濡れてる。どうしたの?」
「ん、色々あって……」
その色々の話を大まかにしようとしたとき、近くの木からほとんど音もなくぬうっと人影が現れ、寺山は咄嗟に桃井を背に庇って散弾銃を構えた。
「ちゃん大丈夫、大ちゃんだよ」
「あ、ああ……びっくりした……」
なんて心臓に悪い男だ、と文句のひとつでも言ってやろうかと青峰を見上げた寺山はその顔に言葉を飲み込んだ。薄暗くどこか澱んだ輝きを持つ目に温度のない表情は、いつも見ていた揶揄うような笑みやとぼけた表情とは程遠い。
さ、と寺山は辺りを見回した。
青峰は桃井の幼馴染だ。そして二人にはもう一人幼馴染がいたはずで、この二人が一緒に行動していたならそのもう一人がいてもおかしくない。むしろ、青峰はその幼馴染と行動していると思っていたから寺山は桃井がどうか青峰たちと出会えていますようにと願いさえしていたのだ。
しかし、待てども青峰以外にはもう誰も出て来ない。
もしかして、と寺山はもう一度青峰を見上げた。もしかしたら、もうその幼馴染はいないのかもしれない。青峰のこの異様な様子、そして振り返り見た桃井が悲し気に顔を歪めて小さく首を振ったことに確信した。
二人の幼馴染の瀧川聖司は確かに二人といたのだろう。けれど死んでしまった。いや、殺されたのだろう、これはそういうものだから。
寺山は、どこまでも人が良い馬鹿で真っ直ぐな、悪徳商法のカモにされてしまいそうな男の顔を思い出し、少しだけ胸が痛んだ。
「おい、もういいだろ。移動するぞ。ここは見え過ぎる」
「行先は」
「決まってねぇ」
「なら山の方にして。見晴らしが良くて座ってれば下から見えないところがあったの。少し休みたい」
不安げな顔をする桃井の手を握り、寺山は大丈夫だというように笑いかけた。柔らかく温かな手が今自分の手の中にある。そう思えば、何としてでも守り抜かなければという思いが湧き上がってきた。
そうだ、桃井を守るのは自分なのだ。
「ここよ」
北東の方に少し歩いた先にある、島の南部にある山を途中まで登った場所で寺山は足を止めた。木々が生い茂っているため、見晴らしは良いが座ってしまえば草木に紛れ下からは見つけにくい。青峰は険しい顔つきのまま眼下を見下ろしていた。
その背を気にしながら桃井は寺山と共に木の根元に腰を下ろし、今までのことを静かに話し始めた。それに耳を傾け、寺山も自分の話をし始めた頃、放送を知らせる音が島中に響き渡った。
時計を見れば針は十二時を示している。定時放送の時間だ。
どうしようもないことを手探りで引き寄せる
2022.08.03