06

校舎を回り北へ走っていく背を追いかけながら、黄瀬涼太はもう一度十江の名を呼んだ。聞こえたのか、はっと足を止めた十江が振り返る。

「黄瀬君……?」

振り返った十江の顔は真っ青なで、可哀想な程に震えた声は掠れていた。
なんとか安心させたくて、黄瀬は出来るだけ優し気に見える笑みを浮かべて十江へ近付く。その笑みに安心したように、弱々しいながらも黄瀬へ笑みを返そうとしていた彼の顔がふいに凍り付いた。
ぐらぐらと不安に揺れる瞳は真っ直ぐ、黄瀬の握る凶器へと向けられている。恐怖、疑心、拒絶、混じり合ったそれらに唇を戦慄かせ、十江は一歩後退った。
十江も学校を出る前にあの銃声を聞いていたのだ。誰かがもうすでにこの恐ろしいプログラムに則った行動を開始していることを知っていた。

「あ、ち、違うんスよ、これは、」

十江の目線の先にさっと顔色を変えた黄瀬に、十江は逃げるように背を向け再び駆け出した。真っ暗な雑木林の中へ一直線に飛び込んで、木々にぶつかっても殺されたくない一心で止まらずに走っていく。

君、待って、君!」

誤解を解きたくて、そして彼と一緒に居たくて、黄瀬は逃げるその背を追い駆けた。十江を殺すつもりなんて全くない、むしろの真逆なのだと、守りたいのだということを何としてでも伝えたい。
しかし十江からすれば、自分を殺そうと追いかけてきているようにしか感じられないだろう。ピッケルを握り自分の名を呼び追いかけてくる黄瀬は、ただただ恐怖の対象でしかない。
もう一度十江の名を黄瀬が呼んだ時、先程も聞いたあの鋭い銃声がまた響いた。
一瞬足を止めてしまった黄瀬とは反対に、まるで聞こえていないように十江は走っていく。そしてあっという間に木々と暗闇に紛れ、見えなくなってしまった。
ああ最悪だ、どうしよう。
くそ、と吐き捨てそのまま力尽きたようにしゃがみ込み、奥歯を噛み締めた黄瀬の耳に小さな悲鳴が聞こえた。
誰かいる。
反射的に立ち上がり、音から距離を取るように後退った黄瀬の前に現れたのは、クラス内でもよく黄瀬へ声を掛けてくる早瀬紗恵(女子十四番)だった。

「あ、き、黄瀬君……っ」

早瀬の目には涙が浮かび、綺麗に塗られていたマスカラが滲んで目の周りがかすかに黒ずんでしまっている。華奢で小さな体には重たげなデイパックを地面へ落とし、早瀬はぽとりと一粒涙を落した。

「黄瀬君でよかった」

黄瀬の目が不安定に揺れ動いていることになど気付きもせず、怖かったと言いながら早瀬は黄瀬に近寄ってくる。薄ピンクのマニキュアに彩られた指が黄瀬の腕に触れ、そっとその身が寄せられた。
震える華奢な肩をぼうっとした顔で見下ろしていた黄瀬は、早瀬の小さな右手に何かが握られているのを見た。薄暗い中でもはっきりと分かるほど真っ黒で、直線的な形状。不気味な艶が浮かんでいるのを見て取れた時、黄瀬は気付いた。
拳銃だ。
脳裏に二発の鋭い銃声が浮かんだ頃には、黄瀬は早瀬を突き飛ばし右手を振り上げていた。
その時彼は何も考えていなかった。ただただ殺されるかもしれないという、十江も強く感じていた純粋な恐怖に支配されていたのだ。


X X X


黒子テツヤたちは校舎右手、西側の雑木林の先にある小高い丘の斜面を下り一旦立ち止まった。
東雲の持つ地図を黒子が懐中電灯で照らしながら覗き込む。辺りを警戒するように見まわしていた火神が、低く抑えた声でどっちに進むんだと黒子たちの後ろから地図を見た。

「ええと、今この辺りだから……このまま北上してこの“倉庫のある家”の場所へ向かいましょう。もしかしたら少し休めるかもしれません」

黒子は少し疲れた様子の東雲をちらりと見て、地図上ではここから真っ直ぐ北の方に位置する場所にある『倉庫のある家』と書かれた部分を指した。その倉庫のそばに“ブロック塀の家”という文字と共に堅牢そうな家の絵が描かれている。

「北に進めばいいんだな?」
「そうです。……、大丈夫ですか?」
「あ、うん、大丈夫」

銃を撃ったであろう人間から少しでも遠ざかる為に駆け足で進んだため、東雲の額には薄く汗が滲んでいる。しかし顔の血色はあまり良くなく、不安と恐怖に苛まれているように黒子には見えた。

「それ、持つか?」

東雲の白い顔を心配げにのぞく黒子を眺めていた火神が、背負われたデイパックを指差す。
東雲は一瞬きょとんと目を丸め、それから慌てたように首を振った。相手が手ぶらだったならまだしも、同じ重さのバッグを火神は背負っている。いくら自分より筋力と体力が勝っていようが、申し訳なさは勝る上にいつ何時離れ離れになってしまうか分からない今、自身の荷物を誰かに預けてしまいたくなかった。
しかしただ遠慮しているだけだと思われたのだろう、遠慮するなと言いながら、火神は東雲の背から半ば強引にデイパックを剥ぎ取って担いでしまった。

「あ、えと、ごめんね火神くん……ありがとう」
「おう、気にすんな」

返してくれとも言えず、東雲は少し困ったように眉を下げたまま笑んで礼を告げた。困っている時はお互い様だろ、と返して笑った火神は東雲のデイパックを軽々と背負い再び歩き出す。
真っ直ぐ伸びた力強い背中をぼんやりと見つめる東雲に手を差しのべ、黒子は微笑んだ。

「行きましょう。大丈夫ですよ、そんなに不安そうな顔をしなくても」

君のことは僕が守ります、と冷たい東雲の手を温めるように黒子は優しく握る。泣きそうに目を潤ませながら東雲は笑い、その手を握り返した。

「おい、おいてくぞ」
「……君はもう少し空気を、」

バンッとつい先程も聞いたような破裂音が黒子の言葉を遮った。
二度目の銃声だ。
誰かがまた引き金を引いた。緩やかになりつつあった空気が一瞬にして凍り張り詰める。音は遠いが油断などは到底出来ない。

「急ぎましょう」

黒子は東雲の手を引いて先導する火神の背を追いまた走る。
今の銃声は、一度目と同じ人物のものなのだろうか。黒子の脳裏に浮かぶのは、真黒な狼に追いかけられ貪られる子羊の群れだ。そしてその狼は感情の見えない赤い瞳をしている。
見たわけでもないのに、黒子は銃を撃ったのは赤司征十郎なのではないかと思っていた。赤司に支給された武器が銃とは限らないけれど、彼ならば何の躊躇いもなく、このプログラムをさっさと終わらせてしまいたいというだけで誰かを犠牲にするだろう。
ちらりと振り返り、黒子は東雲を見た。青褪めたままの顔は、いつもの楽しそうにふわふわ可愛らしく笑うものとは程遠い。
旅行のしおりを見ながら楽し気に笑い、あの城を見て、ここで写真撮って、と予定を立てていたのはたったの数時間前だというのに、黒子にはもう随分と昔のことのように思えた。


途中迷わないよう地図と方位磁針で確認しながら進んだ先に、その倉庫と家は見えてきた。
トタン屋根はところどころ錆びついてはいるが先ほどまでいた学校ほど古そうには見えない。窓ガラスも汚れてはいるもののどこも割れてはおらず、しっかりとしている。
少し離れて建つ家もまだ新しそうで、おそらくつい最近まで誰かが住んでいたのだろう。きっと、プログラムの開催地とされてしまい退去せざる得なくなったのだ。
倉庫の扉に錠の類はなく、三人は少しだけドアを開けて中の様子を窺った。電気の付いていない倉庫内は扉を閉めてしまうと真っ暗で何も見えず、誰かが潜んでいても分からないだろう。しばらく聞き耳を立てていたが何の物音も気配もしない。

「入ろうぜ」

懐中電灯で辺りを照らしてから火神は倉庫の中へ一歩踏み込んだ。少々埃っぽいが、休憩する分には気になるほどでもない。
元々はどこかの建築会社の資材置き場だったのか、広い倉庫内は段ボールや木材類などが様々な場所に乱雑に積み上げられていた。上部には壁際に沿うように通路のようなものがあり、奥がロフトのようになっているようだった。そこにもダンボール箱や鉄材のようなものが置かれているのが見える。
ひとまず上へのぼろうと三人で倉庫内を見て回ると、倉庫奥の端に梯子が見つかった。

「上、行ってみますか?」
「上なら誰が入って来ても見えるから、安心かもね」
「物避ければ結構スペースありそうだしな」
「とりあえず僕が上ってみますね」

錆び付いた梯子に手をかけ、踏み外さないように慎重に黒子は上へとのぼって行った。

どうして石ころに生まれなかったのか

2022.06.12