黄瀬涼太が再び立ち上がり再び十江を捜すことを決めたのは、また銃声が聞こえてからだ。
寺山たちの消えていった方角から聞こえたその音。銃を向けられた先が十江ではないことさけを祈りながら歩き回る。
一体自分がどこにいるのかはめちゃくちゃに走ってしまったせいで、よく分からない。
だからひとまずひたすら北へ歩き、何か目印になるようなものに見つけることにした。住宅地のある南の辺りと迷ったが住宅地の手前にある学校は随分前に禁止エリアになっており、下手に近寄ると危険だ。十江を見つける前に爆死だなんてとんでもない。
黄瀬は方位磁針とピッケルを握り締め、銃をどうするか迷ってからデイパックの中へと仕舞い込んだ。
もし銃を持っているところを十江に見られたら、もう何も言い訳出来ないと思ったのだ。十江がはじめに見たのはピッケル握る黄瀬の姿で、それが銃に代わっていたら誰かから奪い取ったのだと、きっと誰だって思うだろう。
やけに重く感じるデイパックを背負い、方位磁針を頼りにしばらく歩いていくと、林を抜けた。
「山……?」
目の前には山裾が広がっている。ということは、これは島北部に位置する展望台の設置された山ということなのだろう。
やっと現在地がわかった黄瀬はこれから先どこに進むか決めようと、ポケットから地図を引っ張り出した。
十江はどこにいるだろう。どこか建物の中にでも隠れているのだろうか。
優しくて臆病な、虫も殺せないような人だから、きっとどこかで震えているのだろう。そう思うと堪らなく苦しくなって、胸もぎゅうっと痛くなった。はやく会いたい。会って、その不安をなんとかしてあげたい。
黄瀬はここから西にある“井戸の家”と書かれたところを目指すと決め、早足で再び林の中へ入って行った。
空は明るくなり始めている。もう少しすれば林の中にも日が差し込み始めるだろう。もう懐中電灯はいらないかも知れないとスイッチに指をかけたとき、明かりの先が何かを照らし出した。
黒いソックスに、白い足。ローファー。乱れた短いスカート。
嫌な予感と共に汗が噴き出す。一歩近付いて懐中電灯で照らした先に、二人の女子生徒が倒れていた。白いブレザーは赤黒い血に染まって汚れている。
それに気が付いて、一気に血の気が引いていく。視界の端がちかちかちらちらぶれだして吐き気が込み上げてくる。また喉がごぼごぼ変な音を立てる前に、黄瀬は足早にそこを去った。
見開かれた虚ろな目に半開きの口から零れ出た血。どう見たって死人の顔だった。
見たものを忘れるように、こびり付いたものを引き剥がすように黙々と、半ば走るように歩き続ける。方位磁針を確認するとか、地図を見るだとか、その全てをどこかに飛ばして黄瀬はただ逃げるように進んだ。
そうしてまた突然開けた視界に、ようやく足を止めたのだ。眼前に広がるのは家ではなく海。井戸の家などとうに通りすぎて、西の海岸まで来てしまったのである。
「うわ……」
力が抜けてしまって黄瀬はその場にしゃがみ込んだ。
少しずつ薄くなる空の色と遠くに見える船らしきものをぼんやりと眺めていた黄瀬の耳に、「……黄瀬?」ひどく聞き慣れた懐かしい自分を呼ぶ声が届いた。
X X X
高尾和成達は、緑間真太郎と合流した南海岸からぐるりと時計回りに海沿いを移動していた。時折休憩を挟み銃声に息を潜めながら、三人はのんびりと、時には駆け足で進んでいく。
目的地は特にここと決めてはいなかったが、隠れやすそうな場所を探していた。木々が生い茂っているとか、少し高台になっているだとか。
「待って、誰かいる」
先頭を歩いていた高尾が、前方に人影を見つけて声をあげた。
高尾の視線の先にはしゃがみ込んでぼんやりと海を見ている人影がある。輝くような金色に、高尾の後ろから顔を覗かせていた茉柴があっと声を漏らした。
「……黄瀬?」
思いのほか大きく響いたその声は、どうやら前方にいた黄瀬にも届いたようだった。
びくりと揺れ、素早く立ち上がった黄瀬のブレザーは汚れている。それが土埃の汚れではないと高尾はすぐに気が付いた。茶色っぽく見えるけれど、あれは乾いた血だ。
「え、あ、茉柴っち……?」
黄瀬の方へ駆け寄ろうとする茉柴の腕を掴み、高尾は鋭い目で黄瀬を見つめていた。
こいつは既に人を殺している。足元に置かれたピッケルについた黒っぽい汚れも恐らく血液の類だ。手には方位磁針しか持っていないようだが、まだ何か持っているかもしれない。ベルトに拳銃やナイフを差し込んでいても上着を羽織れば見えない。そういうことだ。
今ああやって驚いたというように目を見開いた無防備な顔をしているけれど、“フリ”の可能性が高い。黄瀬は平気な顔で嘘を吐ける人種だ。演技が得意で、いくつもの“自分”というものを持っている。
それは高尾の嫌う東雲と同じ性質だ。あの男もいくつもの自分を使い分け人を弄んでいる。類は友を呼ぶとばかりに東雲と黄瀬はかなり仲が良く、だから高尾は黄瀬も好きではなかった。
「大丈夫だよ、カズ」
茉柴が軽く高尾の腕を叩いて笑う。茉柴は高尾とは反対に東雲と仲が良いし、黄瀬をちょっと色々難ありだけど良い奴だと評していた。
茉柴は基本的に人を嫌わない。どんな人間にも良いところと悪いところがあるのだから、悪いところばかりに目を向けて遠ざけてしまうのは勿体ない。いつだったか、何かの折に茉柴は高尾にそう言ったことがあった。だからなるべく人の良いところを探すし、目を向けるようにしているのだ、と。
高尾は茉柴のそういうところも大変好ましく思っていたが、この状況下ではその性善説がベースになっているような考えは危ういように感じていた。
だから高尾は絶対に茉柴の腕を離さず黄瀬へ近寄ることを許さなかったし、何が起きても守れるよう自分の背後へ回らせた。緑間もそう思っているのだろう、黙ってやり取りを見ていたが、背後へ回された茉柴が前に出て来ないよう肩を掴んでいる。
「あ~、えっと」
ぼんやりと三人を見ていた黄瀬が、少し困ったように眉を下げながらデイパックを背負いなおす。それにピクリと緑間が反応するのを横目に高尾はなに、と警戒に尖った声で答えた。
「すぐ行くから、一個だけ聞きたいんスけど」
「なに」
「君、見かけなかったっスか?」
「って……十江?」
頷いた黄瀬の目は真剣で、ただ十江の身を案じているような色ばかりが窺える。「見てないけど」と言いながら高尾は、十江と黄瀬は仲が良かっただろうかと内心で首を傾げた。
X X X
高尾達に礼を言うと黄瀬はすぐにその場を離れ、林の中へと引き返した。
あれ以上彼らの傍にはいたくなかったのだ。高尾のあの鋭い眼差しは、まさしく敵を見る警戒した目だった。
まあそれもそうかもしれない。血でブレザーを汚して、同じく汚れたピッケルを持っているのだ。襲われなかっただけ良いのだろう。重く溜め息を吐いて足を引き摺るように黄瀬はのろのろと林の中を進み、行く予定だった井戸のある家へ向かった。
日が昇り始めたのか林の中が僅かに明るくなっていく。まだ薄暗いがもう懐中電灯は使わなくてもいいかもしれない。なら、仕舞ってしまった方がいいだろう。なるべく手ぶらでいた方が走りやすいし、何かあった時に対応しやすい。
草の上にデイパックを落とすように下ろし、中へ懐中電灯を仕舞うとそのまま座り込み木に寄り掛かる。なんだかすごく疲れてしまっていて、横になってゆっくり眠りたい気分だった。
十江は今どこにいるだろう。泣いていないだろうか。
十江のことを考えるとすぐに捜しにいかないとと思うのに、身体は極度の緊張と疲労で疲れ切っていた。捜しに行きたいけれど、今すぐゆっくり眠ってしまいたい気持ちもある。
「君……」
最後に見た怯えた顔を思い出して、黄瀬は先端の汚れたピッケルを見つめた。このピッケルを見たら、きっと十江はまた逃げてしまうだろう。デイパックの中には拳銃があるし、ここに捨てて行ってしまった方がいいだろうか。でも手放すのは少し怖い。拳銃だって弾が尽きればただの鉄塊だ、何の役にも立たない。
黄瀬はしばらく迷った末に、デイパックからピッケルのカバーを取り出した。先端の汚れを草に擦り付けるように手寧に落とし、カバーをかけてデイパックの奥深くへ入れる。それからまた少し迷って、拳銃を取り出した。
重たくなったデイパックを掴み拳銃を無造作に上着へ仕舞うと、黄瀬は木に片手をつきながらのろのろと立ち上がった。
身体が重たい。泥でも詰まっているみたいだ。
重たいデイパックを背負って一度深く息を吸うと、黄瀬はポケットから地図を引っ張り出し方位磁針を見つめた。
少しだけ北に行って、それから東に進めば井戸の家につく。それかいっそのこと神社に行ってしまった方がいいかもしれない。神社はここから北に進んだ先、海のすぐ傍にあるようだし、その神社から真っ直ぐ南下していけば井戸の家にぶつかる。
黄瀬は地図を再びポケットにしまうと、ようやく歩き出した。
吐く息すら濁る
2022.06.23