09

おそ松が突然働くと言いだし、それと同時に家を出ていってからもう三年だ。出ていったきり一度として帰ってくることのない長男だが、連絡は結構マメに来ているからか誰一人心配している様子はない。けれど俺は、あの日からずっと、もやもやとした不安と恐れを抱えている。
あいつは、もしかすると、なんて。


* * *


「ね、大和。今日は海に行こっか」

もう夏休みはあと数日しかない。俺と大和の、二人っきりの時間はもうすぐ終わってしまう。
それが寂しくて悲しいと思っているのは俺だけではないようで、大和は時々、浮かない顔をしていた。寂し気に目を伏せ、唇を引き結ぶあの、色んなものを飲み込み無くしてしまう顔だ。
今日も規則正しく、朝の七時に目を覚ました大和に起こされ、一緒に焼いたパンとスクランブルエッグにベーコンなんていう簡素な朝飯を食べながら、ふと気づいたのだ。
俺、大和とまだ海に行っていない。水族館に動物園、近場の遊園地にちょっと遠いテーマパークだとか、そういったとこにはあちこち行った。けど、約束していた海にはまだ行っていない。

「行く!」

パッと周りに花が飛び散って見えるような、嬉しさに目をきらきら輝かせて無邪気な笑顔を見せる。少しずつ花開くように、彼は俺の愛をゆっくりと飲み込み年相応な顔を見せだしていた。前ならば見せることなど無かったきらきらとした子供の笑顔を見せ、俺に甘えてくるのだ。
可愛い可愛い俺の天使、もう少しで俺のものになる、小さな天使。

「じゃ、飯食ったら準備して出よ」
「うん」

にこにこ笑顔の大和は、残りのパンをぱぱっと平らげるとぱたぱたと駆け足でダイニングを出ていく。にやにやしながらそんな姿を眺め、俺も準備しようと後を追いかけた。


電車で十分くらい、すぐ近くの海水浴場は夏休みということもあり結構な人で賑わっていた。はぐれないでね、と手を差し伸べると、一瞬躊躇った後にきゅっと握りしめてくれる。ああ、やっぱり本当に、この子は天使みたいだ。
仮設の簡易更衣室で水着に一緒に着替えながら舐めるように見ていたけれど、やっぱり日焼け跡ってどえろい。もともとそこまで焼けない性質なのか、そこまでくっきりと日に焼けた部分とそうじゃない部分の差があるわけではない。けれど元が真っ白な分、やっぱり濃い色になっている場所が目立つ。
海パンから伸びるすんなりとした脚だとか、尖ったくるぶしをじろじろ見てしまうのも仕方がない。何でこの子はこんなあちこちいやらしいんだろうか。性の匂いなんて全く感じさせないような清潔さがあるくせに、同じくらい人を惑わす色香を放っている気がする。
彼はどこか矛盾しているのだ。だからこそ、きっとあんなにきれいなんだ。

「あ、おそまつお兄さん、かき氷」

しばらく砂浜で遊んだり少しだけ泳いで競争して、水に濡れ煌く肢体を無防備に晒す大和の肩に大判のバスタオルをかけたところで、あ、と彼は小さく声をあげた。繁盛している海の家から少し離れた場所にあるかき氷とソフトクリームの屋台を見つけ、大和は目をきらりと光らせる。
大和はアイスよりもかき氷の方が好きなようで、コンビニにアイスを買いに行ってももっぱらかき氷系統ばかり選んでいた。

「んじゃ、ちょっと飯も食っちまうか、そろそろ昼だし」
「ん、あそこで食べるの?買ってどこかで食べる?」
「買ってここで食べよ、俺買ってくるからさ、大和はここで待ってて」

海の家からは少々遠い、人の少ない場所に敷いていたレジャーシートの上にタオルで包んだ大和を座らせると、置いていくの、とばかりに彼は眉を下げた。仔犬のようなその表情にきゅんと胸が鳴る。でもあの人だかりに大和を連れて行きたくはない。
すぐ戻るから少しだけいい子で待ってて、言えば、聞き分けのとても良い大和は頷くしかないのだ。白い頬に張り付いた髪を払い、海水でぺたんとした髪を少しかき混ぜるように撫でる。

大和、何食べたい?」
「なんでもいい、おそまつお兄さんが食べたいの、一緒に食べる」
大和~!もーほんっと可愛いねお前!じゃあ兄ちゃん急いで買ってくっから!」

名残惜しいけれど、ずっとここでもたもたしている訳にもいかない。さっさと買ってさっさと戻ろう、と賑わう海の家へと駆け足で向かった。


* * *


スカした野郎だとずっと思っていた。涼しい顔で何でも熟して見せて、孤高気取りで女子にきゃーきゃー言われて。にこりともしなければ、いつだって詰まらなさそうな顔に冷ややかな目をして、気に食わないとずっと思っていた。
だから目の前の光景が到底信じられず、俺たちはしばし、顔を見合わせ黙り込んだ。だってあの鉄面皮野郎が、にこにこ楽しげに笑っていたのだ。

「あれ、マジで工藤なわけ?」
「あの顔はそーだろ、弟とかいねぇはずだし」
「うっわマジかよ!やべーもん見ちゃったじゃん」

冷めきった顔しか知らなかった。いつだって人形みたいな無表情だったから、あんな子供みたいな顔で笑ったり、柔らかな笑顔を浮かべるような奴だなんて思っていなかった。
魔が差した、というのとは少し違う。
ただ近くで見てみたかったのだ。あのふわふわした、花みたいな顔を。


* * *


かき氷は溶けても困るしあとで買おうと飯だけ買って大和のいるところへ急いで戻れば、見知らぬ少年が三人、彼の前に立っていた。遠目で見ても分かるほど、大和の纏う空気は冷たい。
ぎゃんぎゃん喚きたてるように何かを言っている真ん中の男の話を聞いているのかいないのか、大和は一言も返事をせず詰まらなさげにどこかを見ていた。
物憂げに目を伏せ、他人を拒んでいるその顔は随分と久しぶりに見たような気がした。子供らしからぬその表情は美しい彼にここ最近よく見るのとはまた別の退廃的な色香を纏わせ、人の目を惹きつける。

大和~、お待たせぇ」

そこの空気には不似合いなほどの明るい声で言いながら駆け足で大和に近寄れば、三人組は警戒するように身を固め一歩足を引く。そうだ、そのままさっさとどこかへ消えてしまえ。
俺が戻ったことに安堵したのか、知らぬうちに大和は甘えたような顔になった。頑ななまでに引き結ばれていた唇が淡く解け、瞳が柔く綻ぶ、そのなんと甘美なことか。
袋を置いて大和の隣へと腰を下ろしながら少年らを見上げれば、驚いたように目を丸めて大和と俺とを見やっていた。

大和のお友達?」
「あ、俺は、」
「違う。ただの同学年」

袋の中から俺が買ってきたものをいそいそと取り出し並べながら、何の興味も無さそうな平坦な声でそう言う。その言葉にか声にか、目の前の子は傷ついたような顔をしてぐっと言葉を飲んだ。
大和はそんな彼らの様子などもう意識の外だとばかりに、俺に割り箸を渡しながら「かき氷はあとで?」と聞いてくる。可哀想に、相手にもされなかった三人は結局何も言わずにその場を去っていった。

「ありゃ、行っちゃった。何の用だったの?」
「……一緒に遊ぼうって。でも、俺、おそまつお兄さんと遊びに来てるし、他の人となんて遊びたくない」
「そっか~」

少しだけ不愉快そうにツン、と突き出された桃色の唇。邪魔された、といわんばかりのその態度に胸が苦しくなって仕方がない。人目など気にせず思い切り抱きしめてやりたくなる。

「でも断っちゃってよかったの?休み明けに何か言われたりしない?」
「多分何か言われだろうけど、別にどうでもいいし、それで父さんの仕事が無くなればあの学校辞める口実になる」
「え?なんでお父さんの仕事無くなんの?」
「俺が言うこと聞かなかったから。アレが親に言いつけてお願いすれば俺の親が痛い目見ることになるんだって」
「え、え~?何それ?ちょっとおかしくない?」
「おかしいとこだよ。あんなとこ、早く出たい」

憂鬱そうに翳った瞳を伏せ、小さな唇から溜息を吐く。折角さっきまでにこにこ無邪気に笑ってはしゃいでたのに、楽しい空気はあっという間に霧散してしまった。
可哀想な大和、嫌なことばかり体験して、寂しいのが当たり前で、楽しいことが起きたと思ったらあっという間に引き戻されてしまう。

「じゃあお兄さんが、連れだしてあげよっか」

自分を苦しめてばかりのところなんてさっさと捨ててしまえばいい。悲しいことばかり起きるところからはさっさと離れるに限るし、寂しい思いばかりさせるところになんているべきじゃない。
きょとんと丸められた瞳に映る俺は、随分と穏やかな顔をしていた。

「出来るよ、なんてったって俺、カリスマレジェンドだし」

にしし、と笑って鼻の下を擦る。大和は不安げな、けれど期待を隠し切れない顔で俺を見つめていた。

「俺と一緒に居よ?きっと楽しいよ、今までも楽しかったでしょ?俺ともっと、色んなことしてみようよ」

俺の傍には訳の分かんない物をたくさん作る天才博士だっているし、金はたんまりあるオトモダチだっている。
大和が望んで協力してさえくれれば、きっとなんとでもなるのだ。頷いて、俺の手を取ってくれさえすれば、俺は彼をどこへだって連れていける。

「少しだけ考えといてよ。ね?」

きっと彼は俺を選ぶ。そうに違いないと、そう俺は確信していた。
だって彼が一番必要としているのは俺だ。一番信頼しているのも、一番近くにいるのも俺で、甘える相手だって俺だけなんだ、俺しかいないのだ、この子には。
だから、

「あのね、おそまつお兄さん」

だから、そんな答え、想像もしていなかったのだ。
そんなもん、望んじゃいなかった。

心臓が焦げるにおいがする

rewrite:2022.03.24