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「ずっとおそまつお兄さんと一緒に居れたらすごく楽しいんだろうなって思う。でも俺、やっぱりここからは離れられないよ。どこにも行けない」

この世が儘ならないことばかりだと、自分のしたいことをしたいようにすることがどれだけ大変で難しいことなのか、随分と知っているような顔だった。子供がするような顔ではない。その達観し、諦念すら滲ませた瞳は硬質な気配を纏い、奥底に拒絶を浮かべていた。
まるで小さな子供に言い聞かせるような優しく穏やかな声がより一層俺の喉を絞め、沈めさせていく。
彼が何を言っているのかよく分からなかった。
そこに、俺の可愛い可愛い、無垢で、無邪気で、無知な天使はどこにもいなかった。

「俺、お兄さんのことだいすきだよ。お兄さんと家族だったらなって、よく思うくらいすき。でも俺はあの家を出ることは出来ない。俺がいなくなったらきっとあの人、……お母さんはおかしくなっちゃうんだ。ごめんね、おそまつお兄さん」

そこには、ごめんと笑ってざっくり俺を串刺しにしようとする、見知らぬ子供がいた。


* * *


カレンダーを見れば、もう八月も終わりだった。
この時期になると、決まって俺は四年前のことを思い出す。四年前の九月一日、おそ松兄さんが一度だけ家に連れてきたことのある美しい少年がいなくなった。今でもあの日のことはよくよく覚えている。
朝方、まだ俺たちが惰眠を貪っていた頃に一本の電話が掛かってきた。相手はあの少年の母親で、息子を知らないかという話からそれは始まったのだ。

彼が学校を欠席し寮にも戻っていないということがまず教師から親へと伝えられ、両親はそれはおかしいと思ったのだそうだ。
夏休み最終日、八月三十一日、父親が学校へ向かうバスの出る駅まで息子を送り届けているのだから。これは駅前のカメラに写っていたらしく、それは確かだということになった。駅内の待合室にあるカメラにも姿は映っていて、確かに彼はあの日、駅に居たのである。
しかし途中、まだバス乗車時間の前に荷物を持ってどこかへ消え、戻っては来なかった。ここまでならば、まだ彼が違う場所へ行ったのかもしれないという話になる。駅裏口にはカメラも付けられていないし、バス乗り場にもカメラはないから違うバスに乗ってどこかへ行ったのかもしれない、と。だが、彼の荷物が駅内のトイレの個室にぽつんと置き去りにされているのが発見されたのだ。
両親が真っ先に思ったのは誘拐だ。身代金の要求等はないものの、ただ事ではないと警察に連絡する傍ら、彼を知っている方々へと連絡を入れた。そして、彼がいなくなる前日まで一緒に過ごしていた人間がいる我が家にも当然、連絡がきたのだ。

事件から半年経っても有力な情報はなく、唯一の情報と言えば彼がトイレへと入る瞬間を見た男の「すぐ後に、随分大きなスーツケースを持ったスーツを着た男が入っていったのは見た」という証言くらいだ。駅内にいたとされる数人と駅員もその大きなスーツケースを持ったスーツを着た男を見ている。
しかしその男の行方も杳として知れず、彼の両親たちは憔悴していった。特に母親は精神的に参ってしまい、入退院を繰り返しているとも聞いた。
彼と一番親しくしていたおそ松兄さんも、彼がいなくなったことに加え警察からの度重なる事情聴取に参ってしまっていた。夏休み開始から行方不明になる前日までの約一か月を共に過ごしたのだ、重要参考人扱いをされるのも当然のことなのかもしれない。
しばらく塞ぎ込んでいたおそ松兄さんだが、一年経つ頃には時折前のように笑うようになっていた。

「今年もおそ松兄さん帰って来なかったね」

スマートフォンを片手に雑誌をめくりながら、トド松が言った。

「今年も戻れないって電話来てただろ」
「それはそうだけどさぁ……あんなに家大好き人間だったのに」

あの少年の行方が分からなくなって一年経った辺りで、突然おそ松兄さんは家を出ると言った。彼と遊んでいた頃から時折ハタ坊のところでバイトのようなことをしていたらしく、そのままそこに就職すると言うのだ。
そんなことを言ったかと思えば、すぐに「じゃあ元気で」というような軽さでおそ松兄さんは出て行った。あんなに働きたくない、ニート万歳とド底辺クズの鑑のようであった男が。すぐに帰ってくると思ったのに、おそ松兄さんは仕事を辞めることなく一人暮らしも止めることはなかった。
そうして今日までの三年の間、時々電話は掛かってくるがおそ松兄さんは一度として家に帰ってきたことはない。
何で帰って来ないのか一度だけ聞いたことがある。おそ松兄さんは少しの間黙り込んで、思い出したくないだけ、と静かな声で言った。何を、なんて聞けるわけがなかったのだ。真っ青な窶れた顔を思い出してしまえば、聞けるわけがない。
あの子がいなくなったと聞いてからのおそ松兄さんは、少しずつ死んでいくみたいにゆっくりと壊れていっていた。食事の量も少しずつ減って、寝る時間も減って、どこかへふらふらと出掛けていく。ぼんやりと虚ろな目をして、時々、あのレジャースポットの雑誌をぱらりぱらりと捲って、またふらふら出歩くのだ。
俺たちは、この人はこのまま死んでしまうのではないかと思った。
けれどおそ松兄さんは、ある日ふと元に戻り始めたのだ。間延びした声でおはようと言って、少しずつ食事の量も増え、夜も俺たちと一緒に眠るようになった。変な色をしていた顔色が元に戻って、目の下のクマも消えて、少しずつ笑うようになって。
トド松もチョロ松兄さんも、もしかしてもしかするんじゃないか、あのダメ人間を支えてくれるようなそんな、彼女なんていうものがもしかしてできたのでは、なんて大騒ぎしていたけれど、結局あの人がまた前みたいに元気にしているならいいか、なんて少しだけ安心したような顔をしていた。それくらい酷かったのだ、あの時期のおそ松兄さんは。

「……そのうち帰ってくんじゃないの、きっと」

いつになるか分からないけれど、平気になったらきっと、あの人はふらっと帰ってくるだろう。


* * *


我らが頼れる金持ちな友人に防音設備がしっかりしているところを一部屋貸してほしい、と言い用意してもらったオートロックのマンションの一室、そこが現在の松野おそ松の家だった。
今日もその友人、ハタ坊の伝手で入社した会社で働き、帰宅したおそ松は鼻歌交じりに鍵を開け薄暗い我が家へと入っていく。

「ただいま~」

部屋の奥へと聞こえるように少しばかり大きな声で言うが、返事は無い。静かな室内の電気を付けながら、適当にソファへ荷物を置き、帰り道で買ってきた夕飯だけを手にしておそ松は奥の寝室として使っている部屋へと向かった。
室内に使用するには些か不釣り合いなほどの鍵を開け、中に入ればまたすぐに鍵を掛ける。中も外も鍵穴しかないそれは、ハタ坊に頼み込んでわざわざ付けてもらったものだった。何に使うんだじょ?と尋ねる彼に、おそ松は心配なんだ、と一言だけ答えた。
カーテンの閉め切られた部屋の中は暗く、空気清浄機の稼働する音と小さな息遣いが聞こえるばかりで何も見えない。けれど勝手知ったる足取りで部屋の端まで歩き、かちんと紐を引けば間接照明の淡い光が室内を照らした。

大和~お兄ちゃん帰って来たよぉ」

明りで柔らかな橙色に染まるたっぷりのレース。それは部屋の中の大半を占めるほど大きな、天蓋のついたベッドだった。ハタ坊に頼み込み譲ってもらった、かつては別荘に置いてあった代物。あの子との思い出だと薄く笑ったおそ松に、痛ましげな顔をしてぜひ使ってほしいとハタ坊はすぐさま頷いたのだ。
レースのカーテンを開ければ、シーツと枕に埋もれるようにして一人の青年が眠っている。
傍に腰を下ろしたおそ松は至極愛おし気な顔をしてその艶やかな髪を梳き、滑らかな頬を撫でた。ん、と小さな声と共にふるりと煙る睫毛が震え、ゆるゆると瞼が持ち上がっていく。現れた煌く瞳は、どこか虚ろで硝子のような美しさがあった。

「おはよ、大和
「……おそまつおにーさん?」
「うん、ただいま」
「おかえりなさい」

とろりと笑んで猫のように伸びあがり、おそ松の緩く弧を描いていた唇に青年、大和は唇を重ねた。ちゅ、と小さく可愛らしい音を立てたそれにおそ松は満足そうに笑う。

「今日は何してたの?」
「ん、すこし本、読んで、おそまつおにーさんまってた」

聞く者に違和感を抱かせるほど幼く舌足らずな、小さな子供のような話し方で大和はぽつぽつと話をする。それでね、あれがね、とふわふわと笑い一生懸命話をする大和に優しく相槌を打ちながら、その手を引き窓際に置かれた小さなテーブルへと連れて行く。
おそ松が一脚しかない椅子へどっかりと腰掛けると、それが当たり前だとでもいうように大和はその膝の上へと納まった。横向きにその胸へしなだれかかる様に腰掛けた大和の背を緩く撫で、おそ松は夕飯をテーブルへと広げていく。

「どれから食べたい?」
「えーと、おやさい」

指差された、野菜がくたくたになるまで煮込まれたスープは彼のお気に入りで、買ってくると必ずこれから食べる。
おそ松はそわそわと体を揺らす大和に相好を崩しながら、スープを掬い、冷ましてからそうっとその薄く開かれた唇へと持って行った。それを躊躇いなく口にし、ん~!と満足げな声を上げる大和に、美味しい?と問いかけながらおそ松はその口元へ、せっせと食事を運ぶのだ。
それはある種異様な光景だった。間接照明の淡い光量しかない暗い部屋で、幼子のような仕草と話し方をする青年と、それを愛でる男。
けれどそれが、おそ松の日常であった。

「もうお腹いっぱい?」
「ん、ごちそうさまです」
「はーい、じゃあちょっと待ってね、俺も食べちゃうから」
「あ、あ、ぼくがするっ」

おそ松が箸に手を伸ばす前に傍に置かれていたフォークを手にし、彼が己にそうしていたように食事を口元へと運んでいく。少々覚束ない手つきで、それでも満面の笑みで、どーぞ、と言われおそ松は嬉しそうに笑った。それをぱくんと口に含みながら、ここに来た当初のことを思い出す。
この部屋に来たばかりの頃はあまり話をしてくれなかった。目も禄に合わせなかったし、こうして食事をすることすら出来なかった。
いつも怯えたような顔をして、触れずとも近付くだけで泣き叫んだあの子供はもういない。ここに来て一年経つ頃、ふと目を覚ました彼はおそ松を見上げ、小さく笑んだのだ。
花開くような、可憐で美しく、甘やかで、けれどどこかが壊れたような笑みだった。伽藍洞の眼をしていた。けれど“それ”は、紛れもなくおそ松の『可愛い小さな天使』であった。
悪魔は去り、天使が再び戻って来た、俺の元へ天使が戻って来たんだ!
おそ松は喜び、泣き、笑った。あの悪夢は終わったのだ。

大和、そろそろお風呂、入ろっか」

頬を薔薇色に染めた大和の手を再び引き、おそ松は鍵を開けて寝室を出て行った。


あの日、あの夏の日、工藤大和は松野おそ松を拒んだ。それは賢明な判断である。彼は松野おそ松の持つ昏い欲望を本能的に感じ取っていたのだ。共に行けば、この手を取れば引き摺り込まれ、戻っては来られない。
それはとても恐ろしく、また、松野おそ松に親愛以上の感情を持ち得ていなかった彼には男を選ぶことなど到底出来なかった。共に居たい、けれどそれ以上を望むのならば、拒む。その態度は、松野おそ松を地獄へと突き落とした。


下着も履かせず、薄いシャツ一枚だけを着せた大和を連れ、おそ松は寝室へと戻って来た。抱き上げられた彼はくったりとおそ松へ身を預け、蕩けた顔も相まってひどく濫りがわしい。
乱れたままのシーツへと下ろされた大和は、少しの恐怖を浮かべた瞳で目の前の男を見つめた。

大和、大好きだよ、愛してる」

淡い明りのもと、水気を帯びしっとりとしたその肌は遠い昔と変わらず、内から淡く光って見えるほど白い。薄いシャツ一枚の下には男が付けた愛執の証があちこちに刻まれ、今からもまた刻まれるのであろう。
大和はその虚ろに濁った瞳でぼんやりと男を見つめ、笑った。

「ぼくも、おそまつおにーさん、だいすき」


* * *


「なあ、おそ松」
「なあに?」
「俺は、あの『大きなスーツケースを持った男』は……お前なんじゃないかと、思っている」
「ええ?何の話?」
「なあ、あの子は生きてるのか」
「そんなの、俺が知りたいよ」

時々、ふと急に恐ろしくなる。けれど、俺の腕の中でくったりと横たわる彼を見れば、そんな不安は掻き消えた。
悲しいことや苦しいことばかりの場所から、やっと解放された彼は俺に思うままに甘え、頼ってくる。もうあんな、憂いを帯びた顔も、自分の感情を殺し全てを飲み込むような顔もしていない。いつだって無邪気に、無垢に、ふわふわと花が咲くように笑っている。
ぴ、とカラ松との通話を切って、ふう、と胸の内に澱んだ何かを吐き出すように息をついた。
大和は、俺の可愛い可愛い小さな天使は、今とても幸せそうにしている。それでもう十分だろう。
だから、これでいいのだ。

ここは奈落の花溜り

rewrite:2022.03.24 | 「いびつな春光」完結