ここのところ妙に機嫌が良いというか、浮ついている感じがするな、と思ってはいたし、トド松の雑誌を熱心に読んだりと妙な行動をしているのも度々目撃していた。そしていつも決まった曜日の決まった時間に家を出るのだ。毎週金曜日の午後四時過ぎ、ちょっと洒落た格好をして、ゴキゲンな足取りで。それから大体七時頃、夕飯時に帰ってくる。
バイトは絶対にあり得ない。あの全世界クズ代表みたいなのが進んで働くとは思えないし、万が一バイトだとしてもあんな浮かれた顔をするか?バイト先に好みの女の子がいたとか?それにしたってちょっと異様だ。
よもや彼女ではあるまいな、とひそひそ一松たちと話してみたけれど、何の情報も得られず。本人にも最近何かあったかいくら聞いてみてもにやにやと気持ちの悪い笑みしか返ってこない。
こうなったらもう後をつけるしかない、今週の金曜日に決行だ、必ずや証拠を掴み白日の下に晒すべし、裏切り者には死あるのみ!と五人の心を一つにしたところで、事態は急変した。
午後五時過ぎ、おそ松兄さんはいつものように居間でだらだらとしており、その向かいでカラ松はテレビの肉料理特集を夢中で見ていた。僕は明日のハロワへもっていくアジェンダの作成に勤しみ、一松はいつものように部屋の隅で猫と戯れている。まだ十四松とトド松は帰ってきておらず、居間にはこの四人だけがいた。
こちらに絡んでくるおそ松兄さんがいい加減鬱陶しくなってきたころ、リリリリ、と玄関の棚に置かれた電話が鳴った。
いつもならカラ松あたりに電話鳴ってるぞ、なんて言って真っ先に押し付けるおそ松兄さんが、パッと玄関の方を見る。それから、勢いよく立ち上がって、ばたばたと慌ただしく電話へと向かっていった。
突然のことに今の今まで肉に夢中になっていたカラ松がぽかんとした顔で開けっ放しの襖を見ている。一松も同じような顔をしていたし、きっと僕も、似たような顔をしていただろう。
「え、なに?」
「……さあ」
はい、松野です、というおそ松兄さんの声が聞こえてくる。僕らは顔を見合わせ、静かに頷くと開けっ放しの襖からこっそりと様子を伺った。
「は~い、おそ松ですよ、どしたの?何かあった?」
こちらに背を向けているから表情は見えないが、その顔がだらしなく緩みきって崩れていると分かるほど浮かれた声だ。僕らはまたもや顔を見合わせた。
それから相槌を打ち、時折笑うその声は吃驚するほど柔らかくて、一度も聞いたことがないような甘さを含んでいた。トト子ちゃんと話しているときよりももっとずっと優しくて、鈍いとよく言われているカラ松でも分かる、電話の向こうの相手が好きで仕方ないと言っている声だ。
なんとなく、聞いてはいけないものを聞いてしまったような気分だった。
そろそろと顔を引っ込め、ちゃぶ台を囲んだ僕たちは揃いも揃って死にそうな顔をしている。
「何あの声……完全に彼女向けじゃない……?」
「おそ松にほんとのほんとにステディがいる……?」
「いや待てって、いやいや、いやいやいや、おそ松兄さんだよ?稀代のクズにしてド底辺クソニートにそうそうカノジョなんて……」
しん、と沈黙が下りた。
「もうこうなったら、なんとしてでも吐かせるしかないな」
ふ、と息を吐いたカラ松の顔は完全に殺し屋のそれである。随分久方ぶりに見るその顔に僕たちが身を震わせたところで、おそ松兄さんが至極ご満悦といった顔で戻ってきた。
これは完全にクロだ。行け、殺せ、と僕らの間で視線が交わされていることを知りもしないおそ松兄さんは、緩んだ顔のまま徐にいつの間に持ってきたいのかトド松の雑誌を広げだした。
「おそ松」
「ん~?」
「今の電話の相手は?」
そこでようやっとカラ松の纏う空気が完全に殺意の波動に目覚めてしまったそれであると感じたのか、上げられた顔がサッと青褪めた。今のカラ松ならば阿修羅閃空からの瞬獄殺を意図も容易く決めてしまうだろう。ここに十四松がいれば大歓喜しているんじゃないだろうか?
おそ松兄さんは静かに姿勢を正し、雑誌を閉じた。尋常じゃない汗を掻いている。
「彼女か?」
「え?いや、違うけど……」
「けどぉ?今は違うけどいずれは彼女ってことか?」
「ちょっ、待って待って、何でそんなマジ切れなの?なんでそんな殺意漲ってんの?」
「だっておそ松兄さん、何回聞いても答えないし完全にクロの動きしてたよ」
「はあ!?何クロって分けわかんねーんだけど!?」
「毎週毎週決まった時間ににやにやへらへら締まりのねぇだらしない顔して出掛けてってたら誰がどう見ても怪しいって思うでしょ」
「ちょっとチョロちゃんさりげなくお兄ちゃんのことディスってない?」
「で、誰なんだ、どこのレディだ、紹介してもらおうじゃあないか」
「も~~~、だっからさぁ、何勘違いしてんだか知んないけど、彼女じゃねーし、そもそも男だから!」
「え……ホモ……?」
「違いますけど!?ホモじゃないですぅ、女の子大好きですぅ、ただちょっと好きになったのが男だっただけですぅ!」
「ホモじゃん……」
「だから違うんだって!あの子は男とか女とか以前の存在なの、そんな括りじゃないの!」
「ええ……こわ……」
なんだかすごいノリと勢いだけでトンデモナイことを言われている気がするが深く考える前にどんどん会話が進んでしまう。
「お前らだって大和のこと見たら絶対納得するって!ほんとのほんとにさあ、あの子は、そういう簡単な括りじゃないんだよ、俺らみたいなのとは全然違う、もっとずっときれいで、特別なものなんだよ」
段々おそ松人さんの声が低く、弱くなっていく。前のめり気味だった体をその場にストンと落として、どこかを見るその目は何かを思い出しているように焦点がずれている。
僕たちはといえば、おそ松兄さんの勢いと言動に些か引いてはいたものの、それよりもその“大和”という男に対するおそ松兄さんの異様な傾倒の仕方にゾッとして言葉を失っていた。ホモとかホモじゃないとかそういうのがどうでもよくなる程、おそ松兄さんの様子はおかしかったのだ。
「彼女だとかなんだとかじゃなくて、付き合う付き合わないなんていうそんな温くて緩いもんじゃないんだよ」
もう誰も何も言わなかった。言えるような空気ではなかった。
目の前の兄が、何か奇妙で理解の出来ない生き物に思えてくる。未知なものに対する恐怖が僕たちの間には微かに漂っていた。
何とも言えない居心地の悪さだ。一松は怯えたようにぎゅうっと膝を抱え身を縮めており、カラ松はじっと卓袱台に視線を落としているおそ松兄さんを見ている。
「おそ松、お前、」
カラ松が何か言おうとしたとき、玄関が割れんばかりの勢いで開かれ「ただいマァーーッスル!」と元気の良すぎる声が聞こえてきた。続いてもう一つただいま、という声が聞こえてくる。
どこか張り詰めていた空気が緩み霧散して、同時におそ松兄さんも先程のことなど無かったかのようにいつもの何も考えていないような緩い笑みで、居間にやってきた二人の弟をおかえりと迎えた。
途端、一気に体から力が抜ける。一体今のは何だったのだ、何かヤバい地雷を踏んでしまったような気がする。何かが挟まって今は爆発しなかったけれど、その何かが無くなれば瞬く間に作動して大爆発……なんていうような想像をしてしまうのは、先程のやり取りで消耗して疲れてしまっているからだと思いたい。
と、そこでいつもならすぐに訳の分からないくどい言語で弟を迎えるカラ松が黙ったままだと気付いた。見れば、カラ松は何かを考えているようなちょっと真面目な顔をしている。
そういえば、カラ松は先程何と言いかけたのだろうか?まあどうせ、大したことじゃないだろう。
昼夜の淡いに欠けてゆく花
rewrite:2022.03.23