随分機嫌良いね、とチョロ松に訝し気な目を向けられるほど今日の俺は浮かれていた。なんてったって今日は俺の可愛い可愛い天使が、赤塚にやってくるのだ。まだ俺に会いに来ている、というだけではないけれど、いつかそのためにわざわざ片道一時間もかけてやって来てほしい。
約束の時間より少し早めに着いたバス停には、当然まだバスは来ていなかった。待合所の固い椅子に腰掛けながら煙草を取り出し、さて、と息をつく。
この一週間どこに行こうかとか何しようとかあれこれ考えてみたけれど、俺は大和の好きなものも趣味も何も知らない。この前は時間が無さ過ぎて大和の現状しか聞くことは出来なかった。
しかし今回はたっぷりではないけれど時間はあるし、今後のためにも色々と聞きださなければいけない。だから今日はどっかに出掛けるのはやめて、良さそうな店にでも入ってゆっくり話をしよう。トド松の雑誌を少々拝借して近場で美味しそうなケーキだのなんだのがあるカフェはもう見つけてあるのだ。
松代に小遣いをもらったばかりで金も余裕があるし、場所もしっかり把握しているし、準備はバッチリである。
一本吸い終わる頃、遠くにバスが見えた。時間的にあれに大和が乗っているはずだ。
そういえば、結局この一週間大和から連絡は来なかった。まだそこまで信頼されてないし、無条件に甘えてもいい人!なんて思われていないだろうから来ないだろうとは思っていたけれど、実際何もないと少し寂しくなる。
その話も今日、少ししてみようか。
「おそまつお兄さん!」
停車したバスから一番に降りてきた大和が、頬を薔薇色に染めて駆け寄ってくる。半袖のワイシャツから伸びる細く白い腕の淡い輝き。ああ本当に、この子はきれいだ。きれいで、無垢で、無知な天使。狼に食べられてしまう愚かで哀れな仔羊と同じだ。
「一週間ぶり、大和」
相当嬉しかったのか、真っ直ぐこちらを見上げる瞳が水気を帯びていた。なんだってこの子はこんな人の欲を煽るような顔をするのだ。
ごくんと唾を飲みこみ誤魔化し笑う。それから少し乱れた髪を撫でて整えてやれば、小さな天使は嬉しくてたまりませんと言いたげなとろりとしたあの笑みを浮かべて、吐息のような笑い声を零すのだ。今すぐにでもぎゅうっと抱き締めてしまいたいが如何せん人目が多すぎる。
代わりとばかりに、移動しよっかなんて言いながらその肉付きの薄い背に触れた。薄いシャツ越しに少し高いくらいの体温を感じる。
「今日は半袖なんだね、前は長袖だったのに」
「もう暑いから」
そう言う大和の真っ白な項はしっとりと汗をかき、少し髪がはりついていた。天使には似つかわしくない、その艶めかしさ。
じくりと腹の底が熱を持ち、疼く。ちょっと歯を立てるだけで簡単に歯形が付いてしまいそうなその柔肌に触れたい。汗も何もかも舐め啜れば、この子はどんな顔をするのだろう。
怯えて泣くだろうか、何をするのだと怒るだろうか。それとも、羞恥に頬を真っ赤に染めて目を潤ませる?ああ、ああ、なんだってこの距離がもどかしい!
ぐるぐる渦巻く熱なんて知らぬとばかりに会話は軽快に進んでいく。大和は頬を桃色に染めて微笑んだり、控えめに笑い声を零していた。俺はまだ彼の子供らしい、無邪気で快活な笑顔というのを見たことがない。控えめな微笑みばかり見ているのだ。
まあこの前の話から、今の今まで子供らしい顔なんてさせてもらえていないのだろうことは簡単に想像できている。だってあの頃から彼の環境は何一つ変わっちゃあいない。美味しいスイーツがあるらしいよ、と言ってもはしゃぐ訳でもなく、うん、と桜色の唇を緩く吊り上げるだけ。
ああ俺の哀れな天使。この子は本当に何も教えられていないのだ。だから上手なさよならの仕方も、自分の感情の表現の仕方も、甘え方も我儘の言い方も分からない。周りに教えてくれる人がいないから知らないまま成長していくのだ。いくら沢山本を読んで知識として知っていても、実践できなければ知らないということと同義だろう。
でももう、大丈夫。なんてったってカリスマレジェンドなおそ松お兄様が、ひとつずつ、一から十まで全部教えてあげるのだから。
なんだか昔授業で習った話みたいだ。何て題名だったかもう覚えていないけど、小さな子を自分の好み通りに育てていくようなのだった気がする。
「ほらここ、いい感じでしょ」
隠れ家みたい、と瞳を煌かせながら言う大和はこのカフェが気に入ったようだった。
座席間の仕切りが少し高めのここは、それぞれの席がちょっとした個室のような雰囲気だ。人目を気にせずひっそりと話が出来るかと思ってここを選んだが、正解なようだ。思った以上に仕切りは目隠しとしての役割を果たしている。
「色々あるらしいからゆっくり選びな」
「おそまつお兄さんは?」
「俺はコーヒーと、ん~……あとは大和とおんなじのでいーよ」
「……これがいい。一番美味しそう」
桜貝の爪が、フルーツがたっぷりと乗せられたタルトの写真を指差す。季節のタルトと題されたそれはなるほど確かにとても美味しそうに見えた。良い?と伺うように見上げてくる様はさながら仔犬か仔猫のようで、頬がだらしなく緩んでしまう。
注文を済ませ、運ばれてくるのを待つ間、先に聞いてしまおうと思っていたことを口にした。
「そういえば電話、してこなかったね」
「……うん」
「遠慮した?」
ふ、と伏せられた睫毛。そうすると、彼が今何を思い考えているのかまるで読めなくなる。よくできたお人形のようだ。
「俺ね、実はちょっとだけ期待してたんだよね、掛けてきてくれるかな~って」
「あ、……ごめんなさい」
「あー、いや、別に謝ることじゃないでしょ。俺怒ってないよ。ただ遠慮したってだけだったら、全然気にしなくていいのにって思ってて」
「……ほんとは、一回掛けようかって思ったんだけど」
「うん」
「おそまつお兄さん、家にいなかったらどうしようとか、迷惑かけるのは駄目だなとか……」
「それで、やめちゃった?」
「うん……」
「も~そんなことなら掛けてよぉ!いなかったらこっちから学校にでも電話するし、全然迷惑じゃないって!俺だって大和と話したいんだよ、できれば毎日だってさ」
「毎日」
「そ、俺大和のこと大好きだから毎日だってお話したいのよ」
にしし、と笑って見せれば、眉がへなりと下がり泣いてしまいそうな顔になる。瞬く間に俺を見る目が水気を帯び、うるうると揺れ始めた。引き結ばれていた唇が少し震えながら開かれる。
「そんなの、初めていわれた」
震えた唇が、緩やかな弧を描いて小さな笑みをかたどる。瞬きの拍子にころりと落ちた涙が頬を滑っていく様の、なんと美しいことか。彼の言葉の、なんと悲しいことか!
「そなの?でもすぐに言われ慣れちゃうな。俺が、大和がもういいって言うくらい、うんざりするくらいたくさん好きって言うからね」
まあるくなった海色の目から、ほろほろと雫が落ちる。それから、くしゃりと顔が歪み、隠されてしまった。俯き小さな手の甲に目元を押し付け、声一つ零さない。きっと今までもこうして静かに涙を落としていたのだ。誰にも知られず、ひとりぼっちで。
がたんと勢いよく席を立つと、ひくりと細い肩が震えた。俺がどこかに行くと思ったのか慌てたようにぐっと目元を拭って見上げてきた大和の隣にどかりと腰かけ、その小さな頭を胸元に抱き寄せる。ひゅっと息を呑んだ大和の背を撫で、「泣きたいときは、おっきい声で泣いていいんだよ」と小さな子に言い聞かせるよう、優しい声になるよう努めて囁いた。
「もっと甘えてよ、俺にさ。全部受け止めるから、もっと頼って我儘言って俺のこと困らせて、大和」
そろそろとあげられた顔は泣いたせいもあって頬が真っ赤になっている。濡れて束になった睫毛が、きらきらと光っていた。
こちらを見上げる瞳にあの日と同じ、どこまでも透明で心の奥すら見透かすような色が浮かんだ。嘘を吐いていないか見極めようとするようなそれを黙って受け入れる。ぱたりと一度、瞬きする頃にはそれがゆるりと解け、大和は恥じるように目を伏せてから恐る恐る口を開いた。
「じゃあ、もっと撫でてほしい」
小さな、けれど甘えたような響きをもったその声に、心臓を握り潰されるような心地になる。聞こえぬようひっそりと吐いた息は熱を持ち細く震えていた。
汗で少ししっとりとした髪を梳くように撫でると脳裏を過るのはやはりあの、出会った日のことだ。あの時も大和は控えめな声でもっと撫でてとねだっていた。
心が置き去りにされ体だけ大人に近付いていく、俺の可愛い可愛い小さな天使。その小さな隠された心には、きっと誰も触れたことがないのだろう。
その柔く脆いところに初めて触れるのがこの俺であればいい。そうして俺だけしか触れられない場所になればどれだけ良いだろう。俺にだけ甘えて頼ってほしい。俺にだけ手を伸ばして、俺だけを求めてほしい。
俺はこの子の、全てになりたい。
綿菓子の呪い
rewrite:2022.03.23