俺の可愛い可愛い小さな天使は、今年中学校に進学したという。まだ大人になり切れていない成長途上故の線の細さが無垢な天使にどこか危うい色を纏わせ、まだ声変わりしていない柔らかく優しい声もまたそれに拍車をかけていた。その全身から、ふつふつと腹の底に熱を生みださせるものを放っている。
柔らかそうな桜色の唇がほんの少しだけ開かれて、ストローをくわえ込む。甘ったるいココアフロートを飲み込んで、ぺろりと赤い舌が唇の上を滑った。たったそれだけでくらくらしてしまうのだ。
「なんでこんなとこにいるの?」
ここ辺りでは見慣れぬ制服は随分とお高そうなもので、どこかの進学校のように思える。校章の入った鞄をちらりと見た大和が、睫毛を伏せたまま「少し、気分転換に」と零した。ほうっと小さく吐き出された溜息は疲労に満ち満ちている。
それから少し躊躇うように視線を彷徨わせ、小さな声で大和は話し始めた。
「俺、今全寮制の学校に通ってるんだ」
赤塚駅からバスで1時間ちょっと山の方へ走ったところにあるというその学校は、周囲には森くらいしかなく、社会から隔絶された閉鎖的な空間だという。どこぞの社長の息子だとか、どこぞの議員の娘だとか、金持ちの子供が多く放り込まれているそこは、当然の如く教員よりではなく子供たちが権力を握る。子供たちだけのルールで回る、破綻した小さな王国。そこが大和の通う学校だという。
そもそも何故大和がそんな学校に通うことになったのかといえば、母親のせいである。
大和の母親は血筋でいえば松蔵の方の繋がりだ。旦那はアメリカ人だかイギリス人だかで教授か医者か、なんだか偉そうな仕事をしていると聞いた。ただの一般人だった大和の母がその男に見初められ玉の輿、それからはもう、大和にとっての不幸の始まりだ。
このあたりはほんの少しだけ大和本人にあの葬式会場で聞いていたから覚えている。
あとは全部松蔵や松代に聞いた話だが、この女、とんだ見栄っ張りで何よりも世間体を気にする人種なのである。自分の子供がどれだけ優秀であるか周囲に知らしめ、ひいては自分がどれだけ素晴らしい人間であるか知らしめたいのだ。この女にとって子供とは単なる道具でしかないのである。
褒められることも頭を撫でられることも、抱きしめてもらうことすらほとんどない可哀想な大和。まだ彼は冷たく寂しい生活を続けているのだ。
「息が詰まるんだ。だから、たまにあそこの本屋とか、喫茶店とかで息抜きしてる」
「そっか……」
テーブルに落とされたままの眼差しは憂いに満ち、言い知れぬ艶を醸し出している。どことなく翳のある美しい顔と相まってこの綺麗なものを滅茶苦茶にしてしまいたい、という欲を煽るのだ。知らず乾いた喉を潤すように、口中に溜まった唾液を飲む。
緊張か興奮でか少し震える手を落ち着かせ、何でもないような声で「お疲れ様」なんて言って天使の輪の浮く髪に触れた。伏せられた睫毛が淡い影を落としていた白い頬が、ふわりと柔らかな薔薇色に染まる。
そろりとこちらを見上げた恥ずかしそうに潤んだ瞳!ああ、俺の可愛い天使よ。
「その息抜きさ、俺と一緒じゃダメかな」
「え」
「一人っきりより絶対楽しいよ。ヤなこととかもさ、誰かに話した方がすっきりするじゃん?それに俺もね、大和に教えたいこととか、大和とやりたいこと、たくさんあんの」
どう?なんて、答えなんて分かりきっている問いだ。
水気を帯びていた瞳がふるふると揺れ、とろりと蕩けた。あの頃よりも美しくなった彼のとびきり嬉しそうな笑顔が胸の内を焦がし、理性すらぶち壊さんとしてくる。真っ赤で美味しそうな、林檎色の頬。桜色の唇から零れる白い歯と、その奥に隠された淫靡な紅色。
ぐるぐると鳴る腹の獣を宥めるようにごくんとまた、唾を飲んだ。
「じゃあどうしよっか。いつ会うか約束しとく?それとも連絡するとかにしようか?」
「おそまつお兄さんは、どっちがいい?」
どことなく舌足らずな拙い発音の自分の名前が、溜まらなく胸にくる。お兄さん、なんて呼ばれ慣れてるはずなのに、大和が口にするとこんなにも違う。なんだかすごく、いけないことをしている気分だ。
だらしなく頬を緩めたまま、大和の楽な方でいいよ、と言えば、彼は約束する方がいいと答えた。
スマートフォンだとかの連絡手段を何も持っていないのだそうだ。別段家の誰かから連絡が入ってくることも無ければ連絡を取り合うような友人もいない。だから今まで不便に思ったこともなく、学校の寮内に何台か公衆電話もあるため何か入用だとその電話を今まで利用していたらしい。
「まあ俺も携帯持ってないけどね。あ、そだ。俺ん家の番号教えとくからさ、何かあったら電話して?」
テーブルに備え付けられていたアンケート用紙の裏に自宅の電話番号を書き渡すと、恐る恐るといった風に彼はそれを受け取った。
「何もなくっても電話していーよ。俺の声が聴きたくなっちゃったとかでも、大歓迎だからね」
「うん、ありがとう、おそまつお兄さん」
大事そうに紙を折りたたんで、財布の中に仕舞い込む。目がきらきらと輝いていて、思わずまた小さな頭を撫でた。本当に、このまま連れ去って閉じ込めてしまいたい。
くふくふと幸せそうに笑っていた大和が、ふと時計を見て表情を曇らせた。
「そろそろ帰る時間?」
「……うん、あんまり遅くなると寮監の人に叱られるから」
「そっか、じゃあバス停まで一緒に行こ」
大和が手を伸ばす前に伝票をさらい、さっさと会計を済ませる。パチンコに勝ってて本当に良かった。
喫茶店を出てすぐお金、と財布を片手に口にする彼に「お礼はハグでいいよぉ」なんて腕を広げる。ほんの冗談だ、あの可愛らしい笑顔がみれるかなと思っていた。しかし大和はちょっとだけ笑って頬をまた林檎色に染めて、そろそろと腕の中に入ってきたのである。ああ、天使が俺の腕の中にいる!
カッと頭が熱くなる。路地裏にでも引きずり込んでしまいたいのを思い留まり、大和チャン可愛い!なんて冗談っぽく笑って抱きしめれば、楽しそうな笑い声が控えめに響いてきた。
きっと彼には俺の心臓の脈がとても速いと気付かれているだろう。けれど同じくらい、彼の脈拍も速い。ドキドキしているのは緊張か、それとも別の意味か。
全く往来で何をやっているんだと三男あたりに見られたらどつかれそうだけれど、許してほしい。柔らかな髪に鼻先を埋めてシャンプーの香りとかすかな汗のにおいを吸い込む。じくじくとあらぬところが熱くなりそうなにおいだ。
は、と体内の熱を吐き出すように息をついて、大和を離した。ぽっぽと赤くなっている頬を撫で、少し乱れた髪を手櫛で治す。ああこのままキスの一つや二つ、してしまいたい。
「なんか、ほんとにおっきくなったね」
バス停までの短い距離を歩きながら、細くて薄い肩に腕を回し引き寄せた。トン、と自分の身体に当たった大和の身体は、この世の何よりも無垢で幼く柔らかい。
「うん、だってもう、中学生だよ」
「そっかあ、中学生かぁ」
中学生、まだまだ知らないことがたくさんある年齢だ。
「おそまつお兄さんは今、大学生?」
「んにゃ、ニートです」
「ニート……」
「そーよぉ、だからいつでも大和くんのとこに駆け付けられるよ」
気が抜けたようにへなっと眉を下げ、柔らかく笑う大和は随分と無防備で、眩しい。
「あーあ、なんかあっという間だったなあ……次はいつこっちに来るの?」
「来週、ええと、十六時半過ぎ、くらい」
「よし、じゃあ俺バス停で待ってるね」
「いやっ、どこか別のとこで、」
「いーの、俺が待ってたいだけだから」
じわりと目尻に朱が混じり、瞳が潤む。この子は本当によく顔にでる子だ。分かり易くって大変よろしい。
小さな声でありがとう、と言い微笑んだ彼の頭をよしよしと撫でていれば、バスが一台、入ってきた。もうお別れの時間だ。
「じゃあまたね、大和」
「……うん」
手を振る俺に、彼は振り返さない。あの日と同じ、ただ悲しそうな寂しそうな瞳で俺をじっと見る。まるで二度と会えないとでもいうようなその顔。上手なさよならの仕方も知らない孤独な子供だ。可哀想で、同時に至極可愛らしい。
可愛い可愛い俺の小さな天使、どうかずっとそのまま、無知なままでいてくれ。
幸いは降りつもる粉雪のように
rewrite:2022.03.22