※松野おそ松が小さな箱庭で小さな天使と愛を育もうとする話
小さな額縁に飾られたまだ幼い顔をした制服姿の少年の写真を見ると、いつもあの日のことを思い出す。あの夏の日、澱んだ空気が漂う葬式会場で、俺は小さな天使に出逢ったのだ。
俺たちが高校三年生になり数か月が過ぎた夏の日、親戚が死んだという報せが入った。大伯父の息子だかなんだかで、その人は元々体が弱く、ここのところ入退院を繰り返していたらしい。そうして先日とうとう帰らぬ人となった。
盆の親戚の集まりで何度か顔を合わせたことくらいはあるのだろうが、聞いた時はいまいちピンと来なかった。一年に一度会うくらいの薄い関係だと、写真を見て嗚呼あの人かとやっと思い出すというのも仕方がないだろう。そんな顔も朧げな親戚の葬式に長男と次男だからという理由で俺とカラ松が出席することになった。
それなりに長い移動時間を経て辿り着いた会場にはもう何人かの親戚と、知らない顔がたくさん居た。こういう場所はどうも居心地が悪くて嫌いだ。
ひそひそと小さな声で話をする黒い服を見ているのも嫌で、親戚たちに挨拶をして回る松代たちからひっそりと距離を取り自販機の並ぶ人の少ない一角へと逃げる。何かあってもカラ松がいるし、どうにかしてくれるだろう。
うんざりと息を吐きながら簡素なベンチへ近寄った時、一番端の窓辺に置かれたベンチのひとつに子供が寝転んでいるのが見えた。窓から差し込む日に照らされた焦げ茶色の髪がきらきらと輝いている。黒い短パンと白い靴下の間の真っ白な肌は、内側から淡く光っているようにも見える。
それは、自分とは全く違う、何かとても美しい生き物に思えて、知らず息を詰めていた。そこだけ世界から隔絶されている。静かで、侵し難い空気が漂うそこは、漫画で読むような聖域のようにも、誰もが一度は夢見る楽園のようにも見えた。
灯りに引き寄せられる虫のようにふらふらと、無防備に眠るその子供に近寄った。いけないと分かっていても導かれるように目の前に跪きその柔らかそうな髪に触れた、その時、きっと全てが始まったのだ。
手の感触か人の気配にか、ぴくりと密な睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上げられる。そうして姿を現したのは鮮やかな青緑の瞳だった。
「だれ?」
微睡んだ幼い声に、何か熱いものが込み上げてくる。警戒するようにじっとこちらを見据えた目は、どきりとするほど透明で、奥の奥まで見透かすようだった。まだこんな小さな子供がするような目じゃない。そこに何か仄暗いものを感じて、堪らなくこの小さな体を抱き締めてしまいたくなった。
渇いてかさかさの喉をなんとか潤すように一度唾を飲み込んで、なるべく優しい笑顔になるように口角を吊り上げる。
「初めまして、俺はおそ松。君は?」
「……大和」
しばらく俺の顔を見つめ、それからぽつりと囁くような声で名前を言って子供―――大和は警戒を解いたように小さく笑ってみせた。花開くような、可憐で美しい笑みだった。
それから中途半端に宙で止まっていた俺の手を見上げ、首を傾げる。さらりと揺れた髪に恐る恐る触れ優しく梳けば、仔猫のように目を細めて擦り寄り、もっと撫でてと控えめな、けれどどこか甘えたような声で言った。その姿はどこまでも無垢で、この子は天使か何かなのかと本気で思ってしまう程であった。
それから大和の母親が迎えに現れるまでの間、ずっと俺は彼の前に座り込んで柔らかい髪を梳いていた。
ぽつりぽつりと続いた会話で分かったのは、彼が小学二年生で、こうして髪を撫でてくれるような人間は周りに誰もいないということだけ。
俺の手をあたたかいと言った大和は、心底安心しきった顔をしていた。親に甘える子供のような顔をして身を任せるその姿に、またぐつぐつと庇護欲のようなものが湧き上がる。溺れ沈んでしまう程の愛を注いでやりたいと思った。無機的で透明な、おおよそ子供らしくないあの眼差しを柔く溶かしたいと心底思ったのだ。
別れ際、またねと手を振った俺に大和は手を振り返さなかった。もうそうそう会えないと分かっているようにただ少し悲しそうに瞳を揺らし、じっと俺を見つめていた。
三十分にも満たない彼とのその触れ合いはまるで夢のようで、時間が経てば経つほど、あれは本当は夢だったのではと思ってしまう。あの会場の隅のベンチで俺がみた白昼夢なのでは、と。
しかしあれは夢なんかではなかった。しっかりと現実だったのだ。
「大和……?」
その日は駅近くのパチンコの新台オープンの日だった。朝早くから打ちに行き幾らか勝ち越したので、その足で真っ直ぐ行きつけの競馬場に行こうと思っていた時だ。
自動ドアをくぐり、何気なく見た向かいの小さな本屋。そこに、あの夢の中の天使を見つけたのだ。
あの葬式から五年、背も伸びて、どこかの制服に身を包んだ彼はしかし、あの頃の面影を強く残していた。浮世離れした清廉な空気、柔らかそうな煌めく髪、淡く光るような白い肌。成長したとはいってもまだまだ幼いその顔に漂う憂いは、あの頃よりも色濃い。
そこから動くことも出来ず、呆然とただ佇む。
あの時、そのまま連れ去ってしまおうかとも思った天使が、また俺の目の前に現れたのだ。チャンスだと思った。なんとなく、これを逃せばもう二度とまた会うことはない気がした。
ふらりと一歩踏み出したとき、ふと少年が顔をあげた。青緑の透き通った瞳が、真っ直ぐ俺を捉え、驚いたように丸まる。
「おそまつおにーさん……?」
平仮名で綴るような拙い発音のそれはひどく小さな声だったけれど、俺にははっきりと聞き取れた。それから大和は、あの時と全く変わらない、花開くような、可憐で美しい微笑みを浮かべてみせた。
覚えていたのだ。俺の天使は、俺のことを覚えていた!
歓喜のあまり笑みが零れ、踊り跳ねるように駆け寄る。成長したとは言っても彼はまだ発育途上なようで、俺よりも随分細くて小さい。その事実に、腹の底が熱く粟立つような感覚を覚えてしまう。
「久しぶりだね、大和」
ああ、ああ、俺の可愛い小さな天使。
そっと触れた腕はあたたかく、強く握った途端、ぽきりと折れてしまいそうに細かった。
薄明かりに春のにおいを連れて
rewrite:2022.03.22