工藤大和 大字粗戸 / 六角家
2003年8月4日 / 10時05分38秒
はたと気が付けば、全然知らない所に居る。時間が過ぎている。そんな体験を短時間で何度もすれば、自分が何かおかしなことになっていると誰だって分かるだろう。所々ぼんやりとした記憶はあるけれど、それも随分と切れ切れだ。何を聞いて何を話したのかさえ記憶にない。
狭い部屋の毛羽立ち塵などでざりざりとした畳にぼんやりと視線を落とし考えるのは、この村に来てからの出来事全てだ。そもそも何故この村にいるのか。記憶がもし正しければ、自分は未来からこの村にやってきたことになる。何故、どうやって。どうして?俺は一体何を忘れているのだ。靄の向こうに何がある?何度も何度も自分の声が言うのだ。壊してしまえ、飲み込んでしまえ。愉悦を含んだ絡みつくような声で、何度も何度も。
その声を聞いてると、だんだんと意識が解けて沈んでいく。そうして気が付けば知らない場所にいて、どうしてか腹が満たされている感覚があって、しかし記憶は穴だらけで。
何か知っているはずの牧野に聞いても俺はいつも通り話して動いていたと言って、記憶がないことを心配してくるだけで話にならない。この男は何かを隠しているのに、それが何かまるで見えてこない。カマをかけても交わされているのか、本当に知らないのか、手ごたえも何もない。
だが直感が、この男は信用ならないと告げているのだ。警鐘をならしている。このままこの男と共にいれば、飲み込まれるのは俺だ。
「慶」
疲れているのだろう、畳に身を横たえた眠る牧野は声を掛けても起きない。
大和はじっと牧野の顔を見つめ、それから立ち上がり内鍵を開けて扉を開けた。流し台の前に病院で見たのと同じ血溜まりのようなものがある。あれが何の痕か、牧野はきっと知っているだろう。しかし聞いたところで答えるとは思えない。大和はふ、と短く息を吐くと玄関の戸に手を掛け、鍵がかかっていないことを確認すると静かに開けた。
Twins第九綻 窟
牧野慶 大字粗戸 / 六角家
2003年8月4日 / 19時48分07秒
一体何処に行ってしまったのだ。
あちこちをうろうろと捜し回って、そうしてまた戻って来た家の中で牧野はずるずると座り込む。もう泣いてしまいそうだった。どうして、どうして、と誰に言うでもなく言葉が零れてくる。
眠ってしまった、と慌てて起き上がれば牧野はひとりこの家に取り残されていた。ずっと共にいた大和の姿はどこにもなく、急いで周囲を捜しても見つからない。自分を置いて一体何処に行ってしまったのだ、まさか宮田が、とどんどんと雨の勢いが増す中飛び出して、あちこちを駆けずり回った。
だというのに、捜し人の姿はどこにも見当たらない。なぜ、なぜ、なぜ!荒れ狂う胸の内のまま、手あたり次第に化け物どもを討ち付けてもまだ嵐は治まらない。
「大和さん……大和さん、どうして……」
呻き、それからぐちゃぐちゃと髪を掻き乱す。息を吐いて、乱れた髪もそのままに牧野はまた玄関の戸を開けた。
もう一度捜しに行って、なんとしてでも見つけよう。もう同じ顔の男に奪われるのはごめんだ。
宮田司郎 屍人ノ巣 / 第三層付近
2003年8月4日 / 18時23分41秒
迷路のような通路を歩き、上ったり下りたり潜ったり強引に割り開いたりを繰り返しながらどんどんと奥へ奥へ宮田は進んでいた。一番奥まで行けば必ず会える、それだけが頭にあって、誰に、何に、という感覚も薄いままただただ歩く。
少し開けたような場所を周囲を警戒しながら歩いていた宮田はどこからか聞こえて来た金属質的な泣き声に足を止めた。その音はもう何度も耳にしている。蜘蛛に似た動きをする元は人間だった異形の発する鳴声だ。どこから聞こえるのかと辺りを懐中電灯で照らし手にしていたネイルハンマーを強く握りしめたその時、雷鳴と共に木片と硝子が降って来た。
咄嗟に頭を庇い、身を低くした宮田のすぐそばに、数枚の木の板であっただろうものと一緒にドンッと重たいものが落ちて来る。汚れた黒い革靴。泥と血のような染みが裾にこびり付いたスラックス。それが視界に入って、宮田はハッと顔をあげる。
「工藤さん……?」
粉々になった木片と何故か羽毛を幾らか纏った工藤大和が錆びたシャベルを片手にそこにいた。
「お、ミヤタだ」
「……一体何があったんです?」
「あ~、なんか蜘蛛みたいなのがどんどん湧いてきて。とりあえず閉じ込めたはいいけど俺が出らんなくなってさあ」
「はあ……?」
「で、窓あったから割って出てきた」
「はあ……」
ひとまずここから離れた方がいいだろう、と言う大和について歩きながら、宮田はまだ少々混乱しながらも牧野が一緒ではないことを尋ねた。あんなにずっと一緒にいて、鼈も斯くやとばかりに引っ付いていた牧野がいないなんてまさかとうとう……、と考えていた宮田に大和はなんてことない声で「寝てたから置いてきた」と言い放つ。
「置いてきた……?」
「お~、気付かなさそうだったからそんまま置いて逃げて来た」
「逃げてって、何かあったんですか?」
「いや?ただあいつといるとマズそうだったから」
木片を払い落し終え、行こうぜ、と言い歩きだす大和の後を追いかける。大和はちらりと宮田をみてから「俺の直感がさ、あいつは駄目だっつってんのよ」と口の端を吊り上げて歪んだ笑みを見せた。
記憶の混濁に意識の喪失、ずっと共にいたはずの人間は自分に何かを隠していて、ただ笑んでいる。信用など出来るわけが無いのだ、この異常な環境下で必要な手札を隠された状況では。それなら隣を歩くあまりよくは知らない男の方がよっぽど信用出来る。
「なあ、ミヤタ。俺が前した話、覚えてる?」
「どの話です」
「俺が何でこの村に来たのかって話」
「ああ……」
「あれ、分かったよ。俺は呼ばれてきたんだ、ここに、全部綺麗にするために。……ぜぇんぶ壊して飲み込んで綺麗にして、それでまた使えるようにすんだよ、この場所を」
ハッと仰ぎ見た横顔、瞳だけが冴え冴えと異様に輝いて見えた。それ自体が発光しているような、冷たく不気味な色が宿っている。その眼の奥にはきっとあの黒々としたものが息を潜めているのだ。ゆっくりとそれは這い出してきて、それから大きく口を開くのだろう、頭から飲み込むために。
ああ、でも、俺は知っているのだ。それが俺にとっては何も恐ろしいことではないということを知っている。彼のその一部が俺の身の内に宿り、確かに根付いているのだ。繰り返し繰り返し何度もやり直して、彼に慈しまれそれを含まされる度に少しずつ蝕むように染み込んで、そうしてそれが“当たり前”になって。そうして俺は彼の一部になるのだ。
「“司郎”、どうしてか目印がお前だけじゃなくて“ケイ”にまで出ているんだ。面白いだろう?どこで見つけたんだか、あれは自分で自分に植え付けたんだろうな。馬鹿で健気で可愛いだろう、犬みたいで」
喉の奥で低く笑う男は足を止め、呆然とこちらを見上げる宮田を見下ろす。
「俺はどうも自分に尽くそうとする可愛い犬に弱いんだ。ただ従順に俺の言うことを聞いて、馬鹿みたいに尻尾振って追っかけて来る犬にさ」
男から血の臭いと共に妙に甘い臭いが漂ってくる。
「“司郎”、俺はお前が可愛くて仕方なかったよ。何があっても俺のところに来て追いかけてくるお前が、俺は可愛くて可愛くて……」
ぐうっと身を近付けた男のその瞳、身を擡げ蠢くものがじいっと宮田を覗き込んできた。自分の中に這入り根付いてしまったどろりとした悍ましいものがじわじわと広がる様な感覚がする。噎せ返る様な血の臭いと、吐き気のするような甘い腐敗臭。
何も怖いことなどなかったのに、どうしてか目の前にいる男がとても恐ろしくて、宮田はやめてくれと叫んだ。恐怖に引き攣り掠れた声に男は愉快そうに眉を上げ身を引く。
「拒絶するのか、俺を。受け入れたくせに?」
遠い何処かで含まされ植え付けられた男の一部が身を侵蝕していく。だんだんと思考が曖昧になって混濁し、境目が消えていく。何度も何度も味わった記憶のある、意識の端から解けて蕩けていく心地の良い感覚に包まれ、宮田は地面に膝を付いた。
―――己を導き、全てを受け入れ、欲しいものを欲しいだけくれるのは、この男しかいないのだ。
―――たとえ男と向かう先が、惨憺たる地獄でも、底の見えぬ奈落でも、息も出来ぬ沼底であろうと、共についていくのだろう。
いつか感じたことを思いながら、宮田はぼんやりと夢現の瞳で眼前に立つ黒い影を見上げた。
2020.12.06