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牧野慶 宮田医院 / 第一病棟隔離室通路
2003年8月4日 / 5時02分15秒

記憶の混濁に戸惑い、現状を把握しようとして、ふっと力尽きたように意識を失う。それから目覚め、牧野を連れてふらりと外へ出ては跋扈する異形を飲み込んで、またふと意識を失う。そんな大和を宥める様に抱き締め、あるいは暗い隔離室へと抱き上げ連れ戻し、時折浅い眠りにつくことを牧野は繰り返していた。
その身に宿る、牧野が神と崇め奉り祈り捧げる存在は気まぐれにその存在を揺らめかせては、牧野に笑み、その瞳を覗き、途方もない奈落を見せ、また沈んでいく。次にいつ現れるのかと心待ちにしながら、しかし“今の”彼もまた愛おしく思う牧野はいつか完全に目覚めた時に今ここで力無く眠る存在が掻き消えてしまうことが少しばかり口惜しく感じた。
惑い、怯え、縋るように腕や手を握る頼りなげな姿は牧野の知っていた工藤大和の姿とは遠い。いつだって自信に満ち、勝気な笑みを浮かべ、周囲を巻き込んでトンデモないことを起こしては全て自分の思い通りに運ぶ。牧野の知る彼は、大体がそうだった。どんなに危機的状況であっても、大丈夫だと不敵に笑って、切り抜けてしまうような人だった。そんな彼が無防備で柔らかな部分を見せるのはいつも宮田相手にであった。殆どの人間が大和にとって敵か守るべき人であって、共に支え合うような人間は牧野の知る限り宮田しか居なかった。だからいつも、大和は宮田の隣で柔く笑んで、甘えて、寄り掛かって、子供のようにじゃれついていた。弱っているところを見せるのも宮田が相手で、牧野に見せることなど殆ど無かった。
だから今、彼に頼られることがこんなにも心地よい。宮田ではなく自分相手に脆くて柔い部分を開いてくれている、そう思えるから。
青白い顔で眠る大和の髪を撫で、また牧野はつかの間の夢をみる。



腕の中のあたたかなものがもぞりと動く気配に牧野は目を開けた。寝ぼけたようなぼんやりとした目で瞬きを繰り返して、くわっと欠伸をする。よく寝た、とでも言いたげな大和に笑みながら具合を問えば、大和はもう大丈夫と頷いて身を起こした。
眠りと覚醒を繰り返すうちに自身の中で折り合いがついてしまったのか、大和はもう“いつも”の彼に戻ってしまっていた。あんなに戸惑って怯えて取り乱していたのが嘘のように、ツンと澄ました顔をしている。

「動けますか?」
「ああ、平気」
「では宮田さんが全然戻ってこないので探しに行きましょう」
「え、ミヤタ戻ってないのか?」
「いえ、美奈さんを見つけたと一度戻って来て、理沙さんの様子を見てくるから待ってるようにと」
「それから戻ってきてない?」
「ええ……理沙さんとお休みしているだけなら良いんですけど……」

心配そうな顔をしてみせる牧野をじっと大和が見つめている。内側を見透かす透明な眼差し。けれど見透かすには目の前の男の澱みは濃い。草食動物を思わせる黒々とした優し気な瞳は何を考えてるのかてんで見えてこないのだ。ただ凪いで、うちに何を隠しているのか決して見せない。
大和は床に置かれ辺りをぼんやりと照らしていた懐中電灯を掴むと立ち上がり、ドアの鍵を開けて隔離室の外へと出て行く。薄明るい廊下に満ちる妙な静けさに眉を寄せ、それから振り返った。

「慶、なんか変な感じがする。はやくミヤタを探すぞ」

く、と腹辺りの服を握る大和の仕草に目を細めながら、牧野は先を歩く背を追いかけた。時折廊下の隅に広がる血のような赤い水溜まりに大和は顔を歪め、牧野は人知れずうっそりと笑む。その水溜まりは、背徳に満ち満ちた悍ましくも美しい“食事”の跡だ。
何も知らない彼は何の跡だ、と零しながらどんどんと部屋を検めていく。

「なあ、リサとミヤタは病院内にいるのか」
「ええ……そのはずなんですが……」

二階をぐるりと回って第一病棟の一階を見終え、あとは第二病棟の一階を残すのみとなった。中庭へ通じるドアを開けて久方ぶりに外の空気を吸った大和は、雨音に混じり何かの音を聞く。微かなそれは金属質な細く甲高い音で、静けさに満ちたこの場で耳にするのは妙なものである。
まだ薄暗いあたりを照らすように懐中電灯を動かした先、何かの銅像が浮かび上がった。そうしてその手前に広がる黒い穴。どうしてかそこから何か禍々しいものを感じるのだ。

「慶、あそこって何があるか知ってるか」
「い、いいえ……でも、宮田医院には隠し地下がある、とは聞いたことがあります」
「隠し地下ねぇ……こんな村の病院にそんな場所なんてヤバイ臭いしかしねーな」

はん、と鼻で笑って躊躇いの無い足取りでぽっかりと口を開いたそこへ近寄り覗いた。簡素な梯子が取り付けられただけの入り口、その奥からキイキイとした金属音が聞こえてくる。

「もう誰もいないんだろ、この病院」

梯子に足を掛けちらりと牧野を見上げた大和が、なあ?と薄く笑う。それから牧野が何かを言う前に中へと飛び下りて行ってしまった。だから「ええ、ここにはもう私と貴方しかいませんよ」と愉快そうに言った牧野の声を聞いた者は誰もいない。

MOVEING A STORY第八譚 魂のかたち 器のかたち


宮田司郎 合石岳 / 羽生蛇鉱山
2003年8月4日 / 8時32分51秒

声に導かれるままにふらふらと歩きながら、ふと意識が鮮明に戻るような時がある。そうして今自分が何をしているのか分かっているけれど理解できない状況に戸惑って、それから隣に無い温度を探してしまう。何故自分ひとりしかここにいないのだろう?そう思ってしまうのだ。
声に呼ばれるままに隠し地下へ赴き土偶のようなものを貰った時も、そこで謎の解明を行った時も、宮田の傍には誰もいなかった。優しく撫でる手も、抱きしめてくれる腕もない。空虚感が胸のうちを占めて、そうするとその場から動けなくなるのだ。今すぐ踵を返して空洞を埋めてくれるはずの彼を探そうと思えば、声が響いて意識が引き摺られてしまう。そうしてふらふらとまた村内を歩き回って、またふと思うのだ。
何故、自分の隣に彼はいないのだ?あれは、俺のものなのに、と。
懐中電灯を握る手が、いまだに赤く汚れたままだったことに今更気が付いて白衣の裾で拭う。深く息を吐いて、重たい脚を引きずる様に前へ進んでいった。一体どこを目指し、どこに向かうのか。何も分からないままにただ導く声の通りに宮田は村の中を歩いていく。


* * *


牧野慶 大字粗戸 / 六角家
2003年8月4日 / 6時53分17秒

埃っぽい狭い部屋の中で壁に凭れ昏々と眠る大和の白い顔を見つめる。この六角家へ入る前に、空を貫くような光柱が現れた。村に伝わる聖典『天地教之伝』では理尾や丹という名で大海竜の伝承として綴られているその現象は、この村の信仰対象が降臨する前兆であることを牧野は知っている。この光の中に、八尾比沙子がいるであろうことも。
もうすぐこの村も終わりを迎える。その因果律が破壊されるか否かは、目の前で眠る男に掛かっているが、どうだろうか。旧宮田医院の隠し地下を見てからずっと何かを考えているような顔をしていた。けれどそれと比例するようにどんどんと意識の無い時間が増えている。この家に来るときも夢現でふらふらとしていたくらいだ。
目覚めの兆しは出ているけれどまだ完全には至れていない。何かが引っかかっていて、きっとそれが糸を切ってしまうのだろう。まあいずれ、完全に彼が目覚めることは分かっているのだ、ただ待てばいい。
牧野は寄り添うように大和の隣へ移動して、投げ出されていた少しひんやりとしている手を握りしめた。
もうすぐ辺り一帯はそこらをうろつく異形達の手によって様変わりするだろう。あちこちから持ってきた板や鉄パイプ、看板を繋げて積み重ね道や扉にして、大きな一個の建築物をつくるのだ。さながら蟻の巣のような、幾つかの層を持ったそれは迷路のようなものとなる。巣の中央にあまり近寄らずにいれば、もう何も心配はいらない。
鍵を閉めた扉の向こうから玄関の引き戸を開ける音がした。どた、どた、と重たく妙な間を持った足音のあと、ごそごそと動き回る音が聞こえてくる。玄関の鍵は壊れていたから開けっ放しにしてしまったが、つっかえ棒か何かで開かないようにしておけば良かった。だがそいつは薄い扉を破壊してまでこちらにやってくる気はないようで、玄関と流し台の間をうろうろする足音だけが聞こえる。
放って置いてもまだ害にはならないだろう。ならまだ少し、ここで彼と二人っきりでゆっくりしたい。
屋根を叩く雨音と扉の向こうの足音を子守歌にでもするよう、目を閉じた。
2020.10.20