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牧野慶 宮田医院 / 第一病棟看守室
2003年8月3日 / 23時10分15秒

傘を片手に宮田と大和の後を追い二階へ駆けあがった牧野は、二人の姿を看守室で見つけた。何やら蛍光灯を指し示しながら話をしている二人の距離はやけに近くて、そう、カッとなったのだ。
ずっとぐるぐると渦巻いていたものが勢いよく外へ飛び散って、そうして気が付けば牧野は傘で思い切り宮田を殴打していた。いくら傘といえど中棒も親骨も金属質の物で頭部を殴れば痛みも相当である。止めに入った大和を振り払って、痛みで動きの鈍った宮田へもう一度振り下ろした。意識がぐらつき膝を付いた宮田へ「貴方が悪いんですよ」と言った牧野の声は怨嗟に満ちている。

「さあ大和さん、行きましょう」

ガラクタの詰まれた机の上、プラスチック製の収納ボックスから錆びた鍵の束を取り出して、牧野は強張った顔で自分の様子を見ている大和へ笑いかけた。

「痛いのは嫌でしょう、大和さん。ほら」

澱んだ目で笑いながら、牧野は傘を握り締め大和の手を取りその手からラチェットスパナを取り上げ放り投げる。それは宮田からつい数分前に何も無いよりは良い、と言って渡された物であった。

「どうしちゃったの、お前」
「どうもしません、行きますよ」

痛いくらいの強さで握りしめた手を引き、半ば引き摺るように牧野は大和を連れて看守室を出る。宮田を気にしながらも今の牧野を刺激すればどうなるか分からず、大和は引っ張られるままに後を付いて行った。
看守室を出て右に真っ直ぐ、突き当りの右手側にある扉を鍵で開け中に入れば、短い通路と等間隔で並んだ鉄製扉。その向こうがあの鉄格子の嵌った隔離室であるのは考えなくても分かる。牧野は通路へ大和を押し込んだ。

大和さん、少しの間だけそこにいてくださいね、すぐ戻りますから」
「どこに行くんだ」
「どこにも。すぐに戻りますから、ね?」

これから宮田を殺めにいくのだ。
直感的にそう思い、大和は牧野の腕を掴み駄目だと言った。

「慶、駄目だ、待って」
「大丈夫ですから」
「何が大丈夫なんだよ、なあ、お前もここにいて」

ぎゅっと腕を掴みそう言い募る大和に牧野は瞬く。それからじわじわと頬を染め、笑んだ。

「ワガママですね、大和さんは。いいですよ、一緒に暫くここに居ましょう」

ばたん、と扉を閉めて鍵を掛ける。窓も何もない通路は暗闇に沈み、牧野の持つ懐中電灯のみが周囲を照らす光源となった。

「なあ、慶、リサはどうしたんだ」
「診察室で待ってます」
「……どうしたんだよ、お前。さっきから変だぞ、ミヤタを殴ったりこんなとこに連れて来たり。何がしたいの」

疲れたように壁伝いにしゃがみ込み、大和は蹲る。この通路に押し込められてから、どうしてだか体が少し重怠いのだ。何もされていないはずなのにじわじわと意識の端が滲み始める。解れた糸を引かれていくように、何かがするすると解けていく恐ろしい感覚がするのだ。立ち上がってその感覚を振り払いたいのに、立ち上がれない。
そんな大和の状態を知ってか知らずか、牧野はじっとりと蹲る姿を見下ろしながら「大和さんも悪いんですよ」と優しく柔らかな声で言う。それは牧野が時折教会で子供たちに読み聞かせを行う時の声とよく似ていた。

「私がいるのに、宮田さんを選ぶから。貴方はいつもそうですね、私の手を払って、あの男のもとへ行ってしまう……いつも私を置いていくんです。私はそれが悲しくて寂しくて、すごく憎らしくなるんです。こんなに愛しているのに、貴方は私を愛してくれない。同じ顔なのに、私の隣にはいてくれない……」
「……慶?」
「ねえ、大和さん。貴方は私のモノでしょう?だって、いつも初めに私のところに来るんですから、そういう決まりのはずなんです。なのにあの男がいつも我が物顔で全て奪い去っていく。許されることではありませんよ、そんなの。だから罰が下るんです」

ふふ、と牧野が笑ったところでゆらりと大和の体が揺れ、力を失ったように倒れ込んだ。
牧野は驚くこともなく、そんな大和の体を抱き起しその場に座り込むと自分の方へと凭れ掛からせた。優しく髪を梳いて、頬に触れる。いつもは少し熱いくらいに感じる体温の持ち主なのに、その頬はひんやりとしていた。
その温度を牧野は知っている。血と死の臭いを纏った、破滅を齎す悍ましきモノの温度。

「ああ、大和さん……私の神様」

INTROJECTION第七耽 罪の囀り


宮田司郎 宮田医院 / 第一病棟看守室
2003年8月3日 / 23時32分45秒

牧野に襲い掛かられてから、頭の中に薄く広がっていた靄が濃さを増していた。誰かの声が聞こえる。少女の、何度も何度も聞いた馴染みの深い少女の声が何かを言っている。靄が濃くなるほどに鮮明に聞こえてくるそれは、だがまだはっきりと聞き取れない。何かを伝えようとしている、だがそれが何か分からない。
看守室の床に膝を付いたまま、宮田は朧な意識を彷徨わせていた。大和を追いかけなければ、ああ、でも声が、声が聞こえる。この声に従わなければいけない気がする。この声の導きの通りに行えば、“人殺しの宮田”ではなく人々を救い導く存在へなれるはずなのだ。そうなれば、きっと彼は笑んで褒めてくれる、いい子だ、と笑ってあのあたたかな手のひらで頭を撫でてくれるのだ。
ゆらゆらと危うげな仕草で立ち上った宮田は、しばらくぼんやりと立ち尽くす。それから放られたラチェットスパナを拾い上げ、白衣のポケットに仕舞うと夢現の顔のままふらふらと看守室を後にした。


* * *


牧野慶 宮田医院 / 第一病棟隔離室通路
2003年8月4日 / 0時38分59秒

サイレンのような叫び声のような、周囲に響き渡り揺るがす音が鳴る度、そうしてその時間が近付く度、少しずつ少しずつ彼が目覚め始めるようだった。ふと眠り込んで、目覚めてその顔を覗かせ、また意識を揺蕩わせ眠る。
くたん、とまた牧野に凭れ掛かり眠る大和の手に触れながら、牧野はまだ夢現の世界から抜け出せずにいた。乱れ混濁した意識の中を彷徨いながら、恍惚の笑みを浮かべる。
不気味で、悪夢のような冷たさを纏った陰鬱としたもの、悍ましい、底の見えない沼底で蠢く黒い何かがじっとその硝子の瞳の向こうから覗いていていた。素直ないい子は好きだ、と言って頬に触れた冷たい指先と額に寄せられたひんやりとした唇の柔らかさ。どろどろと自分自身が溶けて境目を無くし、全ての感覚が彼へと向かい滲んでいく、その心地良さ。

「やっぱり、貴方は私の神様だ、はは、あはは」

ぐらぐらとする頭で牧野は楽し気に笑い声をあげ、眠る大和を抱き締めた。温かな体は無抵抗に牧野へ身を預けている。力の抜けた体のずっしりとした重みが、彼が自分の腕の中に居る何よりの証拠のように思えてまた笑い声が零れてしまう。
強く抱きしめたまま、固いコンクリートの床に横たわった。なすがまま、自分の隣に横たわる大和の頭をゆっくりと梳くように撫で、耳朶に触れ、目元をくすぐる。それでも目覚めない彼になんだかだんだんと人形遊びをしているような気分になってじわりとその目が濁っていく。

「……お人形さんみたいですねぇ、大和さん」

ほんのりとした熱を取り戻している唇を親指でなぞり感触を確かめる。ふにりと柔く何度か押して、それから歯の隙間を割り開くように親指を差し込んだ。いけないことをしているという背徳感が、燻る熱を煽り背を押す。
半ば開かれた唇の奥、暗く見えないその奥のぬらりとした赤い舌。“何度も”触れ絡ませたことのあるあの甘い舌に触れようと、牧野は眠る大和の唇に自身の唇を触れ合わせた。やわやわと感触を味わうように食んで、舐めて、押し開いた歯の間を縫って舌を差し込む。歯列をなぞって頬の内側を舐り、奥で横たわる舌に触れるのだ。絡めて、纏った唾液を啜り、飲み込んで、己の唾液を流し込む。
ずっとずっと、彼がこの村にやってきて、自宅の私室で眠るようになってからずっと繰り返されてきた秘め事。牧野だけが知る、彼との甘い夜のやり取りにじわじわと多幸感がわいてくる。
脳裏に昼間、宮田に言われたことを思い出す。
―――さぞかし楽しかったのではないですか、求導師様
ええ、ええ、楽しいですよ、楽しいに決まっている。だって、自分だけのお人形が手の内にあるのだ、楽しくない訳が無い。
ねろりと唾液に濡れた舌を抜き去り、息を吐く。転がる懐中電灯のぼんやりとした明かりの中で、そこだけぬらぬらと光る唇は随分と淫猥だ。衝動のままに全てを暴いて蹂躙してしまいたい。けれどそうすればきっと、全て手のひらから零れていくのだろう。そうして零れ落ちた先は、あの忌々しい男のもとだ。
何度も何度も柔く触れるだけの口付けを繰り返しながら、そうすることで少しずつ少しずつ身の内で暴れ燃える欲を鎮めていく。
少し遠くから金属質な悲鳴が聞こえる。きっと宮田が戻って来たのだろう。何度か視界を覗き見ていたけれど、どうも向こうは向こうで意識が朦朧とでもしているのか牧野たちのもとへはやって来ず、ふらふらと病院内を歩き回りあれこれと集めては異形たちを沈めていた。恐らく先代の声にでも導かれているのだろう。牧野にも聞こえているその声は、ずっとこちらへ来てと呼んでいたから。
目を閉じて、意識を沈ませる。それからゆっくりと探れば、砂嵐の後に何かが見えた。看守室へと入って行くその人は、机に立て掛けられた蛍光灯を手にしまた出て行く。四足歩行で気味悪く動くモノを殴って黙らせ、また歩いて行く―――。
躊躇いのない動きにゾッとしながら、牧野は目を開け少しくらくらとする頭を振る。

「……けい?」
「ああ、起きましたか大和さん」

まだ寝ぼけたぼんやりとした顔で、ゆっくり瞬きしながら大和は牧野を見つめている。

「ここ、どこ……?」
「覚えていないんですか?」

身を起こす大和を手伝うように背を支えながら、牧野はその顔を覗き込む。心配そうな、無害な顔で。
そんな牧野の顔をぼうっと見ていた大和は、ハッと目を見開いて「ミヤタは」と聞いた。

「宮田さんですか?病院内を見て回ってくださってます。美奈さんは結局まだ見つかっていなくて」
「あ?いや、あれ……?」
「どうか……あ、やっぱりどこか具合でも悪いんじゃないです?大丈夫ですか?」
「具合って、なんのこと」
「覚えていないんですね……大和さん、宮田さんを追いかけていった後倒れちゃったんですよ。それで急遽ここ……隔離室の廊下なんですが、鍵がかかる場所が安全だからって貴方を宮田さんが運んで、それで私のことを呼びに来たんです。自分は美奈さんを探してくるから大和さんを見ていてくれって」
「リサは」
「理沙さんも別の鍵がかかる場所で待っているそうです」
「……慶、お前、ミヤタのこと傘で殴らなかった?」
「ええ、私がですか?どうしてそんなことを……」
「それは俺の方が聞きたい。でもお前、ミヤタのこと殴って、それで、」

確かに牧野が宮田を傘で殴打し、自分をこの通路に閉じ込めようとした。その記憶がある。はずなのに、牧野は全然違う話をし大和の話を否定した。本当に知らないような顔で、それどころかそんな話をする大和を心配そうに見てくるのだ。
見た。記憶がある。そう断言したいのに、どうしてか途中から記憶が曖昧に滲み、それが本当に起こったことなのか考えれば考えるほど揺れて薄れていく。

「大丈夫ですよ、大和さん。ゆっくり深呼吸して」
「記憶がぐちゃぐちゃになってる。訳が分からない。そもそもどうして俺はここにいるんだ、なあ慶。今は何年で、何時?」

考えれば考えるほど、自身の記憶を辿れば辿るほど、底の見えない穴があちこちにあって行き先が分からなくなる。積み上げてきた自身というものが揺らいで崩れていきそうで、その場から動けない。それなのに後ろから、飲み込んでしまえ、全て壊してしまえと自分そっくりな声が言うのだ。その声が背中を刺して、洞穴へ突き落とそうとする。
頭を抱え蹲り、脈絡のない話をする大和の背を撫でながら、牧野は来たるその瞬間を思いうっそりと微笑んだ。
2020.09.20