宮田司郎 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月3日 / 12時01分48秒
“私の”神様、そう言った牧野の恍惚に歪んだ瞳と甘く濁った声がじりじりと身の内を蝕むように広がる。つい今しがたまで抱いていた困惑も恐れも滲んで蝕まれていった。そうして残るのは、目の前の男へ向けた明確な怒りだ。
“私の”神様、だなんて、どの口で言うのだ。いつだって全てを見透かす瞳に怯え戦き、逃げ惑い、圧倒的にして絶対的な甘美な支配に背を向けたくせに。今更、それを手にしようとでもいうのか。
ゆっくりと飲まれるように思考が揺らぎ変質していく。
「この人は、牧野さん、貴方の神様ではない。そうでしょう?貴方はいつもこの人から逃げていたんだから」
「“何時”の話をしてるんです、宮田さん。“前”はそうだったとしても“今”は違う。現に大和さんは貴方のもとではなく私のもとにいるじゃあないですか、ねえ?」
「っは、無理矢理自分のもとに置いているくせに……。一体何を飲ませていたんです?大和に」
「何のことですか?」
「大和が言ってたんですよ、ここに来てから寝付きは良いのに寝起きが良くないって……ああ、求導師様が犯罪を犯すだなんてとんでもないことだ、はは、俺の手が汚いと言ったけれど、牧野さん、貴方の手も随分と薄汚れているんじゃないのか?」
獲物を甚振るような残忍で冷酷な笑みを口元にのせながら、宮田はこちらをじっと睨み据える牧野を愉快そうに見る。
「どうです、そうまでして繋ぎとめた彼の隣は。さぞかし楽しかったのではないですか、求導師様」
嗤笑し、追い詰めんとばかりに言葉を重ねようとした宮田の言葉を唸り声が遮った。
「うるっせえなあ……けんかぁ?」
寝起き特有の少し掠れた声が不機嫌そうに吐き出される。どうやら健やかな寝息を立てていた大和が目覚めたようで、低く唸りながらもぞもぞとその身を起こし出した。
「なんだよおまえらさぁ……ひとが寝てんのにまわりで騒ぐんじゃねえよ……」
ベッドの両脇に立つ二人を見やって、大和は顔を顰めた。俺を挟むんじゃねえ、と言いながらのろのろベッドから下り、固まってしまった体をほぐそうとストレッチを始めだした。漂っていた不穏な空気に気が付いているくせにまるっと綺麗に無視したその姿に、宮田も牧野もなんとなく毒気を抜かれ澱んだ空気が霧散していく。
ひとつ溜息を吐いて、宮田はベッド脇のパイプ椅子に再度腰を下ろし、誰も気が付かないほど小さく笑った。
いつだって自分たちは、この人に振り回されている。まるで台風みたいだ、全てを巻き込み壊して散らばしてしまう―――まだどこか霞の掛かる朧な思考でそんなことを考えながら、宮田は吐息に似た笑いを落とすのだ。
AWAKENING第六譚 彼の選択は
牧野慶 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月3日 / 13時21分02秒
大和が目を覚ましてからすぐ、診察室へ泣きながら人が飛び込んできた。宮田医院で働く看護師である恩田美奈と同じ顔をしたその女性は恩田理沙と名乗り、美奈の双子の妹であると言った。姉を探しているが見つからず、それどころか異形のモノに追われ逃げ、そうしてここに辿り着いたようである。この病院内に姉の姿を見た気がして入って来た、ということだ。
人に会えたことで今まで耐えてきた恐怖が一気に溢れ出したのか、理沙は泣きじゃくりながら話をし、そうして力尽きるように眠りに落ちた。診察ベッドへ運ばれぐったりと眠る理沙を眺めながら牧野が思うのは、揃った、ということである。
牧野、宮田、理沙、そして美奈、その四人が病院に揃った。この先に何が起こるのか、牧野は知っている。何が為され、どんな事態を招くのか、牧野は全てを知っているのだ。
ただ、ここにいる大和がどういう反応を見せるのかだけは判断しきれない。忌避するのか、それとも目覚めの一助として飲み込まんとするのか。宮田とこの後どうするかを話している大和の背をじっとりと見つめ、彼のうちに沈むモノを思う。どちらにせよ、大和と宮田は引き離すべきであろう。己が神となりし存在を確立させるために枷となるものを排除しなければならない。
ふ、と短く息を吐き雨に煙る窓の向こうを見る。その向こうに広がる赤い海と、そこから還ってくる人ならざるモノたち。恐ろしく美しき牧野の神は、どんな風にそれらを食み飲み込むのだろうか。その光景は目も背けたくなるほど凄惨で、背徳に満ち、そしてこの上なく官能的なものであろう。
牧野はふるりと身震いすると窓から目を逸らし、病院内を見て回ると言い出した大和へ付いて行くべく二人の会話に加わった。
海から還り全くの異形へと変貌を遂げた姉の姿に呆然とし、震え、戸惑いと恐怖を見せる理沙の姿と、その後を追いかけていった宮田の背を見送り、牧野は今にも駆けだしていきそうな大和の腕を掴んだ。
「大和さん」
「離せ、俺ミヤタのこと追いかけないと」
「理沙さんを置いてですか」
「お前がいるだろ」
「私ひとりで彼女を守れる自信がありません、お願いです、ここに居て下さい」
「……すぐ戻ってくるから」
腕を掴む牧野の手をぎゅうっと握り、幼子に言い聞かせるような口調で大和は診察室で待っているように言う。鍵を掛けて、二人で大人しくしてろ、と。そうして自分は宮田の後を追いかけるのだ。どんなに哀れっぽい顔をしても恐らく大和は引かない。その証拠にもう彼の意識は向こうへと行ってしまっている。
牧野は縋るようにすぐに戻ってきてくれ、と言い、重い足取りで理沙を連れて診察室へ入った。すすり泣く理沙をベッドへ座らせながら、その華奢な首をへし折ってやりたくて仕方がない気持ちでいっぱいになる。この女さえ今いなければ、大和と一緒に居られた。あの男なんぞと共に居させることは無かったのに。こうなることは分かっていたけれど、今の彼は自分を選んでくれると思っていた。牧野が心配だから、と隣にいてくれると思っていたのに、大和はあっさりと手を払って宮田を追いかけてしまった。
なんで、どうして、私の手を取ってくれない。選んでくれない。こんなにも求め焦がれているのに、するりと擦り抜けてその背は遠のくのだ。ああ、ああ!どうしてこんなに儘ならない!
「あ、求導師様……!?」
身を翻して診察室を出て行く牧野の背に、理沙の悲鳴染みた声が刺さる。だがそれは彼の耳には届かない。
廊下に落ちていた古びた傘を手に取る。どこにでもあるような傘は古ぼけているが丈夫そうで、多少振り回して硬いものを打ち付けても壊れる心配は無さそうだ。金属製の石突きは少しばかり錆びているが問題は無いだろう。
牧野はそれを握りしめ、宮田の後を追いかけた。
2020.09.13