牧野慶 大字粗戸 / 眞魚川岸辺
2005年8月3日 / 5時03分07秒
ぐ、と体が浮き上がる様な感覚と、何かが流れ込んでくるような感覚に牧野は目を開けた。少しの吐き気と頭痛に顔を顰めながら身を起こし、辺りを見回す。眞魚川の岸辺だ。飲み込まれた時、牧野は必ずこの場所で目覚める。
血のように赤くなった川の水を横目に牧野は川岸から上、村の内部へ入るための石段を駆け上がり異形のモノ共の死角を通るように家々の裏を抜けていった。慣れ親しんだ村内の景色とは随分と違うが、いやというほど覚えのある風景の中を迷わず進む。呻き声と何かを言う不明瞭な声を聞きながら牧野は真っ直ぐ村唯一のバス停へ向かい、待合所の屋根伝いに上の道、刈割に続く道へ入った。
目指すのは教会だ。きっとそこに大和はいる。儀式当日の晩、家で大人しくしている時の大和は大抵教会で目覚めるようなのだ。今回大和が牧野の言いつけを守り自宅に居てくれていれば、彼は今頃教会にいるはずなのである。
全く迷いのない足取りで、牧野は真っ直ぐ刈割へ続く道を駆けて教会へと向かって行った。
工藤大和 刈割 / 不入谷教会
2003年8月3日 / 4時44分44秒
何かに呼ばれる声に目を開けた大和は、虚ろな視線を宙に彷徨わせその声の主を探す。もう随分と見慣れてしまった天井は教会のもので、大和はぼんやりとした顔のまま身を起こした。どうやら長椅子に横たわっていたようだ。
何の音も聞こえない。まだ仄暗い窓の向こうはしとしとと雨が降っているようだが煙ったように霞んでいてよく見えない。取り残されたような静寂の中、また誰かが呼ぶ。細く歪んだその声は、遠くから響くように聞こえていた。
ゆらゆらと不安定に立ち上がり、夢現の足取りで大和は誰かに手を引かれるように祭壇の方へと歩いて行く。燭台の置かれた祭壇の横を通り過ぎ、そうして錆びた、しかし堅牢な鉄格子の前に立った。この向こうは神代の家に繋がっている、と言っていたのは誰だったろう。黒い服の求導師か、黒いワンピースの少女か。はたまた赤い求導女か。
重く滑った生臭いような空気が漂ってくるその格子の向こうに広がる洞窟、そこからまた、誰かが自分を呼んでいる。そうして、はいっておいで、とでも言うように、軋んだ金切り音を立てながら鍵が閉まっているはずの格子戸がゆっくりと開いた。
虚ろな表情で、大和はゆっくりと身をかがめてその戸を潜り、洞窟の中へと這入っていく。
You're my GOD.第五誕 ×回目の神様
宮田司郎 蛭ノ塚 / 水蛭子神社
2003年8月3日 / 10時43分52秒
宮田が大和を見つけたのは偶然であるはずだが、必然的とも言えた。なんとなく何かに呼ばれるようにして来た蛭ノ塚にある水蛭子神社の長い間放置され荒れ果てた社内で、宮田は大和を見つけたのだ。
手足を投げ出しくったりと横たわった大和の腹部はゆっくりと上下に動いており、ただ眠っているだけのようだった。覗き見れば健やかな寝息が聞こえ、子供のように無防備であどけない寝顔がある。彼の寝顔は初めて見るはずなのに、その顔に見覚えがあった。もう何度も何度も見ている、そう思えるのだ。
宮田はしばらく大和を見つめ、恐る恐るその頬に手を伸ばし触れた。少しひんやりとした頬は柔らかく、触れているうちにほんのりとあたたかくなっていく。すっきりとした顎のラインに、薄い耳朶、滑らかな首筋。ゆっくりと形をなぞるように辿り、その指が喉仏に触れた時、微かな呻きがその唇から零れた。
眉が寄せられて、睫毛が震え瞼が持ち上がる。そうして現れるのは、宮田を惹きつけてやまない鮮やかな瞳だ。
「……ミヤタ?」
「おはようございます、工藤さん」
「うん……」
ぼうっと宮田を見上げたまま一向に動く気配の無い大和に、宮田は少しだけ溜息を吐いて背と床の間に手を差し込んで半ば強引にその身を起こさせた。だが起こした体は力が一切入っておらずくにゃりと宮田へ凭れてくる。
「工藤さん?」
「なんか、チカラはいんねえ」
くた、と宮田へ凭れ掛かったまま呂律の怪しい口調で大和はもにゃもにゃと何かを話している。その半分も聞き取れなかったが、どうやら何故自分がここにいるのかよく分からないようだ。儀式のあった夜は大人しく牧野の家で寝ていたのに気が付けば教会の長椅子に横たわっていて、そうしてまた気が付けばここにいた。そういうことらしい。
人間は瞬間移動は出来ない。ならば彼自身か、はたまた誰かの手によって彼がここに運ばれたことになるが、体格の良い男をそうやすやすと運べる人間は村に少ない。ならば彼自身が移動した、ということになりその記憶がないというのならば夢遊病のような持病でもあるのだろうか。宮田は大和の言葉にそこまで考えて、やめた。
今はそれどころじゃない。
「とりあえず、ここは崩れそうで危険なので違う場所に行きましょう」
「しばらくまってくれ」
「いえ、背負っていきますので動かないでください」
「ぅわ、は~力持ちだね、ミヤタ」
オトナになってから背負われるのはじめて、と楽し気に笑う声がすぐ耳元でした。掠める笑みの吐息がくすぐったく、じくじくと痒いような痛いような熱を底の方に積み上げていく。どこか夢現の、呂律の怪しい溶けた口調で大和は取り留めのなく脈絡もない話をとろとろと続け、少しずつどうにもしようのない熱を宮田の中へ降り積もらせていった。
内を炙り焦がすようなじりじりとしたそれは、何故か懐かしさを感じるほど馴染みのあるもののように思える。俺はいつだってこの人にどうしようもなく焦がれ、手を伸ばし、その手に触れることを希っていた―――そんな気がして、宮田はこのまま二人、どこかに隠れてずっと過ごしていたい感情に囚われ始める。この不気味な場所に来る前から大和に惹かれていたが、ここで目覚めてから些か不自然なほど急激にその落下速度は増していた。ずぶずぶと沼に沈んでいくように、どう足掻けど成す術もなく引っ張られて溺れ沈んでいくのだ。
自身の内に溢れ出していくどろどろとした熱に戸惑いながら宮田は大和の話に適当な相槌を打ち、砂利道を進んでいく。だんだんと言葉の感覚が間延びして、ふ、と声が途絶えたのは、随分と歩いてからだ。もう少し歩けばここに来る前に見つけた、二十七年前の災害で土砂に埋まったはずの旧病院がある。しばらくそこで大和を休ませ回復したらこれからどうするか考えよう、と宮田は静かになった大和を背負い直し歩みを進めた。
出来る限り綺麗にしたとは言え、もう何十年も使っていない診察ベッドは埃っぽい。そんなところに寝させるのは少し可哀想だが致し方ない、と背負ってきた大和をベッドへ横たえ、息を吐く。途中目を覚ますかとも思ったが、大和はあの後一度も目を覚まさなかった。宮田のなすがまま、くたんと力の抜けた体で全てを委ねてくる。その温度と重みがどうしてか心地良くてベッドへ横たえた後も離れがたい。
起きるまで傍に居たくてベッド脇の錆び付いた丸椅子に腰かけ雨で湿った髪に触れながら、ぼんやりと宮田は思い出していた。
あたたかな手が宮田の頭を撫でて、優しく髪を梳いてくれる。いい子だねと子供を褒める様な慈愛に満ちた優し気な手付き。ゆっくり頭を撫でて、それから頬や目元を撫でてくる指が意識をとろとろと溶かしていくのだ。優しく手を引いて、固い診察ベッドに座らせて血と泥で汚れた手を拭いてくれる。小さい子みたい、と笑みながら綺麗に拭きあげて、そうしておいでと言われるがままに狭いベッドで共に眠った。あたたかな腕の中はとても居心地がよくて、背を撫でる手にとても安心するものだった。
現実に起こったことだとはとても思えない、けれど、どうしてか記憶に残っている。記憶の中で宮田に触れ、撫で、共に眠ったのは大和だ。
目の前ですやすやと幼子の如き無防備さで寝息を立てる顔を眺めながら、自身の中にある記憶に浸る。ここの、このベッドだった。今大和が眠るベッドで、宮田は彼に抱きしめられながら束の間の静穏に揺られていたのだ。
体の横に投げ出された何の汚れもない指に触れて、その掌に自身の手を重ね、力の抜けた指に指を絡めて、握りしめた。薄い皮膚越しに伝わるあたたかさは記憶のものと同じように思える。この手に、俺は慈しまれていた。触れられ、愛でられるのは俺だったはずだ。なのにどうして今、この人はあの何の役にも立たないどうしようもない男と共にいるのだろ。
重ね絡めた手に額を付け、どこか夢現の霞の掛かった頭で眠る男が自分の元へ“戻ってくる”ことを祈った。
牧野慶 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月3日 / 11時51分45秒
どこにも大和の姿が無くて、まさかと思って戻って来た旧宮田医院で牧野は目の前の光景に吐き気がした。一度目に来たときは誰もいなかった診察室で、捜し求めていたその人は眠っていた。同じ顔をした血と泥で汚れた男に髪を撫でられながら。
片手がさながら恋人のように絡められていて、それに気付いた途端、どうしようもない怒りで眩暈がする。牧野の存在に気付いているくせに知らぬふりで触れ続ける男のその頭を、牧野は手にしていた懐中電灯で叩き割ってやりたくなった。
「触らないでください、そんな汚い手で」
近寄り、引き離すように腕を取って強引に立たせれば冷淡な目が牧野を見た。それから愉快そうに口角が少し上がって、嘲笑になる。
「お優しい求導師様がそんなことを仰るなんて……」
「手を離してください、彼は貴方のような人が触れて良い方ではない!」
「静かにして下さい、起きてしまう」
ああ、なんだって今自分は懐中電灯しか持っていないのだろう。刃物でもあれば今すぐにでもこの忌々しいことばかり吐く喉を掻き切ってやるのに。
ぐ、と眉間の皺を濃くした牧野だが、ベッドに寝転んでいた大和の目が開いているのに気付いた。どこも見ていない、何の感情もない伽藍洞の眼。その眼がゆっくりと窓へと向けられ、瞬いた。
「……大和さん?」
こちらのことをまるで認識していないその様に声を掛ければ、宮田も振り返り見る。大和はただ窓の外を見ていた。
「大和さん、どうしたんですか」
宮田が座るのとは反対側から回り込んでその眼を覗いた。そうしてそこに牧野はあの洞窟を見る。とても恐ろしくて、気味が悪くて、吐き気を催すほど忌まわしい、あの暗闇―――。どろどろ蠢く黒いナニかが、その奥底で息を潜めこちらを窺うのだ。飲み込むその瞬間を、窺う。
目覚めようとしている。美しくも恐ろしい、全てを飲み込み破滅させるものがその瞳を開けようとしていた。
人知れず何度も触れた柔らかな唇が、ゆるりと開かれ囁くように「マキノ?」と呼んだ。こちらを認識した瞳が、それ自体が発光しているように冴え冴えと輝く。不吉で、不幸を呼ぶ煌き。どこかで心待ちにしていたそれに魅せられ、牧野は恍惚の滲む顔で跪き祈るように「慶と呼んでください」と熱の滲む声で言った。
無毒で無害なままの可哀想な彼であれば、愛でて貪って閉じ込めてしまおうと思っていた。けれど神にも等しき人ならざりし悪夢たるモノへと変貌するのならば、それは逆転する。己が神としその寵愛を賜りたい、かつて同じ顔の男がそうだったようにただひとつの“特別”として傍に置かれたい、食まれ飲み込まれてしまいたい。牧野はずっとずっと、そう思っていた。あの父の葬儀で全てを思い出してから、彼が現れるのを心待ちにしながら、牧野はずっとずっと自分だけの可愛い人形か、自分だけの恐ろしくも尊き神を待っていたのだ。
そんな牧野を愉快そうな目で見て、何か言おうとしたのかその口を開く。だが音になる前に男はふ、と目を閉じ、沈黙する。
そうして漂う異様な空気を裂かんとばかりに、脳を揺らす叫び声に似たあのサイレンのような音が辺りに響き渡った。
目の前で再び寝息を立てる大和の姿と、歪んだ笑みを浮かべている牧野に、宮田は困惑と理解不能なものに対する怖れを抱く。今、一体何が起こっていたのだろう。数分にも満たない時間で、何かが目覚め、そうしてまた眠りに落ちた。
「今のは、なんですか」
顔を強張らせた宮田に、牧野は「解らないのですか?」と嘲りの含んだ声で微笑んだ。
「神の目覚めですよ、“私の”神様が、目覚めようとしているのです」
2020.08.30