牧野慶 刈割 / 不入谷教会
2003年7月27日 / 16時23分39秒
最初はひとり分ほど感覚を開けて座っていたのが、今はすぐ横に座ってくれることだとか。無防備で無邪気な笑顔をよく見せてくれるだとか。触れても全く逃げも嫌がりもせず、撫でればくすぐったそうに笑うことだとか。警戒心の強い獣を手懐けるように、毎日毎日少しでも時間があれば共に過ごしていた成果だな、と牧野はにこにこ笑いながらしみじみと感じていた。
教会前の花壇で子供たちときゃあきゃあ楽しそうに庭いじりをし、遊んでいる大和を眺めながら、牧野は自分の思い描く通りに進んでいることに満足げな顔をする。表情の変化を見逃さないようにしながら、“今まで”の記憶を頼りながら、少しずつ少しずつ彼との距離を詰めてきたのだ。やっと、手を伸ばせば触れられる場所まできた。
たまに宮田のところに遊びにいったり、石田と飲みに行ったりもするが、必ず牧野のところに帰ってくる。前のように黙って家を抜け出すこともない。ああ、なんて素晴らしいのだろう。
「慶~、こいつら送ってくるから!」
上機嫌な様子で今日の日誌を綴っていた牧野に、大和が戸口から声を掛けた。時計を見ればそろそろ十六時半、子供たちの帰る時間だ。牧野の返事を待たずに大和は身を翻して子供たちと楽し気に話しながら石段へ向かっていってしまった。
子供たちと大和のいなくなった教会は随分と静かでもの寂しい。八尾も今は上粗戸へ行ってしまっているのでひとりきりだ。八尾は大和が来てからあまり教会内にいない。多分、大和が苦手なのだろう。本能的に察しているのだ、彼が自分にとってどういう存在となるのか。
いつかの彼女が“あの人、なんだか怖い感じがする”、と言っていたのを覚えている。“全部滅茶苦茶にして、壊して駄目にしてしまいそう……あの人の体の中には、きっと恐ろしい地獄が潜んでいるんだわ”、と暗く怯えた目をしていた。その通りですよ八尾さん、と牧野はぼんやりと祭壇裏の洞窟を見つめ思う。
彼の中には、祭壇裏の洞窟と同じものがあるのだ。ここにいる今の彼の中にもそれはあって、それが見えるか見えないかの違いなのだろう。時折大和はどこかをぼんやりと見ている。そういう時の彼が纏う空気はどこか血の匂いがするのだ。
日誌を綴る手を止め、どれくらいぼんやりしていたのだろう。大和と誰かの話し声が聞こえ牧野は急いで卓を離れた。この声は宮田だ、どうして宮田と大和が共に教会へ来るのだ、そう思ったところで、今日が何日であるか牧野は思い出す。
そうだ、今日、私は宮田さんから“知らせ”を受けるのだった。
時計を見れば、時刻はもうすぐ十六時四十五分になる。宮田が、神代の使いが来る時間だ。
「あれ、何してんの?」
教会の扉の前まできた大和が、扉の近くに立つ牧野を不思議そうに見ている。その隣に立つ宮田の姿。いくつもの記憶がぐるりと巡って吐き気がした。この強く美しい人の隣には、いつだってこの同じ顔をした男が立っていた。血と泥に汚れたこの男が。
握りしめた手のひらに刺さる爪の痛みがどうにか牧野をそこに縫い留める。この痛みが無ければ、きっと牧野は目の前の同じ顔をした男に飛び掛かりすぐさま絞め殺していただろう。
「慶……?」
異様な様子の牧野に大和が眉を寄せる。宮田は少しだけ可笑しそうに口の端を歪めた。
「牧野さん、どうぞこちらを」
一歩牧野へ近付いて、書状を差し出してくる。神代からの“儀式”の知らせだ。
返事をして受け取れば、ご成功をお祈り申し上げますなどと冷え冷えとした形だけの言葉を残して宮田はすぐに去って行った。またな、と暢気に手を振る大和へ微かな笑みを返し石段を下りていく背中。ここに大和がいなければ、突き落としていただろう背中だ。
力の入った手の中で、書状の端が折れ曲がる。ああ、本当に、腹立たしい。
All obeys him第四譚 影の沈黙
宮田司郎 上粗戸 / バス停前
2003年8月2日 / 17時08分23秒
「なあ、ミヤタ。俺はこれから何が起こるのか知っている気がするんだ」
ぼうっとバス停の待合ベンチに腰掛ける大和を見つけたのは、偶然だった。
今日は神代の祭事があるということで午前で病院を閉めたのだが、その後にいつも往診している家から電話が入り急遽上粗戸まで診察に来ていた。それを終えた帰り、偶々見たバス停に誰かが座っているのが見え、それが大和のように思えて行ってみれば彼がぼんやりとした顔で座っていたのだ。
「俺が何でこの村に来たのか、まだよく分からないけど、昨日声がしたんだ。全部壊しちまえよって」
「……」
「今まで靄が掛かったみたいによく聞こえなかったのに昨日ははっきり聞こえた。それ、俺の声だったよ」
どういうことなんだろうな、と言って目の前で立ち尽くす宮田を見上げた男の目は、至極愉快そうに笑っていた。自分の膝に肘をついて、じっとりとこちらを見上げる瞳から目が逸らせない。絡めとられて、引き摺り込まれる。
その目が恐ろしくて、漂う空気が恐ろしくて、宮田は一歩後退ろうとした。なのに足は反対に、目の前の男へ一歩近づいてしまう。
「おいで、“司郎”」
ふ、と足から力が抜けて、宮田は男の前に膝をついた。ふわふわと意識が定まらなくなる。優しく甘やかな笑みを見せる男にすり寄るようにその脚へ近寄れば、慈しむように頬を撫でられた。いい子だ、と優しく触れて来る手にどんどん思考が鈍っていく。
男が宮田の名前を呼んでくるだけで、どうしてか胸がいっぱいになるほどの幸せを感じてしまう。甘く弓なりになった瞳の奥で、黒々としたものが蠢いていた。
「“司郎”、俺を迎えにおいで」
牧野慶 上粗戸 / 眞魚岩
2003年8月3日 / 0時00分00秒
ウウゥゥゥウ―――
騒めく人々の声と鳴り響くサイレンのような音、そして強い揺れ。その時が来たのだ。遠のいていく意識に身を任せ、牧野は家にいるはずの大和が無事向こう側へ渡れるように祈った。
2020.08.04