宮田司郎 宮田医院 / 院長室
2003年7月6日 / 12時34分58秒
昼食をつつきながら、宮田は今朝方のことを思い出していた。朝の早い時間に牧野が見知らぬ青年を連れてここへやって来たのである。男はつい昨日この村にやってきたらしく、暫くこの村に滞在するからとわざわざ宮田のところまで挨拶に来たのだ。
鮮烈な海の瞳、日本人とは異なるような青っぽい白さをした肌、緩やかな弧を描いた唇。異国の血を引いていることをまざまざと感じさせる風貌のその男は工藤大和と名乗り、現在は牧野の家に身を寄せているという。
暫くの間よろしく、と笑ったその顔はどこか子供のようで、何故かその笑みに懐かしさと焦がれるような熱がじわりと胸に浮かんだ。会って数分と経たないような人間に抱く感情ではない。だのに何故か愛おしさすら感じてしまいそうな熱に、宮田は困惑に眉を寄せた。どうしてこの顔を知っているような気がするのだ、会ったことがあっただろうか?いくら探れど宮田の記憶の中に、この異国の顔をした男はいない。
どうして、と内で混乱しながらも宮田は冷静な顔を崩さずに大和の言葉に答え、去っていくその背を見送ったのだが、それからずっとあの男のことが思考を占拠している。
俺はあの瞳が柔くとけるように綻ぶのを知っているような気がした。黙っていれば冷たく威圧的に見える顔が、笑えば途端に無邪気な子供のようになるのも知っていた気がするのだ。彼とは今日、初めて会ったはずなのに。
「ふう……」
息を吐いて、箸を置く。食も進まない。
今日の夜か、明日にでももう一度彼に会いに行こうか。そうすれば何か分かるような気がする。この肚の内に巣食う靄のかかった何かも判別がつくだろう。そうしよう、それがいい。
宮田はもう一度息を吐いて、進まない食事にまた手を付けた。
The Day the World Stood Still第三眈 静止した時の中で
宮田司郎 上粗戸 / 村上青果店前
2003年7月6日 / 17時11分03秒
宮田の望みは、彼自身の思うよりもずっと早く叶うこととなった。
二件目の往診を終えた後の帰り道、八百屋から出てきた大和と偶然鉢合わせたのである。村の道を覚えることも兼ねて夕飯の買い出しに来ている、と答えた大和はまだここに来たばかりだというのにすっかり住民に受け入れられているようだった。八百屋の主人からおまけだと林檎を貰いにこにこ笑っている様に、随分と人の懐に入るのが上手いのだなと感心してしまう。
「はい、二個貰ったから院長先生にもお裾分けな。おじちゃんありがと、またね」
八百屋の主人に手を振り、丸く艶々とした林檎を手渡され戸惑う宮田の腕を引いて大和は歩き出す。
「この後も仕事?ちょっと聞きたい事あんだけど」
「いえ、今日はもうあと事務処理だけですが……」
「ん、じゃあ……あ、あそこでちょっと話しよ」
この村唯一のバス停にある待合ベンチへ腰を下ろし、大和は林檎を買い物袋の中へと仕舞いながら宮田へ「今朝聞けなかったんだけど」と話し始める。
「記憶障害ってどういう原因でなるもんなの」
「……記憶障害?」
「あんまり人に言わない方がいいって言われたんだけど、まあアンタ医者だしいいだろ」
うんうん、と勝手に何かを納得し、大和はこともなげに自身が記憶喪失状態である話をした。気が付けば教会のベンチに居り、どうやってこの村に来たのか、何をしに来たのかも全く分からない。だが何かをするために来たのだ、と。
宮田はその話を聞きながら、どこかでそんなような話を聞いた気がしていた。他でもない、この男から。
「いや、記憶障害っていうのも少し違うのかもしんないんだけど、とりあえずまあ記憶は無い。無いっていうか、ん~、……まあお前ならいいか。俺の記憶は二〇〇五年の七月五日に、職場でお茶飲んでるとこで終わってんだよ。その後気がついたらこの村にいんの。ね、どう思う?」
緩やかな弓なりになったその目は、鏡のように無感情にこちらを映していた。ただこちらの反応を測るだけの無機質な眼差しは透明で、見透かされる恐怖をこちらへ与えてくる。ぐっと伸し掛かられるような圧迫感に宮田は本能的に後退った。
住民たちの話声も生活音も、全ての音が遠のいて自分と目の前の男だけが取り残される。少しずつ意識が乱れて思考が混濁していく。じわじわと周囲が曖昧になって、感覚の全てが男へ向かっていくのだ。今自分がどこに居て、どうしているのかすら分からなくなっていくような、意識の端からとろとろと解けて滲んでいくような、怖ろしいのに心地よい感覚。
「時々、声が聞こえるような気がするんだ。でもそれはよく聞こえなくて、何を言ってるのか分からない」
ぱたりとゆっくり瞬いた瞳は冴え冴えと輝いている。そこに一瞬、何かの影が過った。不気味で、悪夢のような冷たさを纏った陰鬱としたもの、悍ましい、底の見えない沼底で蠢く―――
「あ、大和さん!帰って来ないと思ったらこんなところにいたんですか」
異様な熱を孕み漂っていた空気が掻き消え、宮田ははたと目を瞬いた。今、何かに触れた。今のは何だったのだ。呆然と大和を見つめる宮田に、大和は柔く微笑むだけだった。
「あれ、宮田先生?」
「ああ……、牧野さん」
宮田が一瞬触れたものを掻き消し断ち切ってしまったのは、こんな熱い時期でも黒い求道服姿の牧野だった。少し不思議そうな顔で自分を見ていた牧野は、宮田の横に置かれた大きな往診鞄にきゅっと眉を寄せ大和を見た。
「駄目ですよ、大和さん、お仕事の邪魔をしては」
「してない。今日の往診は終わったって言ってたし」
「往診だけがお仕事ではないのですよ、色々な書類仕事だってお医者様にはあるんです」
「ミヤタは良いって言ったぞ。それにそんなに長時間話してたわけじゃない」
目の前で言い合う二人は随分と親し気で、そこはかとない不快感を宮田へ与えてくる。自分と同じ顔が、自分よりも大和と親しそうにしている、それがどうしてかとても気に食わないのだ。
「工藤さん、何かあればいつでもいらしてください。往診が無ければいつも病院にいますので」
彼の意識を自身へ引き戻すように会話に割って入り、往診鞄を手に立ち上る。頷き、またなと手を振る大和へ会釈にも満たない返事をして、牧野と目が合った。
一瞬、その目が冷ややかに歪んだような気がした。敵意とも殺意ともつかない、不愉快気な眼差し。多分、自分も同じような目をしていただろう。すぐにいつものように会釈し合って背を向ける。
また始まった二人の言い合いを背に、宮田は牧野はこんな顔をする人間だっただろうかと考えていた。おどおどとして他人の顔色を窺う同じ顔が脳裏を過る。だがそれが、いつ見たものなのか、それどころか見たことがあるものなのか分からない。ただ、どうして記憶の片隅に自分とは似ても似つかない、頼りなげな顔をした兄の顔が浮かぶのだ。
白衣のポケットへ入れた大和からのお裾分けに触れながら、分からないことばかりの現状にうんざりと息を吐いた。
牧野慶 不入谷 / 牧野家
2003年7月6日 / 18時47分13秒
良くない。やっぱり会わせるべきじゃなかったと思ってしまうけれど、こんな狭い村の中じゃあいずれ何処かで出会ってしまうだろう。ああ、嫌だ。あの冷ややかな敵意に満ちた目、思い出すだけで腹立たしい。
ふう、と苛立ちを吐くように息を吐いて、牧野は淡々と夕飯の支度をしていく。
迷子になってやいないかと夕飯の買い出しに行った大和を迎えに行ってみれば、彼は宮田と二人で何かを話していた。誰もいないバスの待合で、二人っきりで。何の話をしていたのかまでは聞こえなかったけれど、ただならぬ空気を醸し出していたのは感じていた。
ああ、腹立たしい。
「慶?」
背後から聞こえた声に、牧野は我に返った。鍋はもう煮だっている。
振り返れば、先に風呂へと入っていた大和が調理途中でじっと固まっていた牧野を不思議そうな顔で見ていた。火を止めながら何でもないと誤魔化し、まだ水気を含んだ髪をちゃんと拭くように言いつける。
「油断してると夏でも風邪を引いてしまいますからね」
「分かってるよ、慶、なんかママみたいだな」
はは、と笑い髪を拭きながら後ろの食器棚からコップを出して、冷蔵庫の麦茶を飲む背中を牧野はじっと見つめていた。父の服だ、と言って貸し与えた、牧野がもともと彼のために用意していた服を纏った後ろ姿。半ズボンから伸びるしなやかな白い脹脛と、締まった足首。ごく普通の服を着ていても、どうしてこの人はこんなに欲を煽るのだろう。
牧野の昏く澱んだ目に気付かず無防備な振る舞いをする姿は、じりじりとこちらを炙ってくるようだ。いつか爆発した時、彼は一体どんな反応をするのだろう。拒絶するだろうか、それともあの自分と同じ顔の男にしたように、受け入れてくれるのだろうか。
目を逸らし、夕飯の支度を再開した牧野は、いつか来るその日を思い薄く笑った。
2020.08.03