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牧野慶、工藤大和 上粗戸 / 駐在所前
2003年7月5日 / 19時41分28秒

遅い時間ということで簡単な挨拶のみを行った神代の家でも、その帰り道に少し遠回りしながら回った村の様子や住民たちと会っても、大和の反応に妙なところは無かった。知らない場所に居る、ただそれだけしか感じられない。戸惑いと未知なものに対する興味、好奇心……そういったものは感じるが、そこに既知の空気は微塵も無かった。
牧野は今現在の大和は、本当に何も知らない青年なのだと確信し穏やかな笑みを濃くする。たとえ全てを知り、全知全能の神たる脅威を示してきても牧野の大和へ対する感情は変わらないだろう。だが、何も知らずただ因果律に飲まれ翻弄される彼の姿はなかなかどうして可哀想で、“そそる”のだ。

「ここが村の駐在所です。今は前川さんという方と石田さんという方がいまして、石田さんは大和さんと同じくらいの歳だと思うのでお話も合うんじゃないかと思います」

署の方へ歩きながらそう説明する牧野の言葉に、大和からの返答は無かった。何か気になるものでもあったか、と見れば署の横に建てられた村の案内図などが貼られた看板をじっと見ている。その視線の先にあるのは、この村の中心部を流れる眞魚川の護岸工事の案内であった。

「どうしました、大和さん」
「……いや、なんでもない」

困惑に揺れる瞳。
この場が、本当に全く知らない場所なのだと改めて感じ、どうしてそんな場所にいるのか全く分からないことが更に混乱を強める。何故こんな知りもしないところに自分がいるのか、何を成さなければならないのか。何か、とても大切なことを忘れてしまっているような気がする。大和は言いようのない空虚感を胸に感じながら、牧野の話に相槌を打った。
どうしてか目の前の男に、お前は何か知っているんじゃないのか、と問いかけて揺さぶりたくなる。お前の知っていることを全て教えろと詰め寄って、吐き出せてしまいたい。けれど自分がどうしてそう感じるのか全く分からず、何を根底に置いて揺さぶればいいのか分からず、大和はただ少し前を歩く牧野を見つめるのだ。
何か、とても厭なこと巻き込まれようとしている。大和が確信を持てるのは、その予感だけだった。

Detective's Premonition第二譚 夜、逃げ出したい心


牧野慶、工藤大和 不入谷 / 牧野家
2003年7月5日 / 20時38分56秒

狭い村内とはいえあちこちを回ったこともあり、牧野の自宅へ着いたのはすっかり遅い時間となってしまった。牧野は玄関の鍵を開け大和を家の中へと誘いながら、待ち望んだこの目の前の光景をじんわりと噛み締める。

「ここが居間で、あちらの方に台所があって、この廊下の突き当りにお風呂と御手洗いがあります」
「結構広いのな」
「まあ、昔は家族で住んでいましたので……二階が寝室や客室なのですが、そのぉ、客室はもうずっと使っていなくて物置にしてしまっているんです」

大和を連れて二階への階段を上り、客室であった場所を開けて、この通りなんです、と雑多なものが詰め込まれた様を見せる。この部屋は、大和が牧野の家へ世話になる時は必ず大和の部屋となっていた場所だ。ここで彼は寝起きし、時には窓から抜け出し村内を歩き回って、宮田の元へと向かっていた。
牧野はその部屋を潰し、置いてあった客用の寝台も処分している。それは、もし大和が牧野の望むとおりにこの村へとやってきて、牧野の家で世話になると決まった時、出来るだけ彼を自身の管理下に置くためだ。
二階にもう一つある部屋は現在牧野の私室兼寝室となっており、あらかじめ窓は半分までしか開かないようにしてあった。その為窓から抜け出すことは出来ず、玄関から出るにしても階段を通ることとなるだろう。そうなれば、この古い家だ。それなりに大きな軋み音が鳴るので絶対に気付くだろう。こっそり家を抜け出すのは至難の業となる、というわけである。

「なので申し訳ないのですが、こちらの部屋をしばらく大和さんの部屋としてお使いください」
「え、この部屋、慶の部屋じゃないのか?」
「ええ、そうです」
「そうですって……慶はどうすんの?どこで寝んの?」
「居間で寝ようかと。一応お布団はありますし」
「じゃあ俺がそっちで寝るよ。慶はベッドで寝な」
「それは駄目です!」

キッパリとした強い口調に、大和が吃驚したようにキュッと眉を上げた。その反応に牧野は一瞬気まずげに目を逸らしたが、もう一度駄目です、と囁くような小さな声で言う。

「いや、まあ、アンタが良いっていうなら甘えさせてもらうけど……」

戸惑いに眉を下げ、大和は牧野の様子を窺いながらも頷いた。牧野はとりあえず彼が頷いたことに安堵し、先程のように穏やかな笑みを浮かべ「では少し遅くなりましたが御飯にしましょう。胃もたれしても困るので軽いものをご用意しますね」と大和を部屋へ残し先に一階へ下りていく。
残された大和は、牧野の態度を妙に感じて落ち着かない心地で部屋を見回した。寝台と簡素な机と椅子、小さな箪笥しかない質素な部屋だ。ずっと暮らしている割には物が無く、どういう人物が住んでいるのか全く想像させない生活感の薄さがある。ちらりと見た居間も小さなテレビと卓袱台、少しばかり本の入った棚くらいしかなかった。村の案内の最中に声を掛けてきた村人たちからは慕われている様が感じられたし、子供にも好かれている様だったのに、この部屋からは何も、あたたかさも冷たさも何も感じない。
あの求導師などという男は一体何なのだろう。ざわざわと落ち着かない。何故か今すぐにでもここから逃げ出してしまいたくなる。この窓から逃げて、そうして―――そうしてどこに行くのだろう。
しん、と静まる部屋で途方に暮れて立ち尽くす。牧野が呼びに来るまで、大和はただぼんやりと暗い窓の向こうを眺めていた。
2020.08.02