牧野慶、または吉村孝昭 刈割 / 不入谷教会墓地
1989年2月4日 / 16時33分08秒
父である牧野怜治が死に、その葬儀を執り行っていた時、牧野慶は全てを思い出した。そしてここがウロボロスに似た閉ざされた場所で、延々と同じことを繰り返す箱庭であるということを知る。
それは牧野の中に、偏執的で盲目的な、愛と呼ぶことさえ出来ない激情が芽生えてしまった瞬間でもあった。
PREEMPTIVE ATTACK第一譚 待人、到来
牧野慶 刈割 / 不入谷教会
2003年7月5日 / 17時08分52秒
いつものように子供たちに別れを告げ、遠ざかっていく背を見送ってから入った教会内の空気がいつもと違う。八尾は下粗戸の方へ出掛けているため、ここには自分一人しかいない。だのに、ひんやりとした静謐な教会内の空気が騒めいているように感じるのだ。牧野は、その空気をよく知っている。
逸る思いのまま駆け足で祭壇前の長椅子へ向かい、牧野はそこに、いままでずっとずっと待ち望んでいたその人が横たわっているのを見つけた。黒いスラックスに白いワイシャツ、高価そうなピカピカの革靴を履いた都会の匂いを纏う男。青めいた肌と高く真っ直ぐな鼻梁。今は前髪と瞼に隠れて見えないけれど、その瞳は鮮やかな異国の色をしていることを牧野は知っている。
長椅子にくったりと横たわり、眠っているようにゆっくりと呼吸するその人の目の前に膝をついた牧野は、そうっとその髪に触れた。
「やっと、また会えましたね、大和さん」
父が死んだとき、牧野は『全て』を思い出し、知った。ここが閉じた輪の中で、終わらない場所であるということを。そして未来と、数多の自分の結末を。よくも狂いもせずそれを受け入れたものだ、とあの時の自身を思いながら、牧野は目の前の男の頭を撫で続ける。いくつもの世界で、自分が八尾にされていたように。
男はまだ目を覚まさない。牧野は髪を撫でていた手を滑らせ、少しひんやりとしたその頬を撫ぜる。滑らかな頬を指で撫で、柔らかな唇に優しく触れた。数多の世界で何度も恐ろしい言葉を吐いた唇は、そうとは思えないほど無垢な柔さを持っている。ゆっくりと指先に力を込め、そこを割り開こうとした時、んん、と小さく男が呻いた。
サッと身を離し、牧野はさも今気付いたとでも云わんばかりの態度で「大丈夫ですか」と声をかけ男の身を軽く揺さぶる。
「ん、んー……?」
男は身動ぎしてのろのろとその身を起こした。唸り声を零しながら目元にかかった前髪をかきあげ、目が開く。澄み渡った美しい海の色が、夢現のままゆったりと瞬いて牧野を見つめた。ぼんやりとした眼差しが、次第に困惑の色を濃くしていく。
男はここで目覚める時、いつも混乱を抱いている。それはつい先程まで自身がいた場所と、今自身が置かれている状況があまりに違いすぎるからだ。今まで何度も彼と会話してきた牧野は、目の前の男が今から二年後の世界からこの場に来ていることを知っているし、彼がこれからこの村に齎すものも知っている。だが、彼の方はまだ何も知らない。混乱するのも当然だろう。
「大丈夫ですか?」
「、ああ……大丈夫、なんだけど、ここはどこだ?」
「ここは羽生蛇村の教会ですよ。知らないのですか?」
「知らない……ハニューダってどこ?何県?」
「××県の三隅群にあるんですが……」
「……」
眉の下がった疑問符の散らばる顔は子供のようで、胸がざわついてしまう。にっこり笑んでしまいそうになるのを堪えながら、牧野は必死に心配そうな顔をした。
「あの、貴方は一体どうやってここにいらしたんですか?私はあそこに居たのですが、貴方が入るところは見なかったのですが……」
「……分からない。起きたらここで、目の前にアンタがいたんだ」
「記憶が無い、のですか?」
迷子になった幼子のようにへなりと眉を下げたまま、そうなるな、と男は頷いた。
祭壇前、教会内の長椅子の最前列に並んで座り牧野は約一時間ほど、突然現れた男の話を聞いていた。男の名前は牧野の記憶とは違わず工藤大和であったし、職業も記憶と違わず私立探偵というトンデモ無く胡散臭いものだ。ここに来た理由を覚えていなのに何かしなければいけないと感じているところも何一つ、牧野の知っていることと変らない。笑った顔が無邪気な子供みたいなところも、鮮麗な色をした瞳の力強さも。
ただひとつ牧野に分からないのは、この目の前の男が恐ろしくも美しい存在へと変貌するのか、はたまた何も知らずに翻弄されるままでいるのか、ということだ。
いつかの世界で、彼は全てを知る神の如き存在となって、その全てを滅ぼさんとしたことを牧野は知っていた。数多のモノを身の内に取り込んで、そうして彼は何者になったのだろうか。その身の内に取り込まれてしまったモノの一人である牧野にはそれを知る由はない。けれど、彼に食まれ、飲み込まれ、その身の中で溶け混じりあうあの瞬間の微睡むような甘美さは覚えている。同時に、あの罪人を貫くような熾烈な眼差しも、心を揺さぶり奈落へと突き落とす言葉も覚えている。とても恐ろしくて、気味が悪くて、吐き気を催すほど忌まわしく悍ましい、沼底の瞳も。
変則的にこの村へと現れる彼は、その身の内に黒く蠢くモノを宿した大いなる存在であるか、無毒な行動力溢れるただの青年であるかのどちらかだ。八割方彼は無害な、けれど台風のような破壊力を持って村の全てを引っ掻き回しめちゃくちゃにする、ある意味で恐ろしい存在である。けれど二割の確率で、噎せ返るほどの血の臭いと甘い死臭を纏った人ならざるものとなるのだ。
目の前の男は、一体どちらなのだろう。
「あの、工藤さん」
「なに?」
「その……お名前でお呼びしてもよろしいですか?」
「はは、いちいち聞かなくてもいいのに。じゃあ俺もアンタのこと名前で呼べばいいの?」
「え、ええ!ぜひ!」
「あはは、なんでそんな食い気味なんだよ、変なヤツだなアンタ」
楽しそうにけらけら笑うその顔が自分に向けられているものだというだけで、胸が甘く締め付けられるように痛む。
ああ、なんだってこの人はこんなにも暴力的なまでの魅力を放つのだろう?誰にも奪われないよう暗くて狭い場所に閉じ込めて、自分と彼のたった二人、閉じた世界で生きていきたい。そんな願望がとめどなく溢れてきてしまう。
牧野は穏やかな求導師の顔で、内で燻り粘度を増していくものをそうっと奥へと押し込める。まだ。まだその時ではないのだ。
「大和さん、よければしばらく、私の家で過ごしませんか?その『やらなければいけないこと』を思い出すまででも」
「えっ、えー、ほんとに?いいの?金無いよ?」
「困っている人は放って置けませんし、お金もいらないですよ」
「うわ~ありがとうキュードーシ様!流石神に仕えてる感あるな!何かすることあったら何でも言ってよ」
「なら、教会のお手伝いをしていただいても良いですか?結構やることが多くて」
「オッケー、やるやる」
「ではひとまず、村長さんに挨拶に行きましょうか。その後村の中を案内しますね」
煌く青緑に目を細め、牧野は優しく微笑む。その内に渦巻く淀んだ熱など微塵も感じさせない、求導師然とした顔で。
2020.08.01 | 牧野父の死亡時期は神尾氏の漫画に準拠しました。