??? 屍人ノ巣 / 中央交差点
2003年8月5日 / 19時15分08秒
途方もない暗闇の中で、ただただ曖昧な意識だけがある。己がどこの誰で、ここが一体何処で、己に何が起こったのか、断片的に瞬いて消えていくその様はひとつの映画のようでもあった。随分と遠い、他人事のような感覚。
己と同じ顔が、目の前に立っている。別れを告げた口の歪みは、笑みだろうか。それとも悲しみか、怒りか、はたまた別の感情か。きっと一生解かることはないのだろう。もうきっと一生、交わることも無いのだろう。
真っ暗闇の中、それでも立ち止まってはいられず動こうとして、ふと分からなくなる。今、己は立っているのだろうか?座っているのだろう?それとも横たわっているのだろうか。どこにも、何の感覚もない。立ち上がろうとしても腕の感覚がない。歩こうとしても足の感覚もない。
ひたひたと恐怖が張りついてくる。叫ぼうとして、声が出ないことに気が付いた。気の狂ってしまいそうな現状に、叫びのひとつも上げられない。
ああ、ああ!助けてくれと思う脳裏に過るのは、鮮やかな異国の瞳。何もかも分かっているような顔をして、何もかも見透かした目をした男の顔。彼は今、一体どこにいるのだろう。どうか己を見つけてはくれないだろうか、そうしてこの身に何が起きているのかどうか教えて欲しい―――
「ああ、可哀想に」
内に響くような声が聞こえた。体内で反響するようなその音は、聞き間違えようもない、己のただひとつの心の拠り所となった男の声だ。
ああ、彼が見つけてくれた、見つけてくれた!
何かが触れたような感覚が、どこかにある。それから奇妙な浮遊感のようなものを味わい、温かさを感じた。
何故か、その温度はとても安心するものだった。馴染みがあるようにさえ思う。
ゆっくりと微睡むように意識は沈み、散り散りとなり消えていった。
「まだ足りないなあ」
須田恭也 屍人ノ巣 / 水鏡
2003年8月5日 / 20時57分55秒
突然押し寄せた赤い濁流に飲み込まれ流され、そうして辿り着いたその場所で、須田はようやく美耶子と再び会うことが出来た。
どれだけその瞬間を待ち望んだだろう。背後に立ち、微笑む美耶子に須田も笑みを浮かべた。怯え、惑い、悲しみ、憤り、嵐が吹きすさんでいた心中が、今、とても穏やかになっている。何も恐れることは無いのだとすら思うのだ。
「わたしはずっと、恭也のそばにいるよ」
そうだ、ずっと美耶子はそばにいたのだ。だから声が聞こえていた。だからきっとここまで辿り着けた。
こっちに来て、という美耶子の声に従うまま水鏡へ手のひらをつけると、ぶわりとあふれ出た光に包まれる。そうしてその光が収まる頃、そこには誰の姿も残されていない。
The End and the Beginning, or "Knockin' on God's Door"第二十四災 最後の夜
工藤大和 屍人ノ巣 / 第三層付近
2003年8月5日 / 20時49分37秒
懐中電灯も身を守るためのものも何も持たず、男は屍人たちの作った道をただ歩いていた。ふらふらと、散歩でもするような気楽な足取りで、時折鼻歌交じりに。
辺りは異様なほどに静かで、降り注ぐ雨がトタンを叩く音しかしない。不気味な唸り声も、荒い息遣いも、引き摺るような足音も、鉄を打ち叩く音も、何も聞こえない。あちこちを跋扈していた人の成れの果てたちはどこにも見当たらず、ただ彼ひとりだけがそこを歩いていた。
曲がりくねった道を抜けやや広い通りに出る。時折うろうろと何かを探すように動いていた目が、ずっと先、暗闇の中に光の点を見つけた。その点は揺らぎながら、こちらへ来る。男は足を止め、待った。
「大和!」
喜びに満ちた声は、どこか陶然としているように聞こえた。光の点、懐中電灯を握った誰かが駆け寄ってくる。次第にその誰かの姿が見え始めた。
見覚えのある黒いカソックはあちこち泥や血のようなもので汚れている。カソックを着ていたのは求導師をしている牧野だ。けれどその顔は、牧野と同じあると言うのにどこか雰囲気が異なっていた。
目の前で立ち止まったカソックの男の乱れた髪を優しく撫でつけ、そっと囁くように言う。
「……司郎、言う通りに出来たな、いい子だ」
男は優しく笑んで、その体を抱き締めた。応えるように腕が回され、きつく抱き締め返される。逸れた親とやっと出会えた幼子の如き必死さを感じさせるそれに、男は小さく笑った。
やっと会えた、と安堵の息を吐く牧野、否、牧野の格好をした宮田に、男は身を離し近場の倒壊していない家屋内に引き込みながら何故カソックを着ているのかと問う。宮田は数度瞬きを繰り返し、緩やかな笑みを浮かべた。
「交換したんだ」
「交換?」
「あの人は、俺になりたいと言った。俺が羨ましいって」
―――私の方がずっと長くあの人と一緒にいたのに、貴方はいつもあの人を連れて行く。あの人は貴方のことばかりだ。私のことなんて、見てくれない、貴方がいるから。結局あの人が私によくしてくれるのは、私の顔が貴方と同じ顔だからですよ、貴方と血が繋がってるから、貴方の“兄”だから!だから邪険にしないんだ……。でも最後には必ず貴方の手を取る。どれだけ私が呼んでも、叫んでも、手を伸ばしても、あの人が私の手を掴むことはないんです、私の隣にいてくれることはないんです……!貴方には分からないでしょうね、きっと……。私は貴方が羨ましかった、貴方になりたかった。そうすればあの人は、私のものだった。
「だから交換したんだ。俺が“牧野”で、あの人が“宮田”……俺が求導師で、あの人は人殺しだ」
はは、と笑った顔は冷ややかで、侮蔑の色さえ見える。
「そう」
汚れた頬を指で拭ってやりながら、男は簡素に頷いた。
あの二人には、いつもどちらかの答えしかない。兄が生きるか、弟が生きるか。宮田か、牧野か。両名が揃ってそこにいるということは今の今まで終ぞ無かった。必ずどちらかがどちらかを、淘汰するのだ。そうして殺めた方を内に取り込んでしまう。今回は弟が、“牧野”が残った。それだけの話だ。
「司郎、俺はね、お前が可愛くて仕方ないよ。何があっても俺のところに来て、追いかけてくるお前が、俺は可愛くて仕方ないんだ」
温度を感じさせない手が、宮田の両頬をそうっと包む。近付いた顔、鮮やかな瞳が、爛々と輝いていた。明かりもない真っ暗な室内だというのにそれ自体が発光でもしているかの如く、不吉に、不幸を呼ぶように煌いている。
宮田の目が徐々に虚ろなものになっていく。意識は混濁していき、自分では何も正常に考えられない。
体の力が抜けていき、宮田は硬い板張りの上に座り込んでしまった。それを追うように男も宮田の前へ膝をつく。眼差しから何か体が麻痺するものでも流し込まれているのではないかと思うほど、体は重くいうことを利かない。
「司郎、俺の言うこと、きける?」
「……うん」
「そう、じゃあ、口を開けてごらん」
「……」
間近に迫った瞳に蠢くものを見つけ、宮田はハッと一瞬夢から醒めたような顔をして口を閉ざそうとした。けれどそれは遅く、閉じ切る前に男の唇が宮田のものと重なりぬるりと舌が差し込まれてしまう。そこから何かが這入ってきた。
どろりとしていて、背筋の凍るような悍ましさ。途端、辺りに噎せ返る様な血の匂いと、吐き気のするような甘い腐敗臭が漂い出す。
暴れ出す宮田をのしかかる様にして押さえ込み、男はずるりと舌を抜いた。すぐさま宮田の口を手のひらで押さえ込み、「駄目、受け入れるんだ、俺を拒絶しないで」と甘く囁く。男の顔にはぞっとするほど美しい笑みが浮かんでいた。
まただんだんと宮田の体から力が抜け、ぐったりと四肢を投げ出される。その目は虚ろに漂っていた。
「お前は本当にいい子だね……司郎、俺が迎えに来るまでここにいるんだ。いいな?」
こくんと人形のように頷き、その目はゆっくりと閉じられる。男はひとつ笑みを残して、去って行った。
2018.12.29