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須田恭也 宮田医院 / 第一病棟診察室
2003年8月4日 / 16時03分07秒

ゆらゆら揺蕩うように浮き沈みしながらも、意識は徐々にはっきりとしたものになっていった。何か、夢のようなものを見ていた気がする。それがどんなものだったか何も思い出せないけれど、誰かが何かを言いながら禍々しく笑んだことだけは覚えていた。
そうして開いた目の先にある薄汚れた天井に、須田は一瞬混乱の渦に落とされる。ここはどこだ、自分の部屋じゃない!それからすぐに己が突き落とされた状況を思い出し、飛び起きた。

「美耶子……!」

跳ね起き辺りを見回して、そこが先程までいたはずの場所ではないことに気付いた。
簡素なベッドに机、パーテーション、瓶の並ぶ硝子棚……。病院、だろうか?パーテーションで区切られた向こう側から、微かに呼吸音は聞こえてくる。
しばし辺りをじろじろと見回し、目を閉じた。ここに来て初めて出会った人である求導女に教わった通り、ぐっと意識を沈めるようにして辺りに巡らせる。気配を感じたら、それを捉える―――。

『すっげえ今更だけどさぁ、あんな古い針使って平気なもんなのか?いくら密閉されてて綺麗に見えても三十年経ってんのよ?』

彫の深い顔立ちの鮮やかな青緑の瞳をした男が、少し心配そうな顔をしてこちらを見ている。点々と血らしき赤黒い斑点の飛んだ白いワイシャツが、少し不気味だ。
誰もいない廊下を歩いているようで、時折男は手にした鉄パイプをぷらぷらと振っている。

『あのまま放っておけば死んでいた。背に腹は代えられないだろう』

視界の持ち主がそう答えながら、ひとつの扉に手を掛けた。がちゃん、と戸の開く音が二重に聞こえる。固い革靴の音。ハッと目を開けると、汚れた白衣を身に纏った男と、汚れた白いワイシャツを身に纏った男がこちらを見ていた。
白いワイシャツの男と目が合った途端、なにか、安堵と親近感のようなものと懐かしいものをみたような感覚が胸の内に湧きおこる。爛々と力強く輝く瞳。この目を、どこかで見た気がした。どんと強く背中を押して、やっちまえ、と笑った顔が何故か浮かぶ。

「あの、ここは……」
「病院だ」
「病院……」
「谷で死に掛けてるとこ拾って手当したのよ、このお医者様が」
「そう、なんですか……ありがとうございます」
「ところで、須田クン」

ベッドの脇に置かれていた丸椅子に、どっかりと腰を下ろしながらワイシャツの男が須田の顔を覗き込んだ。驚き身を引くのと同時に、何故名乗った覚えもない初対面であるはずの男が己の名を知っているのかと鬼胎を抱く。

「何で俺の名前、知ってるんですか」
「そりゃあお前のことを知ってるからだよ。お前がネットのオカ板見てここに来たことも知ってるし、石田をトラックで轢いたことも知ってるし、田堀にある家でミヤコと血の杯交わしたことも知ってる。お前が全部教えてくれたんだぜ、須田恭也」

どろどろぐるぐる、目の奥で黒々とした何かが蠢いている。底の見えない穴の中を覗き込んでいるような不安感、緊張、恐れ。そして男から微かに漂う血と妙に甘い臭いがより須田の恐怖心を煽る。
目が合った時に感じた親しみなどあっという間に吹き飛ぶ。この男は何だ、何か、とんでもないものを前にしているのではないか?

「光柱も出ちまったし、そろそろ始まるんだ。なあ、お前のミヤコを連れて行ったのは誰だ?」

幼い子供に問いかけるような柔らかな声が、どうしてこんなにも恐ろしく聞こえるのだろう。



* * *


宮田司郎 屍人ノ巣 / 第三層付近
2003年8月4日 / 23時45分31秒

もうどれくらいの時間歩き続けているのか分からない。度々休憩は挟んでいるが、それでも随分と長い間歩いているのではないだろうか。だというのに、どうやら大和が目的地としている場所には辿り着けていないようだった。彼本人も、辿り着けるか分からないと言っていたくらいだ、かなり分かりづらい場所なのだろう。間に合わないかもしれない、とも言っていたが、何に間に合わないのかは聞いていない。きっと聞いてもよく分からない答えが返ってくるだけであろうから。
そしてどうも大和は気が立っているようで、出くわす異形を尽く地に沈めている。目指す場所に辿り着かないことに苛付いているのかと思えば「腹が減った!」のただ一言である。ついでに言えば「喉も乾いてる!」だ。
まるで子供のような大和に、宮田は些か呆れながらついて歩いていた。

「もー!なんなんだよこの違法建築!わっけわかんねえ!もう絶対間に合わねえしよぉ……壊すか」

あっちに行ったりこっちに行ったり、上下左右に曲がりくねり方向感覚や現在地を狂わせる迷宮のようなつくりのこの場所は、香港の九龍城塞を彷彿とさせる。まさしく違法建築、巨大迷宮。
大和が苛立たし気に振るったパイプが木の板と細い柱を薙ぎ払う。途端、支えを失ったトタンや木の板、鉄板たちが崩落しひとつの道が潰れてしまった。

「……何をしているんだ」
「行き止まりをぶっ壊した」
「胸を張るな、阿呆。諸共崩れたらどうする」
「そんときゃそん時で考える。……あ?」
「なんだ」

宮田の背後に目を凝らす大和に、自身も振り返り見る。しかしその先は曲がりくねり幾つにも分岐した細い道が方々に散っているだけで、何も分からない。

「どうした」
「今、子供が走ってった気がする」
「追うか」

しばしじっと薄暗い道の先を見つめていた大和は、短く息を吐き「いい」と首を横に振った。多分後で見つかる、と小さく零し、そのまま踵を返し歩き始める。少しばかり疲れたように息をついて、宮田もその後を追った。
先程と打って変わってむっつりと黙り込み、何か別のものに意識を引っ張られているような顔に宮田は何故か少し、嫌な予感がしていた。嫌な予感というか、胸騒ぎ、僅かな居心地の悪さ、そういった類の、少々落ち着かないような心地だ。何か良くないことが起こる前触れのような。
不意に大和が足を止めた。
何処からか、オルガンのような音が聞こえてきた。讃美歌にも似たその音楽のそれに、ああ、と彼は薄く笑った。何かを確信し、諦めた笑みだ。それからすぐ、何かの甲高い鳴き声が響く。

「なあ、司郎」

振り返った彼の瞳は、光量の少ない場所だというのに、冴え冴えと、爛々と輝いて見える。けれどそれは決して美しい煌きではない。不気味で、悪夢のような冷たさを纏った陰鬱としたものだった。
一歩距離を詰め、それがこちらを覗き込んでくる。

「俺の言う通りに出来る?」

少しずつ頭の中の靄が濃くなっていく。何も考えられず、訳も分かっていないのに男の思うがまま、望むがままに体が動いていた。こくりと頷いたのを見た男が、うっとりするほど甘やかな笑みを見せる。「いい子だ」と囁き、宮田の手に何かを握らせた。
冷たい金属質の感触。宮田はのろのろと手元に視線を落とした。

「合石岳の門の鍵と、サイレン小屋の鍵だ」
「鍵……」
「波羅宿の耶辺集落の井戸に爆薬がある。それを持って合石岳に行くんだ。坑道にダイナマイトの起爆装置がまだあるから、それであそこの水門を爆破してほしい。できるな?」
「……わかった」

優しい手つきで男は一度、宮田の頭を撫でた。

「時間が掛かってもいいから、生きて俺のところへ戻っておいで」

そう言いながら頬に手を添え、宮田の額へキスを送る。一瞬触れた唇は、異様なほどに冷たいものだった。
そっと頬から手を離されたとき、立っていた場所がぐらりと揺れどこかがバリバリと大きな音を立てるのが聞こえた。あ、と思った時には強く体を押されよろめきながら後退し、そうして足場が崩れ、落ちる。

He was aware that he was incompetence.第二十一砕 堕辰子、誕生


牧野慶 屍人ノ巣 / 第四層付近
2003年8月5日 / 3時48分06秒

自分の行おうとしていたものが何だったのか目の当たりにし、最早依存していたと言っても良い人物の恐ろしい面を目の当たりにし、牧野の精神はほとんど限界に達していた。よろよろと今にも倒れ伏してしまいそうな足取りで、虚ろな瞳に真っ青な顔をして訳も分からないままに歩く。その様はまるで死人であった。
半ば閉ざされていた狭い空間から自分がどうやって抜け出したのか分からない。分からないまま、牧野は拾った懐中電灯を手にふらふらと狭い通路を歩いていた。
何個目かの通路を右に曲がると、屋根部分の崩落した小さな小屋のようなものが目前に現れた。その小屋の中に幾つもの板とトタンを下敷きに、誰かが横たわっている。薄汚れたワイシャツと黒いスラックス。顔は見えない。けれどそれが誰なのか、牧野にはすぐに分かった。

「……工藤さん?」

周囲に恐ろしいものがいないか懐中電灯で執拗に確認しながら、牧野は横たわる男、大和へと近寄った。胸が上下に動いている。ああ、生きているのだ。隣へしゃがみ込み、胸に手のひらを押し当てればしっかりとした脈が感じられ、牧野は安堵の息を吐いた。

工藤さん、大丈夫ですか工藤さん」

どこか怪我をしていてはいけない。なるべく優しくその体を揺すると、微かな呻き声が聞こえてくる。目元にかかる前髪をそうっと指先で避ければ、白い瞼がゆるゆると持ち上がるところであった。
美しい海色の瞳。それが己へと真っ直ぐに向けられている。そう理解した瞬間、苦しいほどの喜悦と安堵が牧野の胸を埋め、涙が零れ落ちた。私には、この人がいるのだ。私には、この美しく強い人がいる。

「う、うぅ、工藤さん、工藤さん……」

いい年をした男がまるで幼子のように泣きじゃくりながら胸へと縋り付いてくる。今しがた意識を取り戻したばかりの大和は混乱し、疑問符で脳を埋め尽くしつつも、不規則な呼吸を繰り返すその背を撫でた。

「なに、マキノ、どうしたわけ、なにごと?」
工藤さん、わ、私には、工藤さんだけしか、いないんです……っ」
「えぇ……なに、怖いんだけど。ていうかお前のせいでワイシャツべちゃべちゃなんですけど……」
「……ごめんなさい」

離れて、と肩を押されべそべそとまだ泣きながら、牧野は身を起こした。少し心配そうに眉を下げながらこちらを覗き込むように見てくる彼に、牧野を怯えさせていた悍ましさはない。地面に落とされた懐中電灯の光を受け、仄かに煌く瞳は透き通った色をしている。
ああ、私の知る工藤さんだ。牧野は強い安心感にへらへらと笑ってしまった。

「なんだよお前、泣いてると思ったらへらへらしてよぉ……子供かよ。ていうか、ここどこ?」
「わかりません……」
「どうなってんだ、司郎もいねーし……」

す、と大和の表情から色が抜け落ちる。強張った顔で何かを思案している。

工藤さん?」
「なあマキノ、リサって子はどうした?」
「……何、言ってるんですか」
「何って」
「お、覚えてないんですか」

困惑の表情を浮かべる大和に、牧野は愕然とする。あんなものを目の前で見ておいて、覚えていない?そんなことがあり得るのだろうか?

工藤さん……どこまで、覚えてますか?」
「どこまでって、リサとお前と診察室に入って……」
「そのあとのことは……?」
「わかんねーけど、司郎と会って、でももうお前とリサはいなかった、気がする。ああ、高校生くらいの男とアンノって呼ばれてた女が病院にいたな。それで、司郎とここにきた。声が……声が聞こえて、」
「……」
「ああ、くそ、なんだってんだ」

誰だ、と小さく言った大和だが、すぐに振り払うように頭を振り、立ち上がった。

「どうせ考えてもわかんねーからやめよう!よし、俺はヤオを捜すけどお前はどうすんの」
「わ、私も行きます!」
「いーけど、邪魔だったら捨ててくからな」

片眉をあげにやりと笑うと颯爽と歩きだしてしまった大和に、牧野も懐中電灯を握りしめ慌てて立ち上がり、後を追いかけた。
2018.12.02